■03
2009年4月3日(金)
段々と明るくなっていく窓の外を見つめていると、ベランダの柵に一匹のスズメがとまる。 きょろ、と首を捻り、ベッドの上の私と視線が合わさればもう一度首を捻って羽ばたいていく。 起き上がって乱暴な手櫛で髪を整えてまだなるまでにいくらかかかりそうな目覚まし時計のアラームを切る。 いつもより早い時間に起きたのは、もしかしたらこの世界をもっと歩いてみたいと無意識に思っているのかもしれない。 今日は街でどんな発見があるのかと、心を踊らせながら洗面所へと向かった。
・ ・ ・ 携帯にお財布にハンカチ、ポケットティッシュ、と鞄の中身を確認して玄関の扉を開ける。 昨日は少し軽装過ぎた。よく考えれば昨日はかなりチャレンジャーだったのかもしれない。 また迷っても大丈夫なように、昨日貰った地図もちゃんと持った。もう何も怖くないぞ!
少し歩くと、森林公園に着く。 昨日の帰り道に知ったが、私の家のアパートは森林公園から歩いて5分ほどの所に建っていた。 そんな近くにあるのになぜ気付かなかったのかと不思議だが、初めての土地だし仕方ない。 今日はどこに行ってみようかな、とベンチに座り地図を広げてみる。昨日は今いる森林公園の他に、私がこの世界にやって来た時にいたはばたき学園、市民ホールもといイベントホールと海の位置を確認して帰ってきた。 明日が始業式なおかげで全てのお店やゲームでのデート場所の見学はできないが、回れる分だけは回っておきたい。
(ええっと……)
近いところから回るよりは遠いところからこっちに帰ってきた方がいいかな、と、とりあえず空中庭園を目指して歩く事にした。
・ ・ ・ 「わ……」
思わず声が漏れてしまう。それほどに、ここからの景色は綺麗だった。 空中庭園でやって来た私は、折角だからと上まで登ってみた。 登っていくほど遠くなる地面に募る恐怖感もあったが、この色とりどりの花や街並みを見た途端に消し飛んでしまった。 デートでは何度かここに来ていたが、まさかここまで綺麗だとは思っていなかった。
(こんなに素敵なら詩人っぽくなるのもおかしくない……)
自分の貧相なボキャブラリーからはこの景色を表現する詩なんて『きれいきれい とてもきれい すごい』とか、もはや詩とは何だというレベルくらいしか浮かばないけれど。
「あの〜」
ぽうっとしていると、突然背後から肩を叩かれ思わず素っ頓狂な声が出そうになる。
「は、はいっ……?」
振り向いてみれば、背の高い男の人が後ろ手に腕を組んで私を見下げていた。 くるんと小さくはねた色素の薄い髪に申し訳なさそうな表情。どこかの何かがリンクしそうだ。
「ええっと……君のバッグ、大丈夫ですか?」
考え込みそうになった私に眉尻を下げながら問いかけてきた男性は、私の足元に視線を落とす。
(? ……!?)
