■不規則な雨と心と
ぽつりぽつりと屋根に当たっては跳ねて弾ける小さな水滴に目を奪われていた。 毎年、この時期になると晴れていようがお構いなしに気まぐれに空から雫が落ちてくる。空気中の汚れと一緒に落ちてきて、土を湿らせ、草木に潤いを与える、雨。 触るのは少し躊躇われるが、見ていると心が落ち着いてくる気がしてくる。雨は嫌いではなかった。
プルル、と、購入当時のままデフォルトの着信音が控えめに聞こえてくる。 布団に放る様に置いてあった携帯を手にとって画面を見てみれば、どうやら掛けてきた人物は……
「もしもし? オレ、姫条やけど」
特に理由も無しに掛けてきたといった風に軽い声で話す彼、姫条まどかだった。
「もしもし」 「今暇してた?」 「うん」 「ハハ、オレも」
何がおかしいのか、彼は小さく笑った。 ぽつりぽつりと跳ねる水滴の音に、小さくノイズの混じった空気の音が混ざる。
「どうしたの? 何か用事?」 「ああ、いや、用事とかは無かったんやけど」 「やることがないから掛けてみた?」 「ソレやソレ。当たり」
如何にも彼の考えそうな事だ。 暇だったから、やる事がないから、手持ち無沙汰な時に決まって彼は私に何らかの接触をしてきていた。 そんなくだらない理由で掛けてこないでよ、なんて暇を持て余して雨の音をじっと聴いていた私が言える台詞ではないので、今日も彼の話に付き合うことにする。
・ ・ ・ 「ほんだら、今度はオレが怒られてしもてな」 「それは姫条くんの自業自得じゃない」
気付けば、時計の針が随分進んでいた。 彼の話は学校での話や女の子の話、流行やバイト先での苦労、他にも沢山色々な事がポンポンと出てきて、聞き手に回って相槌を打っているだけの私もかなり楽しんでいた。
「ハァ……ホンマ自分と話してるとなんか安心するわ」
唐突にそんな事を言われ、私は相槌を打つのを一瞬忘れてしまっていた。
「そんなこと思ってたの?」 「ん? うん。いつも」 「いつも……」
そう言って黙り込んでしまう彼女。 もしかして、彼女はオレと話す……と言うか、一方的に話を聞くのは嫌だったのだろうか。
「スマン! オレ、一人でぺちゃくちゃ、」 「ううん、違うよ。姫条くんの話は聞いてて面白いし、楽しい。それに、姫条くんの声聞いてると落ち着くから」
オレの言葉を遮って、彼女は少しだけいつもより大きな声で言った。 悪い方へ悪い方へと考えていた所にとんだ爆撃だ。
「そ……そっか、なら良かった」
声が。少し裏返ってしまった気がする。
「姫条くんって、いつも女の子に声掛けてていかにも軟派な人なのに、そういう事言われるの慣れてないよね」
くすりと小さく笑うようにオレの耳に届いた彼女の言葉は、オレを動揺させるには充分だった。 どうにか話を逸らそうと、部屋をぐるりと見回して。 目に付いたのは、窓の外。
「そっ、そう言えば雨! なかなか止まへんなぁ」
焦ったような、困惑したような。そんな声音で聞こえてきた彼の台詞は、私の視線を窓の外に戻すのは充分だった。
「うん。姫条くん雨、嫌いなの?」 「嫌いっちゅーか……まぁ外に出れへんし。好きって訳ではないな」
そう聞いて、小さな子供のように太陽の下で芝生を走り回る彼の姿が想像出来て笑みが零れる。 不信に思われたのか、変な声を返されたわたしはなんでもないと返す。
「自分は? 紗織ちゃんは雨好きなんか?」 「そうだね――」
窓ガラスを滴り落ちる水滴を目で追った。
「嫌いではないかな」
先ほど彼が答えた事と似ていて、少し違っている台詞を返す。 雨は嫌いではない。かといって、大好きと言う程好きではない。どちらかといえば好きな方に寄っているのかもしれない。
「そか。ま、雨自体は置いといて、雨の日は好きかもな」 「雨の日」 「そう。好きなコと一緒に相合傘したりとか、湿った髪!とか、雨の日のイベントって結構ドキドキするもん多いやろ?」
雨は嫌いだが、雨の日は嫌いではない。 それも恋愛関連で得をするから、とは――。
「恋愛の話好きだね」 「そうか? ま、男でもそういうのには憧れるっちゅー事かもなー。紗織ちゃんはどや? 雨やなくて、雨の日」
言われて少し考える。 先程よりは雨も弱くなって鳥の声も聞こえてきていた。 しんと静かな部屋に、ノイズの音と彼の声。
「雨の日は――雨の日に電話すると、晴れている時より声が近くに聞こえる気がするから、好きかもしれない」
