――ああ、まただ。
 モヤモヤと心に黒く霧がかかっていくのを、俺は静かに感じていた。いままでに何度も何度も経験してきた事だ。もう流石に混乱なんてしないけど、ただ少し焦りはある。
――今度は英二なのか。
 彼女から笑顔を向けられている英二は若干鼻の下を伸ばし満更でもない顔をしている。
 それはそうか。彼女は美人だけど、少し抜けている所もあって可愛い。そういう子は女の子から疎まれやすいらしいって聞いたけど、彼女の周りに居る女の子にそんな素振りはなく、むしろ尊敬や憧憬を抱いているように感じる。つまり、誰からも人気がある。

 というか、正直そんなものはどうでもいい。
 俺がこんな気持ちになっている理由は、彼女が自分は誰のものなのかちゃんと理解していないからだ。
「……ハァ」
「? 大石、どうかした?」
 モヤが溜まり過ぎたのか、無意識に出た溜息に近くを通り掛かった不二が反応する。大石が珍しい、とでも言いたげな顔だ。
「ああ、なんでもないんだ」
「そ? あ、手塚が今日はいつもより早く部活終わるかもって言ってたよ」
「そうなのか。教えてくれてありがとう、不二」
 いつも通りに笑みを浮かべて小さく手を挙げる。不二は少し引っかかりを残した表情だったが、そのまま歩いて行く。
 俺は一瞬だけ横目で英二と彼女を見て、自分の教室へと戻った。


「すっごい雨だねー、朝まで晴れてたのにさ」
 隣に歩いてきた英二が、黒い雲がかかった空を見上げてつまらなさそうに言葉を吐いた。それに生返事を返した俺も、どうしようかと学校の玄関先で空を見上げる。
 傘は用意していなかった。このまま濡れて帰るか、雨が弱くなるのを待つか。不二の伝言通り、部活もいつもより早く切り上げられた。まだいつもの帰宅時間よりは時間があるが、そこまで学校で時間を潰せる気はしない。
「ん? あれってちあきちゃんじゃない?」
 英二の声のトーンが少しだけ上がる。だが、その直後に元通りになる。
「わぁ、確かあれってサッカー部の……名前なんだったっけ、大石。……大石!?」
 気付けば俺は土砂降りの雨も濡れる制服も気にせずに、彼女のもとに駆け出していた。

heroine side


「あ、あの……わたし、彼氏居るって……」
「別にいいんじゃねえの? 彼氏ってテニス部の大石だろ、怒んねえって」
「でも……」
 先刻、土砂降りの雨を見上げて困惑していた所に話しかけてきた彼、石橋くんは、私が傘を持っていない事に気付いて傘を貸してくれると言い出してきた。
 私にとっては有難かったけれど、それでは彼の帰り道の傘がなくなってしまうのではないか。そう思って断ると、石橋くんはそれなら一緒に入ればいいとほぼ無理矢理私の肩を抱いて歩き出してしまった。
 抜け出そうとするも、がっしりと肩口に手を置かれているために力が出ない。足元も雨が跳ねて少しだけ気持ちが悪い。どうもできず校門まで歩いてきたところで、彼は更に腕の力を強めて私を引き寄せてきた。
「ほ、本当にだめだよ。大石くんも怒るから……っ」
「だから大丈夫だって、そんなに俺が嫌い?」
「嫌いとかじゃないよ、ただ……」
「ならいいじゃん。もっとくっついてよ」
 何を言っても聞いてくれない石橋くんに半ば諦めかけていると、不意に雨に濡れたコンクリートの上を強く走る足音が聞こえる。段々とこちらに近付いて来ていると思えば、その足音は私の真後ろで止まる。

