三章の能天気な葉隠康比呂
「…………」
「3階のロックが解除されたんだって。……聞いてる?」
「……?」
「大丈夫? って、こんなこと聞くもんじゃないよね。えっと……」
「……うん。行こう、3階。今度こそ出る事が出来るかもしれないから」
少しだけ困ったように笑いかけてくれた苗木くんの横を通り抜けて、上へと続く階段を登っていく。
少し後ろから苗木くんの足音が聞こえてくる。
油断をすると踏み外してしまいそうになる。覚束ない足元に憤りを感じて、地面を蹴ってしまう。痛みよりも、胸に空いた広い空洞のような虚しさが勝っていた。
「遅いぞ。何をしていた」
「ご、ごめん、十神クン」
「お前もだ。カビ臭い雰囲気を今すぐ払え」
「…………」
うざったそうに私を睨み付けてくる十神くんを、なんとか宥めようとひょこひょこと動く苗木くんが見えた。
この人は、よくこんなにも怒れるものだ。
「すみません。雑用押し付けお願いします」
「フン……つまらないな。お前はもういい。寄宿舎に戻って大人しくしていろ」
「はあ……?」
「ま、まあまあ! 十神クンもキミのこと心配してるんだよ! 顔色が良くないから……」
わざわざ3階まで登らせておいて、とぐちぐち言いそうになる前に、苗木くんが苦笑交じりにフォローを入れる。
そのフォローにも文句を言いたそうにイライラした様子の十神くんに背を向けると、私は言い付けられたように大人しく寄宿舎へと戻る事にした。
「はあ…………」
なんとなく個室に戻って一人になるのが嫌で、寄宿舎前でウロウロとしていると、ふらふらと葉隠くんが階段を降りてきた。
葉隠くんは私に気付くと、駆け足で寄って来る。
「ぅおーい!」
「うん」
「はー、よかった! 一人は心細いと思ってたんだ!」
「うん?」
「トイレ! お供頼んだべ!」
にっかりと歯を見せて笑った葉隠くんに、なんだか力が抜けていく気がした。
緊張感というか、恐怖心や猜疑心といったものが全く感じられなかった。
完全に油断しきった表情をして、私に背を向けた葉隠くん。
「葉隠くんがトイレ行ってる間に、どうなってもしらないよ」
「アイスバケツチャレンジでもするのか!?」
「……なんでもない。待ってるから」
葉隠くんと話してると、暗い自分が馬鹿らしくなる。
不思議そうに小首を傾げ、男子トイレへと入っていく葉隠くんの背中が、どうしてかいつもより広く見える。
頼もしい……とは少し違う。頼りに出来るわけじゃないのに、どうしてか強張った心が段々解されていくような感覚だ。
「ふんふん! 待たせてすまん!」
「手洗った?」
「バッチグーだべ!」
トイレから出てきて上機嫌の葉隠くん。
この人を見ていると、まだ自分に自信が持てる気がする。
「葉隠くんのこと待ってたら食堂にみんな入って行ったんだけど」
「ほお。何か話するんじゃねーか? 行くべ!」
「……うん」
「遅い。またお前か」
「私じゃなくて葉隠くんに怒って下さい」
「ええ!? オレっちなーんもしてないだろ?」
「まあまあ、ね! 二人とも座ろうよ」
苗木くんに宥められながら空いた席に座ると、3階での報告会議が始まった。
「なあ、なんで十神っち怒ってんだ?」
「葉隠くんのトイレが長いせい」
「なんでそれで怒るんだべ? トイレの長さなんて決められねーのにな!」
「ばかじゃないの……」
こそこそと言い合っていると、十神くんが葉隠くんの頭をわざわざトレイで叩きにきた。
気持ちのいい音と共に、呻いた葉隠くんの声が隣で響くのは流石に聞いていられない。
「ごめんなさい」
「……お前たちはどうせ何も収穫が無いんだろう。全く使えない無能ばかりだな」
「すみません」
お決まりの罵倒を聞き流し、みんなの報告が終わると、私は重くなった肩を片手で揉みながら部屋へと戻った。