18.散り往く桜に心が痛む


 風が、吹く。

 春嵐のように、辺りの桜の大木を全て、ごうと揺らして吹き荒ぶ。
 まだ微かに冷たい風が、裏庭中を駆け巡って往く。

 見るべきではないのに、見てはいけないのに。
 そっと立ち去るべきなのに、俺の足は、ここへ縫い付けられたように僅かも動かなくて、心だけ焦っていた。
 留まり続ける足の所為で、視界に、風紀副委員長さまの姿が映る。
 風に煽られたたくさんの桜の花びらが、副委員長さまの全身を撫でるように、包むように、触れながら舞い落ちていく。
 けれど副委員長さまは、身じろぎひとつしない。
 花びらを避けることもせず、ただまっすぐ、前方を見つめていらっしゃった。

 俺が追うべきではないその視線の先には、背の高い男の人の後ろ姿。
 微塵も振り返らず、足早に立ち去って行く後ろ姿。
 遠目にもがっしりとした体躯の背中は、花びらに遮られ、どこか哀しく見えた。

 その背中をずっと、見つめ続けておられる、副委員長さま。

 桜色に護られるように包まれて。
 
 そのまま、桜色に儚く溶けてしまいそうに。

 穏やかではない会話の断片、俺の心も自分勝手に痛む光景であるのに、副委員長さまの姿は、とても綺麗だった。

 こんな盗み聞きのような真似をするべきじゃない。
 風が去ったと同時に、夢幻の世界は消え、我に返った。
 衝撃と動揺で震える足を叱咤し、どうにか立ち去ろうとした。
 俺は、何も見なかった、何も聞かなかった…
 そうっと慎重に後ずさったつもりだった、なのに盗み聞きの天罰が下ったのか、足が砂利を踏み、驚く程大きな音が辺りに響き渡った。

 「……誰だ?」

 気づかれた…!
 訝し気な表情の副委員長さまが、すぐこちらへやって来られた。
 食堂の時は眼鏡を掛けていらっしゃったのに、今日は眼鏡じゃない…
 人間、パニックに陥った時は、どうでもいいようなことに視点が動いてしまう。
 すぐ側まで来られた副委員長さまの、皺ひとつなく清潔な白いボタンダウンシャツが、よく似合っておられるなあとか、そんなことまで想っていた。

 「君は…前陽大君。こんな所で一体何を…迷ったのかな?」
 目を見張る副委員長さまは、ほんとうに、なにごともなかったようなお顔をなさっておられて。
 食堂でご一緒した時と変わらず、休日でも、びしっと折り目正しい雰囲気で。
 さっき在ったことは、全部、ほんとうに俺の白昼夢だったかのように、自然に存在しておられる。
 あの、悲痛なお声は、まだ俺の耳の奥に残っているのに。
 懸命に想いを、言いたいことを堪えて、平静を装い明るく紡がれた別れの言葉は、新鮮な記憶だ。
 まだ、風の名残は残っている。

 でも1度きり昼食を…成り行きとも言うのか…皆さんでご一緒しただけだ。
 親しい間柄ではない。
 ただの1後輩に過ぎない俺は、だから副委員長さまに殉じて、速やかにここを立ち去るのがほんとうだ。
 「……あの……こんにちは」
 「?こんにちは」
 「え、と……あの…、散策をしていまして……その、今から帰る所、なんです…」
 「散策…?迷った訳じゃないなら良いが…気を付けなさい、君はまだこの学園の事をよく知らないでしょう。この近辺には生徒会長のテリトリーも存在する。休日だから人目はないが、」

 冷静な言葉を発しておられた副委員長さまは、ふと、途中で言葉を止めて、俺をまじまじと見つめた。
 「あの…?」
 驚いたような色が浮かぶ瞳に戸惑っていたら。
 「君、どうしてそんなに泣きそうな顔をしている…?」
 目の前が、まっ白になった。
 いや、桜色に染まった。
 また、強い風が吹いて、副委員長さまと俺の間を通り抜けて行ったから。

 「やはり迷ったのでは…?まさか、既に昴と出会した?」
 違います、副委員長さま。
 生徒会長さまにも、双子さんにも、たなかさんにもお会いしましたけれど。
 そうじゃなくて。
 黙りこむ俺を、副委員長さまは心配そうに覗きこんでくださった。
 優しい御方なんだろう。
 入学したばかりの後輩を労る空気が伝わってくる。
 いや、優しい御方なんだ、きっと。
 相手をいつでも想い遣ろうとする、きめ細かな感性の方だからこそ、あんなふうに……

 「前君…?何かあったのならば、俺で良ければ聞かせて貰う。風紀としても見逃せない」
 「……副委員長さまが、」
 「俺が…?」 
 「副委員長さまが、泣かないから、です……」
 見開かれた瞳には、驚きしか存在していなかった。
 「……見て、いたのか……」
 「…ごめんなさい……ほんとうにごめんなさい。誰かいらっしゃると想って、すぐに立ち去るつもりだったんですが、動けなくて…すみません」

 軽く息を吐かれた、副委員長さまに先程までと異なる変化はすこしもなくて、それが更に心の奥を鈍く突き、痛かった。
 「…いや、君が謝る事は何もないよ。驚いただろう?誰も居ないと勝手に判断して、公共の場で話を始めたのは俺だ。悪かったね」
 「そんな…!副委員長さまは何も、」
 ゆるりとかぶりを振られ、苦笑のように微笑いながらも、副委員長さまは穏やかだった。


 「君はこの学園の悪習を何も知らないだろう…?丁度良い、君まで犠牲にならない様に、俺から少し話しておこう」



 2010-09-12 23:04筆


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