■比較的
「ハァ……」
あまり大きな音を立てないように、俺は廊下を駆けていた。 廊下の窓から差し込む光は既に橙色に染まろうとしていて、外でカラスの鳴き声がするたびに俺の焦りを募らせた。 こんな時間に残っている生徒は部活生のみ、それも運動部だ。静かになった学校内。よく注意もせず走っていたせいか、曲がり角から出てきた人と思わず正面衝突しそうになった。
「うわっ!?」 「キャッ!」
相手の方もまさか廊下から人が走ってくるとは思っていなかったのか、少々大げさに声をあげた。
「すみません! 俺、急いでて!」
慌てて頭を下げると、少し焦ったような声で俺に大丈夫だよと声をかけてくる。 顔を上げてタイの色を見る。赤……ってことは一つ上の先輩か。
「ぶつかりはしなかったんだから、気にしないで?」 「はい。ありがとうございます!」
軽く笑い返して先輩の顔を改めて見る。どこかで見覚えのある顔だ。
「……えっと……」
先輩を見つめたまま考えていると、先輩はおろおろとしだし、俺はハッとして視線を逸らす。少しだけ居心地が悪くなり、俺はその場から離れようと先輩に軽く会釈をした。
「あっ、すみません。って、俺急いでたんだ。じゃあ先輩、失礼します!」
流石に二度もぶつかることはないだろうけど、念のため注意しながら歩いていると目的地の美術室が見えてくる。 扉を開けて自分の席に向かおうとすると、突然声がかかる。
「うわっ、紗織?」
静かだった美術室内に響いた少し高めの声に不意を打たれビクリと肩が揺れた。 声の主はわかっているが、こうも突然声をかけられては驚く。
「翔太……おまえなんでこんな所にいるんだよ、珍しい」 「それはこっちの台詞。もう部活終わってる時間じゃん」 「俺は忘れ物だよ。筆箱机ん中入れたまま忘れててさ」
机の中から筆箱を取り出して翔太のいる場所に向かおうとすると慌てたように鉛筆を持ったままの片手を開いて俺の方へ向ける。 俺を睨んでいるように見える所から察するに、こっちに来るなという意味なんだろうけど……来るなと言われると行きたくなるのが人間の性というものだ。
「あっ、ちょっと! 来ないでよ!」 「んー? ……なんだ、絵描いてたんだ」 「見ないでってば! もう!」 「見た後で見るなって言われたって遅いっつの。それと、今更俺に絵下手なの隠しても意味無いだろ」
そう言うと翔太はムスッと頬を膨らませてふんと鼻を鳴らす。 入れていた力がゆるくなった翔太の腕から描いた絵をとって掲げて見てみる。……うん、下手だ。 苦笑が漏れそうになったのがバレたのか、翔太は俺の腰あたりを思い切り抓る。痛い。
「先輩といい紗織といい、なんなの今日……」
こっそり息と共に吐かれた言葉は、落ちることなく俺の耳に入ってきた。
「先輩? って、最近おまえが仲良くしてる、二年の」 「あーもう、なんで聞いちゃうの!」 「聞いちゃうのって明らかに聞こえる大きさだったぞ」 「うるさい。俺は紗織に聞かせるために言ったんじゃないし」
知ってる知ってると翔太の頭をぽんと撫でると翔太はその手を叩いて払う。
「んー……先輩ねぇ。そういえばさっき廊下で会った人も翔太と仲良い先輩と顔似てたような……さっきまでここに来てたのか?」 「ハァ……先輩まだ帰ってなかったんだ……」 「ん?」 「なんでもない! それよりもういいでしょ、手どけて」
懲りずに翔太の頭を撫で続けていた俺の指を、潰さんとばかりに握り締める翔太に絵を返して、やんわりと腕を離す。
「にしても、おまえ……絵上達してないよなあ。今度特訓付けてやろうか」 「いらない。紗織の特訓って、どうせ鉛筆の持ち方とかからやるんでしょ、一日じゃ終わんないよ」 「流石にそこからはやらないって。っていうか、一日で絵が上手くなるわけないの。日々の積み重ねが大事なんだよ」 「ハイハイ。……まったく、親じゃないんだからさ」
拗ねたようだ。模写をする手が少し乱暴になる。
「悪かったって。それ、もうすぐ終わるだろ。終わったら帰りどっか寄って帰ろう。奢ってやるから」 「…………ケーキ」
ぽそりと翔太がそう呟いたかと思えば同時に真剣に胸像を見つめ出してつい吹き出しそうになった。
「あー! ホント、今日はつっかれたー!」 「胸像描くだけなのに」 「紗織にとっては簡単かもしれないけど、僕は違うんだよっ」 「ハイハイ。で? どれにするんだっけ」
喫茶店のメニュー表を捲りながら翔太に聞くと、即答で今流行りらしいケーキと新しく追加されたというケーキの名前が返って来た。
「おまえ……二つも食うの?」 「今日は紗織の奢りだからケチケチしてられないよ。あ、もう一つ追加しようかな……」 「ヤメロ。じゃ、頼むからちょっと待ってろ」 「うん!」
