彼女がついに壊れた。




以前から奇想天外な性格だとは思っていたが、しかし。まさかここまでだったとは。




「捨てちゃった」



彼女の部屋に入って絶句した俺に向かって吐き出されたのは、それはそれはすがすがしい一言。

入居する前と全く同じ状態の部屋を茫然と眺めて漸く彼女の発する“捨てちゃった”の意味を理解した。




「・・・捨てちゃったって、え、まじ?ドッキリ?むしろお前正気?」

「うん。至って正気だよ」




まるで何てことはない、とでも言いたげな爽やかな笑顔でそう告げる彼女に俺は思わず目頭を押さえる。

昨日まであったソファやベッド、生活用品、テレビ、挙げ句の果てには冷蔵庫まで、まさに生活に欠かせないであろう全てがなくなっていた。目の前に広がるのはフローリングの床と白の薄いレース調のカーテン。


ベランダに続くガラス戸は全開に開け放され、夜の風が部屋に吹き込む。


少しの沈黙。


春の風の匂いを感じながら、俺は閉じていた瞼を少し持ち上げた。




「・・・バカだろ」



心の中で盛大に叫んだ言葉はどうやら口から漏れ出てしまったようで、彼女は振り返るなり心外だとでもいいたげな顔で俺を睨んだ。

何だその顔。


発狂しなかっただけでもありがたいと思ってほしい。




「あたし真剣に考えたの昨日。」

「・・・何を」

「生きていくうえで何が必要かなって」

「・・・うん」


そう言いながらフローリングに寝転ぶ彼女の顔はいつになく真剣で、とりあえず横に座って次の言葉を待つ。



「そうしたらさ、何もいらないなぁって思ったの。うるさいテレビも、ふかふかのベッドも、冷蔵庫だって、ぜんぶぜーんぶ。だから、ポイっ」



両手を天井にあげてまるでバスケットボールをシュートするみたいに手を動かす彼女に、本日何度目かのため息。


電気さえ点けていないこの空間を、窓から射し込む月の光が部屋を照らしている。

開け放たれた窓から響いた車のクラクションが、酷く場違いな音に聞こえた。


全く不思議な異空間に来たような錯覚を覚えながら、しかし俺は彼女に現実というものを教えなくてはならない。



静かに彼女の名前を呼べば、大きな二つの瞳がこちらを射抜く。



「なぁに?」

「…あのね、全部とは言わないけどさ、最低限生きていく上で冷蔵庫くらいは必要だと思うよ」

「どうして?」

「どうしてって…」


食べ物がないと人間死ぬだろ。
そこでまた頭を抱えそうになった俺に向かって彼女は凛とした声で言い放った。




「君があたしの名前を呼ぶ限り、あたしは君の中に生きてる。」

「―何言って、」

「君が、あたしの名前を呼ばなくなったその瞬間に、君の中であたしは死んじゃう。」


“そういうことだよ”


そういって笑う彼女に、どういうことだよと突っ込みたくなった。



「まあ、そういう結論に達したから、だから、他のものは捨てちゃっても生きていけるんじゃないかなぁと思って」



だから捨てちゃった。



「…そうかよ。」





よくありがちな恋や愛の歌に出てくる歌詞のようなセリフを何の恥じらいもなくスラスラと言うもんだから最早返す言葉もない。

けれど、勿論彼女が何かのヒロインを気取って言っているのではないということを長く連れ添ってきた俺は知っている。
彼女はいつだって本気。
何をやるにも本気。
全力投球。
本気で、そう思ったから言葉にしているだけ。だから今回だって本当にいらないと思って捨ててしまったのだ全部。

映画のヒロイン気取りはきっとそこまでやらないだろう。


そうしてまた静かになった部屋に風が吹き込む。

寝転がる彼女の艶やかな黒髪を撫でてやると気持ち良さそうに目を細める。
猫みたいだなぁとぼんやり思いながらも、柄にもなく彼女に出会えたことに感謝した。



だってきっと、
彼女がいなければ、
出会わなければ、


月がこんなに明るいことも、風がこんなに気持ちいいことも、夜がこんなに静かだってことも、人間というものがこんなにも愛おしいと思えることにすらきっと気付かなかった。





「じゃあ、俺がずっとお前の名前呼んでやるからさ」





“与えられた名前だけは大事にね”





君のお母さんとお父さんがきっと一生懸命考えてつけてくれた名前だと、そう思うから。



「それだけは捨てちゃダメだよ」

「うん、わかった」



たまらなく愛おしい彼女と、
静かな夜長に手を繋いで。











とりあえず食べるものだけはどうしたって必要だということを何とか説得しなければと思った。





×××



正臣×女の子





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