今日は遅くなります、という素っ気ないメールだけが届いた。いつもなら几帳面に電話まで入れてくれるのに、それがないということはきっと相当余裕がないのだろう。わかった、お仕事がんばってね。なんて、ありきたりな返信をして、出来たてのミートソースに蓋をした。

『子どもって難しいですね』

近頃の彼はそんなことばかりこぼしては眉を下げる。教師になって初めて持ったクラスは、少し問題があるようだ。いじめのようなものはないそうだが、素行の悪い生徒が目立つのだとか。相手は中学生、一番悩ましい年頃の子どもたちだ。それを理解し、頭ごなしに叱るのではなく、生徒の目線に立ち真摯に向き合おうとする彼は、やわらかな物腰に似合わぬ熱血教師であった。

トマトの香りでいっぱいになったリビングのソファに腰を下ろして、テレビをつける。時刻は午後七時を過ぎようとしていた。くうと小さくお腹が鳴ったけれど、彼のいない食卓はあまりにも寂しい。今日は何時に帰るのだろう。最近は帰りが遅い日が続いている。それでも世間一般のサラリーマンほどではないのだけれど、少し心配だ。

テレビの中では、名前も知らないお笑い芸人がパンパンと両手を叩いて笑い転げていた。はしたないですね、なんて彼の声が聞こえてきそう。クスリと笑ってテレビを消した。

かちこちと時計の音だけが響く。目を閉じてそのまま横になるとすぐに眠気が襲ってきた。このまま眠ってしまえば、帰宅した彼が揺り起こしてくれるだろう。風邪を引きますよ、なんて言って。

. . .

「こんなところで眠っていたら風邪を引きますよ」

やさしい声色と、頬に触れる唇の感触で目が覚めた。眠る前に考えていたそのままの言葉に思わず口元がゆるむ。寝ぼけ眼で時計に目をやると、二十二時ちょうどを差していた。

「…おはよ、比呂士くん」
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい」
「遅くなってすみません…待っていてくださったんですね」

彼は申し訳なさそうに眉を寄せて私を抱き締めた。その体温とワイシャツの擦れる音が心地良い。大きな背中に腕を回すと、彼の声がなまえ、なまえ、と弱々しく私を呼ぶ。額を彼の胸に埋めたままどうしたの?と問えば、縋るように口付けられた。

「パスタを茹でましょう」

しばらくして私を解放した彼は、ふわりと微笑んでキッチンへ向かった。どこに何があるかなんて知らないくせに。すぐにその後を追って、シャツの裾を引っ張った。

「疲れてるんだから座ってなさいな」
「たまには何かやらせてくださいよ」
「だーめ。おとなしくしてて」

むくれる彼を無理やりソファに押し戻して、キッチンに立つ。珍しく自分からテレビをつける彼の背中を横目に、たっぷり水を張った鍋に火をかけた。ミートソースも温めなおす。

「いい匂いですね」
「今日のは美味しいよー」
「なまえの料理はどれも絶品ですよ」
「そ?ありがと」

いつの間にか隣にやってきた彼と他愛もない会話をしながらお鍋をかき混ぜた。どうしても何かしたいというから、茹であがったパスタをザルにあけるのを手伝ってもらった。そしたら彼の眼鏡が湯気で真っ白になってしまって、思わず噴き出した。

「美味しいですね、とても」

私の作ったごはんを食べる彼の姿はとても可愛らしくて好きだ。にこにこと笑みを浮かべながら山盛りのパスタを頬張る彼は、たまらなく愛おしい。それにしても今日のミートソースは随分と上手く出来た。余った分は明日ドリアにしよう。

「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」

使った食器は備え付けの食洗機にまとめて放り込んだ。スタートボタンを押して、ソファでテレビを見る彼の隣に座る。最近のニュースはいじめで自殺した中学生の話題で持ちきりのようだ。それを眺める彼の横顔は、まるで自分のことのように憂えていた。