見下ろしてみれば、足元には鞄の中身が散乱している。何故どうして。 急いでしゃがみこんで広い集めると、男性も遠慮しがちに携帯を拾って私に手渡してくれる。
「あ……ありがとうございます」
鞄の中に全てしまい込んで男性に向かって頭を下げると、いいんですよ、なんて優しい声が落ちてきた。
「やけに熱心に眺めていたので、声をかけていいものか迷っちゃいました」 「そんなに見てました……?」 「はい。街に穴があいちゃうかと思うくらいに」
にこりと微笑んだ男性に、頭の中で何かが繋がったような音がした。 低く穏やかな声に高い背、微笑んだ優しい瞳や口元。彼の名前は――。 もしかしてあなたは、と口に出そうとしてなんとか急ブレーキをかける。 いきなり名前や職業を言い当てられたらかなり不審に思うだろう。もしかしたら警察に突き出されることだってあるかもしれない。 崖ギリギリで止まった車のような気分で胸を撫で下ろすと、不思議そうに彼は首を傾げた。
「……本当にありがとうございました」 「いえいえ、大したことはしてません。……と、あ、もしかして君は高校生?」
お礼を済ませて次の場所へ行こうとしていた私は、手のひらに拳を乗せて思い出したように私に問いかけられキリの良いタイミングを逃してしまう。
「……そうです、けど」
そう返せば彼はまたにこりと目を細める。
「じゃあ、もしかしてもしかすればはね学の新一年生?」 「もしかすると、もしかしません」
嬉しそうに聞いてくる彼にとてつもない罪悪感を感じながら答えれば、案の定シュンとした表情になる。
「……はばたき学園なんです」
この世界では、私ははばたき学園の一年生だ。現実では高校二年生だった筈なのに、また一年生に戻って勉強もやり直しか……そう考えると少しかったるい気もする。
「そうなんですね。氷室先生に盗られちゃいましたね……」 (えっ……)
盗られるも何も女子生徒の一人くらいいいのでは、と思ったが、彼にとっては生徒一人でも大切だと思うほどに“良い先生”なんだと思い出す。 肩を落とされ何か話題を変えようと思ったがなかなか良さそうな話題が出てこず、私は既に知っている情報に疑問を向けた。
「ええと、羽ヶ崎学園の先生なんですか?」 「ピンポンです。良く分かりますね」 「ええ……まぁ……」
もう三年以上……何周も私の担任教師としてお世話になりましたから。 とは言えず、私は苦笑を浮かべる。
「そうだ、まだ自己紹介をしてなかったね。僕は若王子貴文です。学校では化学を担当してます。羽ヶ崎学園での体育祭や文化祭、修学旅行もはばたき学園に負けず劣らず、とても楽しいよ」 「売り込みですか」 「はい、売り込んじゃいます。……君の名前は?」 「……石倉紗織です」 「うん、石倉さん。今度会うときも先生、ちゃんと君のこと覚えておきますから、よければ君も先生のこと覚えていてください」
頭を両手の人差し指でツンツンとつついて入れ込むような仕草をして笑顔を向けてくれる若王子先生に、素直に頷くことは出来ない。
(もしかしたら、今度会うときというのは画面越しになるかもしれません)
確証のない約束はできない。 今目の前にいる若王子先生という存在が全てプログラムだったとしても、今は同じ人間だ。私がこの世界から消えたとき、若王子先生のなかに私という存在が残っていなかったとしてもだ。
「え、っと……」 「もしかして、不安?」 「え?」
モヤモヤとしていた心を言い当てられて反射的に顔を上げる。
「……いえ。何でも無いです」 「大丈夫です。先生、悪い人じゃない」 「別にそういうことじゃな…………あ、違っ」
うまく乗せられ、不安がっていることを現わにしてしまうと、若王子先生はもう一度大丈夫ですと微笑む。
「袖振り合うも……ってことわざもありますから。きっと先生と君も何かの縁があるはずだよ。だからきっとまた会える。ね?」
優しい瞳をして語るようにそう言った若王子先生に、私は無意識に小さく頷き返してしまっていた。
・ ・ ・ 空中庭園を降りて小さく伸びをする。 時計を確認すれば、既にお昼前だ。あれから若王子先生と少しの時間だけ話を続けたつもりが、かなり話し込んでいたようだ。
(でも、まぁ……)
この世界のことを今よりもっと詳しく知れた気がする。 あと、お勧めのペットショップや猫スポットなるものを教えてもらえたし(役に立つかはわからないけれど)、損はしてない。 それに、架空の存在とああやって接触できたことが、今更になってじわじわと理解できてきている。 本当は、現実なら。本当の存在のように喜怒哀楽を織り交ぜながら話をしていた若王子先生も、空中庭園から見た綺麗な景色も存在しないんだと。
(…………やめよう)
考えても時間が無駄になるだけだ。 日陰に入った私は、地図を開いて次の目的地を探した。
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