「これってもし底抜けたら全校生徒水浸しやんなぁ」

俺の隣で忍足がぼんやり、そう呟いた。忍足はここに来るたび、こんなことを言っている気がする。
氷帝学園のプールは屋上にある。普段は生徒立ち入り禁止になってるんだけど、実は入り口の扉にかけられてある南京錠はヘアピンなんかで簡単に開けられる。だから俺は時々こうやって授業や部活からの逃げ場にする。
忍足は靴も靴下も投げ出した足先で、ぴしゃぴしゃと水面を蹴った。俺は黙ったまんま、その様子を眺めた。大きな水溜りから引き千切られたそれらは、ゆるいカーブを描いて、また元の場所に溶けて沈んで、結局どこへ行ったのかわからなくなった。

「ジロー起きとんか?」
「ん、いちお」
「あ、そ」
「痛い?それ」
「んー?それほどでもないけどな」

忍足はひらひらと、俺が指差した左手を振って苦笑した。忍足のそこは今、包帯でぐるぐる巻きだ。なんでも美術の時間に彫刻刀でざっくり。二針縫ったとか。忍足ってテニス以外は結構不器用だよね。
眠い、けど、この俺が眠れなくなるくらい、今日は暑い。汗がポロシャツに染み込んでじっとり背中にへばりついて気持ち悪かった。水につけた足先だけが気持ちいい。

「せっかくの水泳の授業も見学やし」
「うん」
「ドクターストップのおかげでテニスもできへんし」
「うん」
「うん、て…お前はただのサボりやろ。跡部に怒られんで?」

忍足は呆れたように言った。確かに、跡部の怒った顔がリアルに想像できたけど、なんてことない。だって俺はその歪んだ表情を一瞬で笑顔に変えることのできる術を、星の数ほど知っている。

「全然へーき、跡部だもん」
「なんやねんそれ」
「忍足こそ、怪我人だからってこんなとこにいていいのかなぁ?」
「お前に言われたないわ」
「へへ」
「うっわ!濡れるやんか」

俺は笑って、足をバタつかせた。沢山の光の粒が舞って、俺たちの頭にぱたぱたと滴り落ちる。忍足は左手を庇うようにして逃げるように立ち上がった。

「俺そろそろ戻るわ」
「行っちゃうの?」
「なんでそんな名残惜しそうやねん」
「じゃあ次に会うときは俺バターになってるから、そんときは美味しく食べてよね」
「なんの話や」
「今日は暑いねっていうはなし」

ほんとうに、暑かった。ほんとうに、このままとろけてバターになってしまいたかった。夏はまだ始まったばかりだというのに。忍足は俺から目をそらして、揺れる水面を見つめた。俺もお前も負け組だよ。

「ねえ忍足」
「ん?」
「大会終わってからで良かったね、怪我」

そっと目を伏せれば、まぶたの裏側にゆるく微笑む忍足の顔が浮かんだ。忍足がそうやな、と小さく呟くのを聞いた。巨大な水溜りは太陽に照らされて眩しく光る。無意識に弧を描く唇を憎たらしいと思った。俺も忍足もここへ溶け込んでしまえたら、涙なんて気にせず泣いてしまえるのに。今にもとろけそうな頭で、そう思った。


(関東敗退直後に書いたもので)
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