46.居たたまれない温もり


 お昼休みで、ほんとうによかった。
 どなたさまにもお会いすることなく、職員棟へたどり着けた。
 先生方も食事に出かけていらっしゃるのだろう、職員棟の建物内はとても静かで、すこしほっとした。
 このまま来てしまったけれど、この状態をどううまく説明したらいいのやら…
 ほんとうのことは、言いたくない。
 面白がりで笑い上戸の柾先輩を想い出すと、深いため息がこぼれそうになった。
 どうしたものかとノロノロ歩き続けていたら。

 「遅い!」

 「第2保健室」というプレートが掲げてある部屋の前で、仁王立ちしている柾先輩が見えたと想ったら、急に鋭どい声をかけられて肩が僅かに震えてしまった。
 「こっちは4限体育で超腹減ってるっつーのに、んでこんな遅ぇんだよ?!まさか迷ってたとか?」
 どうやら、お腹がぺこぺこ過ぎてご機嫌ナナメらしい。
 そんなの、俺の知ったこっちゃないのですが。
 「…知りませんよ…迷ってないですし、柾先輩の時間割など俺には関係ありませんから。そもそも今日は武士道の日じゃないですか。急な予定変更をギリギリで知らされて、俺は寧ろ戸惑いを禁じ得ません」
 神経がピリピリしているのは、自分でもわかっていた。
 心に、余裕はない。

 皆さんが配慮してくれて、こういう事態になったのだろうけれど、細やかな動向に目を向けられない。
 想っている以上に尖った声、言葉が飛び出してしまい、はっと口をつぐんだ。
 1番大変そうな責を負っておられる柾先輩に対して、なんて口の聞き方だ…
 怒られるだろうか、呆れられるだろうか。
 柾先輩にはそもそも面白がられているだけだから…
 あっさりと嫌われてしまうのだろうか。
 ここへたどり着いてから、いつでもまっすぐで強い瞳を有しておられる先輩と、視線を合わせることができない。
 合わせられないまま、目線を落とし、嫌な態度を取った俺に対する先輩の判断を待った。

 「……陽大、お前、」
 ふと、顔に影がかかって、びくっと全身で身構えた。
 ぽんっと。
 明らかに強張っている俺を気にしないように、頭の上に温かな重みを感じた。
 何だろうかと想って、恐る恐る視線を上げたら。
 おおきな手が頭を撫でていて。
 想わず合わせた瞳には、淡々と静かな表情が宿っていて。
 「どした?そのザマ」 
 怒りでも憐れみでも蔑みでもない、事実をただ、ありのままに受け入れる瞳の深さに、ずっと消えなかった緊張が解けた。

 解けて、それで、うまく嘘を吐けたことに、自分で笑えた。

 「…ちょっと、派手に転んじゃいまして?それで落ちこんでるだけです」
 浅はかな思惑通り、すこし目を見張った後、柾先輩はいつものごとく吹き出した。
 「ぶはっ、どんだけ派手なすっ転び方だよ…!お前、鼻の頭まで赤いし…!つか、まさかの2度転びしてね?制服、前も後ろも埃ってるし!」
 「…すみませんね、鈍臭くて」
 爆笑しながら、柾先輩は俺の全身をそれは愉快そうにくまなく観察し、制服についた埃を断る間もなくさっさとはたいてくれた。
 「あー…腹減ってんのに笑わすなっつの…」
 「柾先輩の腹の虫事情は俺には関係ありませんけど?」
 びっくりするぐらい、いつもと変わらない空気感に、ひどく安心している自分がいた。

 「腹の虫事情…!だから笑わすなっつの。つか、怪我は?どっか痛い所とか無えの?」
 安心していたのに、一瞬、真摯な眼差しを向けられて、背中がヒヤリとした。
 「えぇと…足が、ちょっと…」
 すべてを見透かすような強さ、ごまかせない瞳に促されるように口ごもった。
 「ん、そっか…ここまで歩けてんなら大事には至らねえだろうが。丁度良かった、保健室で。行くぞ」
 「は、はい…でも、職員棟の保健室ということは、生徒は利用できないのでは…」
 「此所に生徒が居る時点でおかしいっつの。それ、貸しな。あーマジで腹減ったー!」
 抱えていた紙袋を取り上げられて焦った。
 「あ、あの!転んだ時に、お弁当も転落して…!中、ぐしゃぐしゃになってると想うので、」
 昼食がまだなら購買か食堂なり利用したほうがいい、風呂敷でカバーしているけれど、風呂敷自体もあふれて来た汁気で限界に近づいていると、伝えたかったのだけれど。

 「直接床に落ちてねえんなら食えんだろ。ほら、行くぞ」

 ぽふぽふっと。
 やわらかな重みが、頭にかかった。
 この人の手は、ずるい。
 なんで1学年しか差がないのに、こんな、大人みたいにおおきくて温かい手なんだ。
 そして、人の頭をなんだと想っているのだろう。
 撫で癖でもあるのだろうか。
 ちょっとばかり貴方さまより背が低いだけ、発育が遅いだけじゃないですか、俺だってまだまだこれからの男ですから、子供扱いは止めてほしいものです。
 数歩前を行く広い背中を見つめながら。

 いつ会っても、柾先輩は柾先輩なんだなぁと、当たり前のことを想って、力が抜けて、頬が緩んだ。



 2011-04-21 22:47筆


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