運ばれてきたケーキに乗ったフルーツをフォークでつつく翔太。この彼を見るのは、かなり久しぶりになる気がする。2年か3年か前に、今みたいに一緒に喫茶店に来た記憶がある。あの時はお互い、中学生にあがる前くらいだっただろうか。 幼馴染だった俺と翔太は、きっと他の人よりは互いの事をわかっている……と、思う。中学生にあがる前に、急遽親の転勤が決まって地方の中学に通うことになってからは、メールや電話でのやりとりしかしていなかったから、高校生になってまた地元に戻ってきて翔太と同じ学校に通えるのは、内心すごく嬉しかった。 口に出すと必ずからかわれるだろうけど。
「ん、なに? 僕の顔見て。……あ、もしかして紗織も甘いもの食べたくなったとか」 「は? あー……違う違う、匂いだけで充分食った気になれるから大丈夫」
ぼうっと翔太を見ているのがケーキを見つめていると誤解され、やんわりと苦笑を返す。鼻につく甘ったるい匂いはかなり胃にくる。その匂いの元が口の中に入りでもしたら噎せてしまいそうだ。 昔から翔太は甘いものが好きで、しょっちゅう近所の人からお菓子を貰っていたような気がする。ハロウィンの日なんかは持ちきれないほど貰ってきてたまに俺の家におすそ分けに来たりしてたっけ。 遡ると山のように出てくる翔太の思い出につい笑みが溢れそうになって、チラリと翔太を見やる。特にこちらを気にした様子もなく幸せそうにケーキを食べていて、少しだけ安心した。 そういえば、翔太は学校の女の子や先輩から、カワイイカワイイと言われ、愛されているとよく聞くのを思い出した。翔太は小さい頃から可愛かったけど、やはりここでもマスコットのように扱われているのだろうか。 だが、周りの女の子の翔太像を聞く限り、俺の知っている翔太とはかなり掛け離れているのと学校内で話すときはいつもとはかなり違う声だという事もあるから、きっと猫被りでもしているんだろう。
「んー……う、ちょっと苦い」
翔太が眉を顰めてフォークに乗ったケーキを見つめている。 翔太が苦いと思う喫茶店のケーキなんて初めて見る。
「それ、なんて名前のケーキだっけ? なんとかガトーショコラ?」 「大人ビターな恋……」 「大人ビターな恋の味? ……ガトーショコラだよな? ビターって書いてあるから苦いだろ」 「普通は、ビターって書いてあっても甘いんだよ。……あ、これなら食べられるんじゃない? ほら」
そう言ってフォークにかなり大きくガトーショコラを掬って俺の口元に近付ける。 まさかこれを食べろって言うのか。翔太を見ると早く食べろと言うように口に押し付けてきた。 喫茶店で、男同士がケーキを"あ〜ん"って……翔太は虚しいと思わないのか。それとも、小さい頃一緒にいたおかげで自分が使ったフォークを使われることも"あ〜ん"をすることも気持ち悪いとは感じないのか。 うんうんと首を捻っていると翔太は俺の口を無理やり指でこじ開けガトーショコラを突っ込んできた。
「どう? 美味しい?」
人の口に無理やりケーキを突っ込んでおいて質問を続けて投げかける。翔太の無茶っぷりは治っていなかった。 噎せながらもなんとか飲み込んで翔太を見ていたせいで一向に減っていなかったコーヒーで口直しをする。 口の中にあった甘さがだいぶ薄れてきた頃に翔太を見ると、またフォークを構えていたのでもうやめろと静止をかける。
「ちょっとだけ苦味はあるけど、まだだいぶ甘い」 「それってさ、紗織の舌がおかしいんだよ」 「それは無い。どっちかと言うと翔太の方がおかしいだろ? ……それにしても、久しぶりにケーキとか食べたな」
そう呟けば、翔太は心底不思議そうに首を傾げた。
「誕生日とかケーキ食べなかったの? クリスマスとかも」 「みんな俺が甘いもの苦手なの知ってたから、普通に料理がいつもより豪華になるくらいだった」 「ふぅん……そうなんだ。昔から思ってたけど甘いもの苦手なんて、人生の8割くらい損してるよ」 「してないっつの。おまえだってホラーとか苦手だろ。それも結構損してるぞ」 「お化けとか幽霊とか見て何が楽しいの? 僕、ホラー好きな紗織の気持ちホンットわかんない」 「あー、ま、俺も実際はそれを好きっていうより、怖がってる子を慰める方が好きなんだけど……」
小さい頃一緒にお化け屋敷に入って泣いた翔太を思い出して笑いそうになる。
「うわっ! 趣味悪〜。そんなんだから彼女出来ないんだよ」 「なんでそうなるんだよ。そんな事言ったら翔太だって、甘いものとか好きで年上に可愛がられるけど恋愛対象には見られにくいだろ?」 「……うるさい。僕はいいの」
さっきよりムスッとした顔になる翔太に首を傾げる。ここまでへこまれるとは思っていなくて少し悪い気になる。 何か言葉をかけようとした時に廊下ですれ違った先輩を思い出した。
