あの柳生に彼女が出来たらしいというのは、ごくごく最近の話じゃ。聞けば相手はいつも付きまとってたあの小動物みたいな女で、名前は確か……あれ、なんじゃったかの。忘れた。まあいい、それはともかくじゃ。柳生とは長らくダブルスを組んできたが、これまで浮いた噂のひとつも耳にしたことがなかった。それがついにあの堅物眼鏡にも春がやってきたんじゃ。これはもちろん興味を持たずにはいられまいて。

「やーぎゅっ!」
「ぐえっ」
「ふえ?」
「コホンッ……ど、どうかしましたか」

そんなわけでニョキニョキと芽生えた悪戯心に従順な俺。早速柳生に扮して近づけば、彼女は思った以上にあっけなく引っかかった。首から背中にぶら下がる彼女の体重は丸井や赤也のものに比べたら随分軽い、と思う。それでもいきなりタックルを決められればそれなりに衝撃がある。一瞬怯んだが軽く咳払いをして誤魔化した。

「んー?やぎゅ、今変な声出さなかった?」
「そ、それはあなたが突然飛びかかるからでしょう」
「んーそっか?うへへ、ごめんごめん」

柳生といるところを何度か見かけたことはあるが、直接彼女と話すのはこれが初めてである。そのおかげか、どうやら俺だとは気づかれんかったようじゃ。ついつい緩みそうになる口元を隠して、まずは柳生のように中指で眼鏡を押し上げる。そして困ったように小さくため息。我ながら見事な柳生っぷりじゃのう。

「で?何か御用ですか?」
「んーん、なんでもなーい。見かけたから突撃してみただけだよー」
「は、はぁ……そうですか」

何じゃそりゃ。うっかり素が出そうになり、慌てて気を引き締める。柳生はいつもこれの相手をしているのか。前々から思っていたが、あいつの周りはどうにも変わり者が多い……俺含めな。まぁ俺とダブルス組めるだけのことはある。

「……あの」
「んー?」
「苦しいです。離れてください」
「んー」

さてどうしたものかと考えながら膝を曲げ腰を落とす。いくら軽いとは言ってもがっつり首に巻きつかれたままでは呼吸もままならん。しかしなるほど、小柄で貧相だとは言っても相手は女。背中に当たる柔らかい感触は悪くない。柳生もああ見えてむっつりじゃからのう。これは内心鼻の下を伸ばしているに違いない。

「ねぇねぇやぎゅー」
「なんですか?」
「やぎゅ、ちょっと痩せた?」
「えっ」

言われるがまま素直に腕をほどいた彼女は、すとんと地面に降り立ち俺の顔を覗き込んだ。その上目遣いに思わず身構えれば、予想外の問いかけに拍子抜けする。確かに俺は柳生に比べれば肉が少ないが――

「それは……気のせいでしょう」
「ほんと?ちゃんとご飯食べてる?」
「もちろんです、三食バランスの良い食事を心がけています」
「そー?ならいいけどー」

その視線から逃れるように再び眼鏡を押し上げ顔をそらす。柳生の言葉としては嘘ではない、俺は相当な偏食だが――いかん、ここまで真っ直ぐ見つめられると呑まれそうになる。やっぱり、変な女じゃ。

「それよりも、ねぇ」
「んー?」
「私とイイコト、しませんか?」
「へっ?」

やられる前にやれとはよく言う。こちらのペースを乱されまいと、早急に近くの壁へと彼女を追いやり顔の横に両腕をついた。変装は得意だが中でも俺と柳生は顔立ちがよく似ている。眼鏡をかけてしまえば僅かに形の違う目元も覆い隠され、俺だと気づく人間はほぼいない。さて、ならばこの女はどうか。ゆっくりと顔を近づけ、眼鏡越しに彼女の瞳を覗き込む。

「う、やぎゅ?どしたの?」

その双眼に映る自分の姿はどう見ても柳生である――しかし彼女は怯むことなく、何故か自分の手のひらをぴたりと俺の額にあてがった。

「……なにを」
「うーん熱はないねえ」
「……は?」
「どーしたのー?罰ゲーム?」

そして何を言い出すかと思えば、またも想定外。好きな男から迫られて、顔を赤らめるどころか罰ゲーム呼ばわりとは……なんじゃこの女。付き合うとるんじゃなかったんかの?――いやいや、いや…あかん。俺はたまらず噴き出した。

「……ふっ、くく」
「ふえ?やぎゅー?」
「ひっ、あかんつぼった」
「あかん?」

純粋なのか、天然の阿呆なのか、何にせよこれ以上彼女を騙し続けたところで誰も得はせんじゃろ。変装を解いてひらひらと両手を挙げて降参のポーズをとれば、見る見る彼女の目がまん丸に見開かれた。

「わー!やぎゅーじゃなかった!」
「プリッ」
「えっとえっと、あ!に、に……そうだ、におーくんだ!」
「おー、知っとったんか」
「しってる!やぎゅーとテニスしてるひと!」
「はは、光栄じゃのー」
「もーひどーい!だましたなー!」
「すまんすまん、つい出来心で」

くっくと喉を鳴らせば、彼女はピンク色に染まった頬を膨らませた。その面構えは頬袋にひまわりの種をいっぱいに含んだハムスターのようで、つつけば愉快な音がするに違いない。そう思い手を伸ばしたところで、不意にごんっと鈍い音がして頭の頂点に激痛が走った、かと思えば猫のように首根っこをつかまれて目の前の女から引き剥がされる。予想外の出来事に舌を噛みそうになったが、なんとか免れた。

「まったく、何をしているんですかあなた方は」
「やぎゅ、今のは痛いぜよ……」

言わずもがな犯人はこの男。どこからか現れた柳生はいつも通りの表情を装っていたが、その声色からは不機嫌さが伺える――なるほど、この紳士もどきもいっちょまえに嫉妬はするらしい。

「わーやぎゅーだ!こっちはほんもの?」
「偽者が二人も三人も居たら困ります!一人でも手を焼いているのに……」
「ほんとー?あ、ほんとだーだきごこちがちがうー」
「ちょ、離れたまえっ」
「おーおーおあついのー」
「でもほんとそっくり!びっくりしちゃった!」
「ふふん、柳生はオハコじゃけぇ」
「まったく、試合以外で私になるのはやめたまえとあれほど!」
「でもやぎゅーはあんなことしないよぉ」
「あんなことって何ですか!?」
「えっとね、おおかみさん的な!」
「狼!?ちょっと仁王くん!」
「あー、殴られた衝撃で記憶が」

なにやらお小言が始まりそうな雰囲気じゃき、俺はとっとと退散することにした。人のものに手を出す気なんて最初からさらさらない。ましてやあの紳士がここまで取り乱す相手とあっては。

「仁王くんっ!」
「悪かった悪かった、もうせんよ」
「あっこら待ちたまえ!」

やいやいと喚きながらも彼女のそばを離れようとしない柳生にひらりと手を振って、俺はそそくさとその場を立ち去った。やれやれまったく、随分と局地的な春がきたもんじゃ。彼女の鈍さは些か心配ではあるが、こんな巧妙な悪戯を仕掛けるような奴は俺以外におらんじゃろし、まぁ心配なか。せいぜい末長く幸せになることを祈っとるぜよ、相棒。

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