「……? 大石くん!」
 足音の主を確認するために首を少し曲げてみれば、見えたのは私の彼氏……大石くん。石橋くんはチッと舌打ちをして、渋々といった様子で私から距離を置く。その時に傘は私の頭上からずれたために細く冷たい雫が髪や肩に強く当たってくる。
 大石くんはぐいと私を引き寄せて石橋くんを見つめていた。大石くんの腕に包まれ、彼の体が少し冷たくなっていることに気付いた。大石くんは傘をさしていない。それに、鞄も持っていない。
「ちあきは誰のものなの?」
「……え?」
 唐突に彼の口から私の名前が出てきて驚く。彼の顔を見上げれば、私の方は向いておらず、瞳は一心に石橋くんを捕らえていた。
「そんなの、ちあきさんは誰のものでもねぇだろ? お前が彼氏っつったって、彼氏なら独り占めしていいってわけじゃねえし」
「そんなこと、俺は知らないな。ちあきは俺のものって、今からでもちゃんと認識してくれないと困るよ」
 口元は笑っているものの、目は笑っていない。よく聞く表現だが、まさにこれが今の大石くんには当てはまるのではないか。石橋くんは最初こそ元気がよかったが、段々と表情をなくして、最終的には大石くんを弱く一睨みしてその場から去っていった。
「……あの、大石くん。ありが、わっ!」
 お礼を言うため向き直ろうとすると、大石くんは何も言わずに私の手首を掴んで走り出す。
 鞄を落としそうになって、慌てて持ち直して私も転ばないようについて走る。

「はぁ……はぁっ……お、大石くん、いきなりどうしたの……っ?」
 やっと走るのをやめてくれた大石くんに、私はすぐさま質問を投げかける。雨の中走って制服も靴も髪も何もかもびしょ濡れだ。
 大石くんは私に振り返って小さく微笑む。なんだか怒ってる……?と気付いた頃には遅く。私は大石くんに抱き上げられ家の中に連れ込まれていた。

「わわっ!」
 何枚かのドアを開けて、やっと降ろされたと思えばまた水が降りかかってくる。水が段々と暖かくなり、やっと辺りを確認することができた。
 バスタブに洗面器に、私を濡らしている水はシャワーから出ているもの。ここはお風呂場らしい。見たことのない模様で、大石くんの家にいるんだとわかった。
 それがわかっても、何故私が大石くんの家のお風呂場でシャワーを被っているのかは理解できない。
「大石くん……?」
 先程から俯いている大石くんに小さく声を掛ける。
 不審に思いながらも見つめていると、大石くんの肩は小さく揺れ始め、私の耳には嘲笑とも苦笑とも取れるような笑い声が入ってくる。
 そっと大石くんの肩に触れてみれば、すぐさま私の手首は掴まれて、後ろ頭になにかをぶつけたような感覚と同時に視界が暗転する。
 呼吸が出来ない。息苦しいと感じる。意識ははっきりするどころかだんだんと薄れている気もする。口元にあるものは柔らかく、これは大石くんの唇かな? と、呑気な事を考える暇も与えないとばかりに私の唇を割って入ってくる熱いものは、きっと合わさっている彼の唇から譲られたもの。
 微かな隙間を見つけて息を吸える、それだけでもなんだかホッとした気持ちになれるのは、大石くんが長いこと私を離してくれなかったおかげなんだろうか。
 このままでは意識を無くしてしまうかもしれない。そんな限界寸前を見極めて大石くんは少し隙間を作ってくれる。キツいけれど、やはり大石くんは優しい。脳が彼一色になってしまいそうで、気が遠くなってしまいそうで。
 火照っていく体は、シャワーのお湯のおかげなのか、大石くんの体温なのかすらも考えられないほどに視界が霞んでいく。意識が飛んで行きそうで、もうこのまま彼の腕で眠りに付けたら幸せかも知れないとまで思うほどだ。

hero side


 腕の中で小さく寝息を立てる彼女をしっかりと両の目で捕らえて、俺は口元に弧を描いた。
 やってしまっただとか、どうしようだとか。そんな事を思う前に俺の思考を支配したのは彼女の苦しそうな喘ぎ声だった。
 今日は、彼女の本当の笑顔を見る事ができなかったな。明日は俺だけに笑いかけてくれるのかな。もう、記憶が無くてもこのまま彼女の体も全て奪ってしまうべきか。
 正常に脳が働くようになって、もうやめるべきだと自制をかける。きちんと自分でどうしたこうしたと認識してしまったら意味がない。無意識にやった事だけに意味がある。
 彼女の頬に手の甲を当てて優しく撫でれば、意識を失っているにも関わらず緩く微笑む愛しい彼女に、俺もつい微笑んでしまう。
 俺は彼女にもう一度キスを落とせば、彼女を包み込めるくらいの大きなバスタオルを用意しようと風呂場の壁に彼女を寄りかからせ洗面所に向かった。




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