部屋に音を立てる物が無いからなのか、今家にいるのが自分だけだからなのか。 無音の部屋に響く携帯のノイズと、それと同時に送られてくる電波に乗せた声は部屋の中で小さく響いて包んでくれる。 そんな気がする。 ぽっと出た意見を述べば、彼は一瞬戸惑ったように相槌を打った。 少し、気持ちの悪いことを言ってしまっただろうか。 言ったあとに後悔しても遅いのだけれど、少し反省していると、しばらくして同意の声が返ってくる。
「確かに、そうかもな。オレ一人暮しやし、アパートやけどこんな天気じゃ周りも静かやからかな」
思ったよりも優しい声に安堵する。
「うちも今は私だけだから、なんだか傍に姫条くんが居るみたいな錯覚起こしちゃって」
ぽつり。 口を衝いて出た台詞に、自分でも驚いた。 彼が何かしらの反応をわたしに返してくる前に何か誤魔化そう。
「ご、ごめんなさい。勝手に姫条くんの名前出しちゃって……気持ちわるいよね、こんな妄想じみた事、」 「いや、ちゃうちゃう! オレ、別に嫌とかそんなん思ってへんで」 「……」
なんだか気恥ずかしくなって、電話越しで顔など見えないというのに顔を隠すように俯いた。
驚いた。 自分でも思っていた事をドンピシャで彼女の口から聞くとは想像もしていなかったから。 オレが否定を口にしても、未だ黙って声を出そうとしない彼女を宥めるようにまぁと声を出した。
「いや、実はな、同じ事オレも思ってたんや」 「……え?」
控えめに聞こえて、部屋で小さく響いて入り込む心地の良い声にオレは微笑んだ。 顔など見えないというのに。お互いが今何を思って何をしているのかも分からないというのに。 すぐ目の前に彼女がいるような錯覚に陥る。
「雨の日やと、部屋に声が籠っていつもより自分の声もポトーッてオレに落ちてくる」
我ながら、恥ずかしい事を言っていると思った。 いつもならこんな事、笑顔のままサラリと本気で言えないだろう。
「ポトーッて……」
気持ちの良い高音。 彼女は今、携帯を片手に口元に弧を描いているのだろうか。
「とにかく! オレは自分の考えてる事とか感覚とか、そういうんよーく分かるから、そんな気持ちの悪いとか思わんといてくれれば嬉しいんやけども」
オレも否定されてるみたいだから。 そう付け加えれば、可笑しそうに笑みを含んだ声音でごめんと二度謝られる。 ほんのりと甘く染まったような空気に戸惑っていたが、段々と最初の頃のように戻っていく事にホッとして小さく息を吐いた。 この空気が嫌だったわけではないが、あまり得意ではないと感じた。 それが彼女との間に流れていたからなのか、はたまた元から苦手だったのかは知る由もないが。
・ ・ ・ そこからまた、暫く話し込んで。
「あ、もうこんな時間なんだ」
雨もかなり弱くなって、少しずつ窓の外が暗くなって行く。
「ん、ホンマや。なんや長く話しすぎたかもな。スマン」 「気にしないで。どうせ暇してたから……姫条くんの話聞けて楽しかったし」 「そ、か」
ふわあ、と欠伸をする声と布擦れの音が聞こえる。
「外も段々暗くなってきたし、オレらもそろそろ電話切ろか」
少しだけ。 名残惜しくも感じるが、このままわたしがダダをこねてズルズルと引っ張って、姫条くんの時間を潰してしまうわけにも行かない。
「……うん、」 「お? なんや元気無いなぁ。もしかして、寂しい……とか?」
おちゃらけた様な声に、慌てて否定すると少し残念そうな声が帰ってきた。
「ハハ……スマンスマン。ほな、また明日学校で」 「うん。ありがとう、また明日」
ぷつり。 彼と繋いでいた糸が途切れたような感覚がした。 どうしてここまで名残惜しいと感じるのかは分からないけど。少し遅れて彼のものが移ったのか、小さく欠伸が漏れた。
ごろりとベッドに横になる。 何気なしに窓の外をぽうっと見ていると、またぽつりぽつりと雫が落ちてくる。 その雫は次第に増え勢いも増し、数時間前のように――もしかすればそれ以上にざあざあと地面に水滴を叩きつける音が聞こえる。
今は梅雨。 土が必要以上に水分を摂取し、花は強く打たれ、空は陰る。雨の季節なのだ。 土が水分を欲しがって、水を貰えた植物がキラキラと輝く太陽の季節には、まだ少し遠い。
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