※たぶんこれの続き
明日から夏休みが始まる。今年度は気候の安定しない日々が続いていたが、七月後半ともなればすっかり夏らしくなっていた。
空調の効いていない図書室は、そんな夏を凝縮したような蒸し暑さだった。
「わ、柳くん…!」
俺の予測した通りのタイミングで本棚の脇からひょっこりと顔を出した苗字は、俺の姿を見るなり面食らったような顔をした。そもそもイレギュラーな行動を起こしたのは彼女であり、本来驚くべきは俺の方なのだが。
「珍しいな、苗字」
「う、うん。久し振り?」
「今回はそれほどでもないな」
「そ、か。昨日会ったばっかだもんね」
「ああ、そうだ」
ふっと頬をゆるめると、苗字は一瞬目を丸くして硬直したあと慌てて俺から目を逸らした。
「何か探しものか?」
「えっ、あ、えーと…」
苗字は図書委員だが、あまり読書らしい読書はしないという。そんな彼女が当番でもない日にこの場所に立ち寄った理由は、聞かずとも察しがついていた。
案の定彼女は返答に困って、視線を泳がせていた。
「無理に答えなくてもいい」
「あ…ごめんね」
「構わない。暑いだろう、出よう」
俺は手にしていた本をパラパラと捲って、本棚に戻した。「もういいの?」と苗字が口にする前に「今日は当番がいないからな」と付け足した。
「あたしがやるよ?」
「いや、いい。そもそも今日は別の用事で来た」
「別の用事?」
「ああ。それももう済んだ。職員室まで鍵を返しに行くが、一緒に来るか?」
俺がそう言うと、苗字はぽっと頬を染めてこくりと頷いた。
図書室を出ると、廊下の窓から心地よい風が吹き込んで、それまでの熱を拭い去った。人気を失くした校舎内は、吹奏楽部の楽器の音や、運動部の掛け声などが、蝉の声に紛れて鳴り響いていた。
「あー、いい風だぁ」
「そうだな」
思えばこうして苗字と肩を並べて歩くのは初めてのことだ。いつもは足早に立ち去る俺が彼女に見送られるばかりだった。
隣を歩く苗字は緊張しているのか、どこかぎこちない。俺より背の低い彼女に歩幅を合わせると、職員室までの距離が随分と長くなったような気がした。
「始まっちゃうね、夏休み」
「…そうだな」
苗字がぽつりと零した言葉に、少し間を置いて相槌を打った。
「柳くんはずっと部活?」
「ああ」
「そっかぁ、いつも大変だね」
「そうでもないさ」
俺は思考をめぐらせた。夏休みが始まる。それは暫く苗字と顔を合わせることがなくなるということだ。俺はいつからか、そのことにどうしようもない寂しさを覚え始めていた。
本来なら今学期、俺と苗字が言葉を交わすのは昨日で最後になるはずだった。それが今こうして覆されているのは、俺が自分のデータに確信を持つために、あえて昨日を何事もなくやり過ごした結果だった。そうすれば今日の放課後、彼女は俺を探して図書室にやって来るはずだ、と。
俺の予想は見事に当たった。データは、揃っている。勝率は高い。苗字が俺と同じ気持ちでいることはほぼ間違いないだろう。問題はその先をどうするべきか、だ。俺は長らくそれを決めかねていた。
「あ、ついちゃった」
苗字の声で我に返ると、職員室は目の前だった。長く感じたような距離も、時間にすればあっという間だった。
「えと、それじゃあたしはここで」
「あ、ああ…」
「…またね、柳くん。部活がんばって」
苗字は名残惜し気にそう言って微笑むと、そっと俺に背を向けた。
その時、頭を後ろから思い切り殴られたような衝撃が走った。それは、いつもは見送られる側の俺が、初めて見送る側の気持ちを知った瞬間だった。
「苗字!」
気がつくと俺は苗字の腕を掴んでいた。
「やなぎ、くん…?」
苗字は困惑した表情で、恐る恐る俺を見上げた。滅多にこちらに向けられないその視線が今、確実に俺を捉えようとしていた。
思いがけない俺の行動に、何より俺自身が驚いていた。僅かな沈黙を埋めるかの如く、蝉がジリジリと鳴いた。俺は覚悟を決めて、ゆっくりと口を開いた。
「苗字、俺は」
俺は苗字が好きだ。綿密な分析も計算も、この気持ちの前には何の役には立たないことに、俺はもうとっくに気がついていた。確信が、ただの期待でしかないのかもしれないと思うと、不安で、どうしても確かめることが出来なかった。苗字なまえが、この柳蓮二を、本当はどう思っているのか。
「お前の本当の気持ちが知りたいんだ。聞かせてくれないか、苗字」
苗字の顔が見る見る紅く染められていくのを前に、俺は次に紡がれる彼女の言葉が俺のデータ通りのものであることに強く、強く期待した。
(20120718)
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