「あー、そういえば仲良い先輩いるじゃん。あの人結構美人だったし、もしかしたらおまえのこと好きかもな? なんて……」
そう言った途端にピクリと反応してケーキを食べる手が止まる翔太。 だがすぐに元の調子に戻る。
「それが何」 「そんな怒るなって。おまえだってあの先輩のこと結構好きみたいだし、来年の卒業式の日とか灯台に行けばバッタリ鉢合わせるかもしれないぞ」 「…………」
無言になってフォークを置く翔太に若干不安になったが、翔太は怒った様子はなくなんだか暗い様子で俯いた。 いつもの翔太とはかなり違った雰囲気だ。
「……おい? なんか悪いこと言ってたらごめん」 「別に紗織は悪くないけどさ……ただ……」 「うん?」
口を閉ざす翔太とそれを見つめる俺の間に沈黙が流れる。 テーブルの傍らに置いてあった、空になったグラスの氷が溶ける音が響いた。
もうだいぶ薄暗くなった道を、俺と翔太は並んで歩いていた。 喫茶店に少し長く居すぎたかもしれない。この学園に入学して翔太とまた会えて、話ができたのは嬉しいけど、小学生の頃と今の翔太とは当たり前だけどかなり違っていた。
「あのさ……」 薄く出た月を見ていたところに声がかかって、視線を落とす。 翔太は数歩後ろで歩いていた。なんだか重い足取りで、俺は歩幅を緩めて翔太の隣についた。
「紗織って、好きな女の子とかいない?」 「え?」
突然投げ掛けられた質問に眉間に皺が寄る。 こういった質問をされるのは初めてだった。それに、翔太と恋愛の話をするのも初めてだった。
「あ、えっと……」 「いない?」 「うん、まあ……今の所は」 「そっか……」
それきりで黙ってしまいそうだった翔太に焦って俺は言葉を探す。
「ああー、翔太は? 好きな人」 「…………いる」
少しだけ遅れて返って来た答えには、今度はあまり驚かなかった。 だいたい意味もなく翔太が恋愛の話なんてするはずがない、とは思っていた。 翔太の好きな人は聞かずともわかるけど、ここまで落ち込んでいる意味はわからなかった。
「何か悩み事?」 「悩み事っていうか…………ねえ、紗織」 「ん?」 「紗織がもし女の子だったらさ、僕の事、恋人にしたいって思う?」 「は、」
一瞬足がもつれてしまいそうになる。 もし自分が女の子だとして翔太を恋人にしたいか、なんて今まで考えてもみなかったことだった。質問の意図がよくわからないし、翔太の考えていることもわからない。 けど……幼馴染として昔から仲が良くて、容姿や性格も可愛いのにたまにイラズラっぽくなる時もあって、甘いものが好きで怖いものは苦手。頼りになるタイプではないものの、守ってあげたくなるタイプ……女の子から見れば、母性本能がくすぐられるタイプ……なのだろうか。 そう考えると。
「俺……」 「僕はね、紗織だったら恋人にしたいって思えるよ」
俺の言葉を遮った翔太は俺の前に立ち止まってじっと見上げていた。
「翔太」 「だってさ、背も高いし声も低いし、頭は良いし運動真剣も良くて絵も上手くて、それに包容力だってある。爽やかで誰とでもすぐ仲良くなれるし頼りがいがある男前……って考えたら、紗織ってモテるんだよね」
半ば諦めたような溜息を吐いて翔太は歩き出した。間を離されないように隣に並んで、翔太を見る。
「僕って背も低いし声だって高い……勉強とか運動は出来るけど絵は……アレ、だし。他人に甘えてばかりで包容力なんて無いでしょ? 年上の女性には可愛がられるかもしれないけど、恋人にしたいってタイプではないじゃん」 「翔太……俺」 「あーあ! こんな比較するような事言ったらもっとへこんじゃった。ねえ、今度はアナスタシアに行……紗織?」
「俺、もし女の子だとしても翔太の事好きになってたよ」 「え?」 「俺さ、頼るより頼られる方が好きだから、翔太みたいな子は守ってあげたくなる。……それと、翔太には男気があるし、俺はかっこいいと思う」 「………………そう」
「って、か……男同士でこんな話するなんて気持ち悪いか。悪い、翔太」
なんだか小っ恥ずかしくなって歩みを早めると小走りで翔太が隣についた。 ちらりと翔太を盗み見るとなんだか嬉しそうに口元が緩んでいて、釣られて笑いそうになったので弱く翔太の頭を叩いておく。 お返しに脇腹あたりを抓られたけど大して痛くはなかった。
「じゃあ。俺こっちで、おまえそっちだよな」 「うん。また明日」 「おう」
翔太とわかれて家への道を進む。 昔は家が隣同士だったけど、今は違う。一緒に帰って途中でわかれる、なんてことは初めてで翔太とわかれるのは少し名残惜しくもあるが、あまり考えても意味がない。 俺は鞄を持ち直して歩く速度を早めた。
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