51.実はお母さんは


 すっかり満足した俺は、のんびりとお料理にセットされていた、有機ほうじ茶を味わった。
 ああ、おいしい…
 香ばしくって、ほろ苦くもさっぱりした飲み口でおいしい…
 しあわせなお昼ごはんだったなぁ〜いつもはしがない庶民の俺も、余は満足じゃ!と殿様気分にまで上がってしまう、おいしいごはんの威力の凄まじさよ…!
 素敵なレストランで、素敵な皆さまに囲まれて、なんてしあわせなことでしょう。

 それにしても、しかし。

 「……このお料理、どなたさまが作られたのやら……」

 旬の素材をふんだんに使うところ、野菜の皮も根も大事に活かすところ、素材同士の組み合わせ方、しっかりついた下味、塩加減など、プロの仕事に脱帽するしかないのだが、気になることがある。
 お茶を飲みながら、ひとり首を傾げていた俺に、傍らから天啓が下りた。
 まさに、天啓としか言えない。
 低いながら、恐ろしいぐらいの美声だったのだから。


 「あ?それなら、食堂の監修を担ってる1人、実際日替わりでキッチンに立ってるシェフの創作メニューだろ。今日は金曜か、なら確か、山本春明(やまもと・はるあき)シェフじゃね」


 なんですって…!!


 俺に天啓を与えて下さった、生徒会長さまの御声を聞き終わった瞬間に、自らの意思も何もない、反射的に立ち上がっていた。
 「ごちそうさまでした」
 「「「「「早っ!」」」」」
 「はるる〜チョット待ってよ〜話足りねーし」
 「前、おい…」
 皆さまが口々になにか仰っておられる、それが自分へ向けられたものだと意識することも適わず、ふらりと俺はテーブルから離れた。
 
 俺の全神経は今、ひとつどころに集中している。

 俺の身体中の細胞も感覚も意識もなにもかも、すべて、ひとつに捧げられている。

 何人たりとも俺を妨げることはできない。

 唯一の妨げは、俺の良心だけだ。

 (此所は公共の場、此所は公共の場、此所は公共の場…)
 (此所は素敵なレストラン・此所は素敵なレストラン・此所は素敵なレストラン…)

 心の中で何度も念じながら、けれど、足は自由自在だ。
 目的の場所へ一心不乱に向かってしまっている。
 わかっていながら、止められない。
 自分が不甲斐ない。
 ごめんなさい。
 俺は既に、このレストラン内で騒ぎ立て、皆さまにご迷惑をお掛けしてしまった前科者。
 わかっております。
 重々にわかっております。
 だから、狂信的なファンの心理はわかっても、そのような行いは為すまいと心に誓っているのです。

 だけれども。

 自分の好きな人が、今、この同じ空間の中に存在する。

 遠い存在だった、尊敬し敬愛して止まない、ひっそりと慕って来た対象者が、今、こんなにも近くに存在する。

 その事実は、俺を湧き立たせるんです。

 強引な乱入、乱闘する気は毛頭ございません。
 お話したいとか、近寄りたいとか、握手をとか、厚かましい願いは夢見ても、実行して困惑させる様な真似は致しますまい。
 ただ…
 ただ、すこしでも、動いているお姿を拝見できたならば!!
 すこしでもお姿を、遠目でいい!ぼんやりとでも拝見できたならば!!
 ああ、出待ちなさるファンの皆さまって、こんなにも切なく歯がゆくドキドキするお気持ちなのだろうか…?!
 心臓が保たない、体温の上昇も止まらない!!
 
 俺を現実に妨げるのは、厨房とホールを隔てる厚い木材の壁。
 中が見えないようにそびえ立つ、この壁1枚の向こうには…!!
 かすかに物音だけが聞こえてくる…
 カチャカチャと金属が重なる音、なにかを洗う水音、油が高温に熱された上を踊る食材の音…
 胸が、高鳴る…!!
 そのいずれかの動作を、為さっておられるかも知れないのだ。
 俺がいる、この同じ空間で、この壁の向こうで…!!

 あ、なんだか倒れそうかも…

 俺の浮ついた不審な行動に気づかれたのか、レストランを訪れた時から接してくださっているウエーターさんが、心配そうに近寄って来てくださった。
 「どうか為さいましたか…?もしや、お料理に何か不手際でも御座いましたか?」
 わーわー、まさか!!
 そんな、とんでもありません!!
 「い、いえっ…す、すみません、こちらこそ!騒いだ上に、食事が終わったにも関わらず長々と居座り、挙げ句お仕事の邪魔になる位置へ立って…申し訳ありません、すぐに退出致しますので…お料理はとってもとってもおいしかったです!創意工夫に満ちていて、旬の味覚もふんだんに取り入れられており、甘辛苦酸っぱいのバランスもよく、大変おいしく頂きました。初心者の俺などにも丁寧に接してくださって、ほんとうにありがとうございました。で、では失礼致します」

 これ以上、ご迷惑をお掛けするわけには行かない。
 一時の甘い夢から醒め、俺は早々に退散しようとした。
 「お待ち下さい。お料理をお気に召して頂けて光栄です。ありがとうございます。何か気になる事がある様でしたら、こっそりお窺い致しましょうか」
 振り返ったら、ウエーターさんのにっこり笑顔。
 なんだか、いたずらっぽいお茶目な笑顔で。
 つい、俺は口にしてしまった。
 「じ、実は俺……自分で料理するのが好きで…こちらの『金曜日の創作和風料理膳』、俺の尊敬する料理人の方が作られたと聞き、居ても立っても居られなくなってしまって…」
 「左様で御座いますか!山本シェフならまだ居ますよ。生徒さんにシェフのファンの方が居らっしゃるなんて、きっと喜ばれます。呼んで参りますね」

 えっ…?!

 二の句を告げないまま、ぽかんとする俺を残して。
 ウエーターさんは、俊敏な動作で壁の向こうへ去ってしまわれて。


 「…あぁ〜?俺を知ってる生徒が、ついさっきの騒ぎの張本人だって?ったく…どんなお坊ちゃんだ…」


 え!
 え!

 きゃあああ!



 2010-08-01 23:08筆


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