「比呂士くん、」
「ん…なんですか?」
「何かあった?」

伺うようにきゅっと彼の手を握ると、力のない笑みが返ってきた。こんなに弱っている彼も珍しい。シャツの首元をつかんでぐいと引っ張れば、あっけなく倒れた彼の頭がぽすんと私の太ももに落ちた。その眼鏡を奪ってかけると、少しだけ視界がゆがんだ。

「似合う?」
「目を悪くしますよ」

それはすぐに奪い返されて、ミニテーブルに放り出された。私を見上げる彼の顔は、疲労の色を浮かべている。その乱れた前髪を掻き分けるようにそっと額に手をやると、ゆるりと目を細めて唇に弧を描いた。そうして頭を撫でているうち、やがてぽつぽつと話し始めた。

「私のクラスの生徒がね、万引きをしたんですよ」

それは仕事を終えて帰ろうとしていた矢先の出来事だった。親に連絡がつかないからと担任である彼が警察まで呼び出されたのだという。やれやれ、また不良グループの一人だろうかと思いながら電話口で告げられた名前は、普段はとても大人しい男子生徒のものであった。

彼はいつも通り慎重に、その男子生徒に歩み寄ろうとした。けれどもその子は何も答えてくれない。何故、どうしてそんなことをしたのかと問いかけても黙ったままで。ならば誰かに脅されているのかと聞けばそれも違うと首を振る。彼は困り果てていた。そのうち迎えにきた母親に話を聞こうとしたところ、彼女はこちらが何かを口にする間もなくあなた方の教育がいけないんです、と怒鳴り散らした。そうして散々喚き立てたのち、彼の言葉には一切耳を傾けようとしないまま、かわいい我が子を連れ帰っていったのだとか。

「それは大変だったね…」
「ええ…けれどもそういう親御さんがいらっしゃるのは今のご時世仕方ないと思うんです。理不尽に責め立てられることも、腹が立たないと言えば嘘になりますが…そういう仕事だと思えば」
「そっ、か」

うんうんと小さく相槌を打ちながら彼の話を聞いた。窮屈に留められたままだった首元のボタンをひとつふたつ外してあげると、少しばかり表情が和らいだ気がする。彼は淡々と言葉を続けた。

「ただ彼は…私がいくら声をかけても、何も話してはくれませんでした。その瞳には何も映っていなかったんです」
「うん、うん」
「けれど彼の母親がきた瞬間、何かを期待するような表情になりました」
「…うん?」
「それは一瞬のことでした。母親が私を怒鳴りつけたときにはもう、落胆の表情に変わっていたんです」
「え、それって…」
「ね、教師って無力だと思いませんか?」

目を伏せたまま自嘲気味に微笑んだ彼のまぶたは小刻みに震えていた。私は何も言えず、綺麗に生え揃った長いまつ毛を数える振りをしながら、見も知らぬ男子生徒のことを考えた。きっとその子が抱えていたのは、ただの担任教師でしかない彼には踏み込めない領域の問題だったのだろう。

「教師はどうあっても親にはなれないんですよね。当たり前のことなのに…なんだか無性に虚しく感じてしまいました」

一通り話し終えると、彼はいつも通りの柔らかな笑みをつくった。私はたまらなくなり、小さな子どもにするように彼を抱き寄せた。彼はそんな私を見て、食事のあとだからキスは避けましょうか、なんて言って笑う。そうね、と微笑み返すと、彼は額に触れていた私の左手をとって、そこにきらりと光るリングに慈しむような眼差しを向けた。

「なまえ」
「ん?」
「子どもが欲しいです。あなたと私の」
「え…」

思わぬ発言に、ぽっと耳元に熱がともる。彼はゆっくり起き上がって私に向き直った。そして普段は眼鏡で隠されている鋭い視線を真っ直ぐこちらに向けて、いいですか?と囁いた。それはどんな誘いの文句よりも真に迫るもので。

「…ばか」

私は恥ずかしさのあまり、そう呟いて彼の首筋に鼻先を押し当てるのがやっとだった。

(20120901)
after story

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -