※たぶんこれの続き


ほぼいつも通りの時刻に仕事を終え、帰りがけに近所のスーパーマーケットに立ち寄った。真っ先に惣菜コーナーに足を運び、値引きシールのついたものを手早くかごに入れる。この店には長らく訪れていなかったが、独身時代には随分とお世話になったこともあり戸惑うことはなかった。あの頃を思い出して嗜好品であるところてんも、と思ったが、自宅で待つ妻の顔が浮かび思いとどまった。

なるべく列の短いレジに並んだはずが、どうやら新人スタッフが担当しているらしい。倍ほどあったはずの隣の列が見る見る短くなってゆくのに対して、こちらはなかなか前に進まない。急がば回れとはよく言ったものだ。妻も以前はこの店で働いていたが、客さばきの素早さはなかなかのものであった。痺れを切らしたのか私の前にいた中年女性が列を抜け、そのおかげでひとつ前へ進むことができた。担当者の少年は高校生くらいだろうか。

「あれ、柳生先生?」

やっと順番が回ってきた、と思い財布を取り出したところで声をかけられた。声の主は今まさに目の前にいるレジ担当の少年である。改めてその顔と名札を確認し、あっと声を上げた。

「君は……」
「お久し振りです、僕のこと覚えてますか?」

不安気な眼差しを向けるその少年は、私が初めて担任し、卒業させたクラスの生徒だった。記憶の中の彼に比べてかなり背が伸びていたので気がつかなかった。瞬時にあの問題児だらけのクラスで奮闘したことを思い出す。あれからまだ何年も経っていないというのに、遠い昔のことのように思えた。あのクラスには苦い思いも沢山させられたが、今にしてみればどれも青春の一ページであった……と物思いに耽るほどの年齢でも、まだないのだが。

もちろん、と笑みをこぼせば彼は照れくさそうにはにかんだ。その柔らかい表情にじわりと胸の奥が温かくなる。そうか、この子はこんな顔が出来るようになったのか。彼のことはよく覚えていた。私はかつて彼が起こした事件のことを思い返し、密かに安堵の息を漏らした。


. . .


「そっか、そんなことがあったんだ」

自宅に戻り真っ先に先刻の出来事を話せば、彼女もまた彼のことを記憶していたようだった。当時の私は柄にもなく彼のことで弱音を吐いてしまったので、彼女も気がかりだったのだろう。思えば新婚早々みっともない姿を曝け出してしまったものだ。あのときは後先を考えずとんだわがままを口走ってしまった。

「懐かしいですね、そう昔のことでもないのに」
「ふふ、なんだか比呂士くん嬉しそう」
「ええ、それはもう」

自然と緩んでしまう口元に、彼女も目を細めた。今日は列の後ろがつかえていたのですぐに立ち去ってしまったが、その面持ちから彼が前向きな人生を歩めているであろうことだけは読み取れた。それが嬉しくてたまらなかったのだ。

こんなときに食べる彼女の手料理はいつにも増して最高で……しかしながら目の前にあるおかずは電子レンジで温めただけのものばかりだ。いつもなら彼女の作った美味しい夕飯が食卓に並ぶのだが、近頃の彼女は体調を崩しているため無理をさせまいと自分のことは自分ですると私自ら申し出たのだ。

「私がこんなものばっかり買っていくものですから心配されてしまいました」
「うん?」
「先生、奥さんと喧嘩したんですか?って」
「えー?お惣菜くらいで?」
「いつも愛妻弁当だったじゃないですかって。見てるんですねぇ、生徒って」
「とか言って、ホントは自慢してたんじゃないの?」
「ふふ、ばれましたか」
「もう、比呂士くんたら!」
「おかげで今日のお昼にもほかの先生方から同じことを言われてしまいました」
「あはは、自業自得」

コロコロと笑う彼女の顔色はあまりよくなかった。食欲もないらしく、今も何も口にしていない。それでも米だけは炊きたてのものを用意してくれたことに感謝したい。結婚前はそれなりに美味しいと思っていた惣菜がどれも口に合わず、彼女の炊いた米でつくった塩おにぎりのほうがよっぽどいいように思えた。私の舌はすっかり彼女の味に最適化されてしまっている。

「ハァ……なまえの料理が恋しいです」
「ん、なんかごめんね」
「いえ、いいんですよ。それで……どうでしたか?お身体の方は」
「あ、うん……病院、いってきた」

彼女はテーブルの向こう側で俯きがちに頬を染めた。それが何を意味するのかすぐさま理解した私は、静かに箸を置き席を立った。どうしようもなく胸が高鳴っている。こんなに緊張するのはプロポーズの時以来かも知れない。

ゆっくりと彼女の傍らへ歩み寄り、その華奢な左手を取った。そこに光る揃いのリングは、私と彼女がこの先ずっと共に生きると誓った証だ。それを慈しむように指先でなぞり、そっと唇を寄せた。

「比呂士、くん?」
「……所詮、私は男ですから」
「ん、」
「これからあなたが経験する痛みや苦しみを、すべて理解してあげられるわけではありません。大した力にもなれないかもしれません」
「……うん」
「それでも……私の手で守らせて下さい。あなたと……その子のこと」

ひとつひとつの言葉を確かめるように紡いでゆく。それらがすべて私の喉元を通り過ぎて音になる頃には彼女も私も泣いていた。まったく私ときたら、なんて情けない男なのだろう。それでも彼女はにっこり微笑んで大きく頷いてくれた。

ああ、今後しばらくは彼女の手料理にありつけず、ひもじい思いをすることになるだろう。それでも今の私はきっと世界中の誰よりも幸せ者に違いない。だって私には何より愛しい家族が二人もいるのだから。

(20121122)
いい夫婦の日。

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