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祝福じゃなくても恋でも


実った恋が祝福となり、朽ちた恋は呪いになると言うのならば、私のは、呪いだった。



総北高校に入学して、三年目の夏が終わった。
私の中で夏の終わりとは二種類ある。一つはインターハイが終わったことの比喩で、二つ目は暦上のもの。ここで言う夏の終わりとは後者である。
カレンダーを捲り、八の数字を九に変えた瞬間に、夏は終わる。
今朝、私は夏を終わらせてきた。
とは言えど、実際は夏と秋の境界線なんか曖昧で、九月になった今でも残暑は厳しく、用意するボトルの数も夏の頃とそう変わらない。
それでも、夏はもう終わったのだ。
水に蜂蜜と食塩、それからレモンの絞り汁とを混ぜ入れた手製のドリンクでボトルを満たしながら、私はそう思った。同時に、泣き出してしまいたいような気持ちに襲われた。終わってしまったのだ。夏が。
ライン製造方式を思わせる規則正しさで、粛々と、同じ形状をした容器に同じ分量のドリンクを注ぎ入れていた私の背後から、ぬっと腕が伸びた。その手は並んだボトルのうちのひとつを掴むと、躊躇なくそれを宙に浮かせて、整然とした列に穴を開けた。


「手嶋」


振り返り顔を確認しなくとも、それが手嶋の手であることくらいわかっていた。
彼からは、いつも五月の風の香りがする。新緑の枝葉を透き通った風が揺らし、吹き抜けていくような香り。それが、柔軟剤の香りなのか制汗剤の香りなのかはわからない。けれどもその香りは、いつも私の胸をさざめかせる。
私は手嶋のことが好きだった。


「あなたのはそれじゃない」


背後に手嶋の気配を感じながら、一瞥するでもなく言う。
見なくても彼が眉を下げて困ったように笑っているだろうことは、容易に想像がついた。なにしろ手嶋は、私の前では常にあの顔だ。
もちろんそうさせている原因の九割は、私のこの、つんけんとした態度にあるのだろう。しかし、今さら改めようとは思わない。今さら、手嶋への好意を公然と態度に出せるはずがない。
だってこの恋は、とっくに捨てていなければいけないはずの想いなのだから。


「えー、どれも同じだろ?」


同じなものか。と内心毒吐く。
私はボトルに並々とドリンクを注ぎ、蓋を閉めてから、それを手嶋の胸に押し付けた。


「手嶋のはこれって、いつも言ってるでしょ?」


ドリンクボトルの側面にある傷は、手嶋が落車した時に付いたものだ。
手嶋は、私がこのボトルを彼にだけ使わせる意味をどのように考えているのだろうか。手嶋が傷付けたものだから責任をもって使い倒すようにと、そう受け取っているのだろうか。
ボトルの傷なんかどちらでもよかった。
ただその方がわかりやすいってだけで。
私が早々と手を離したため、他のボトルよりもたっぷりとドリンクが入ったそれは、重力に引かれて転がり落ちそうになりながらも、なんとか手嶋の手に収まった。


「サンキュ」
「仕事だから」


素っ気なく言えば、手嶋はやはり眉を下げて笑った。


「そういえば、さ。引き継ぎは順調か?」


夏が終わってしまったら、本当に何もかも終わってしまうしかない。
マネージャーとしてボトルにドリンクを注ぐことも、授業中にシャーペンを回す手嶋の横顔を盗み見ることも全部。当たり前のように過ごしてきた日々が終わってしまう。
そうして卒業してしまえば、この想いはどうなるのだろうか。行き場のない呪いのような恋心は、いつか風化してしまう日がくるのだろうか。一日、一日と、少しずつ、瘡蓋の下で新しい皮膚ができるかのように、この傷もいつか塞がり、何もなかったように手嶋のことも忘れてしまう日がくるんだろうか。


「ええ、幹ちゃんは飲み込みが早いから、楽させてもらってるわ」
「そうか」


それはとても寂しいことのような気がした。
けれども、恋心と呼ぶには少々陰鬱としすぎた感情を、これ以上自身の内に留めておくのは限界だとも思う。
もう、区切りを付けるべきなのだ。
時々、どうして手嶋のことが好きなのかもわからなくなることがある。好きという気持ちだけが累々と堆く積まれ、私の胸中を圧迫していく。
夏が終わったのだから、この気持ちも終わりにしよう。そう思いながらも私は、やはり手嶋のボトルにドリンクを注いでしまう。どのボトルよりもたくさん。入れられるだけのドリンクを。




  




『「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日』

というのは、現国の教科書にも載っている有名な現代短歌であるが、その歌のように私にも記念日があった。なんでもないはずの一日が、突然に煌めき出すような瞬間があった。


「これ旨いじゃん!」


ドリンクを一口、眼を丸くして手元のボトルを見やった手嶋が「苗字が作ったのか?」と顔を上げて、濃紫の瞳に私を映した。
私が自作のドリンクを試飲してほしいと頼んだのは、同じ中学から総北高校に入学した古賀のはずなのに、蓋を開けてみると、古賀以外に手嶋と青八木の姿もあった。
私はどちらかと言えば人見知りをする方で、常に黙していて喋ることのすくない青八木ならまだしも、人好きのする笑顔を浮かべて、古くからの友人のごとく話しかけてくる手嶋のことは、少しだけ苦手だった。
手嶋が、隣でドリンクを飲んでいた青八木に、「な、青八木」と同意を求めると、丸いシルエットがこくりと縦に動く。
彼はふたたび私を見やって、高揚したように言った。


「すげぇじゃん、苗字!」


薫風が、そっと通りすぎたような気がした。
キラキラとした陽光に照らされた枝葉が、葉擦れの音をたてながら柔らかく囁く、木立の間。僅かに重なり、太陽の光を受け止めようと伸ばした梢の隙間から溢れる、木漏れ日のような暖かさが、胸に柔らかく滲んで、名状し難い心地よさを感じた。
黒目の少ない三白眼は、けれども優しさを含んで煌めいていて、その双眸に見つめられていることが気恥ずかしくなる。
手嶋純太の周りに人が集まる理由が、なんとなくわかった気がした。
私の『サラダ記念日』は、間違いなくこの日だろう。
この日を境に、手嶋への苦手意識は薄らいで、むしろ、私は彼に好意を寄せるようになっていた。その気持ちは、まだ恋と呼べるものではなくて、土に埋もれて芽吹きを待つ種のようなものだったが、たしかに何かが変わるような予感がしていた。
気が付けば、私は彼を目で追うようになっていた。

手嶋と青八木が熱心に練習に取り組んでいる姿を目にするようになったのは、一年目のインターハイの終わり。つまり、夏が終わってすぐのことだった。
以前から二人の自転車にかける想いには、目を瞠るものがあった。成績は振るわなかったけれども、それでも、不貞腐れた素振りも見せず、熱心に部活に参加していた。もとよりそんな二人だったが、ここ最近は、以前よりももっとがむしゃらで、一本意思の通った走りをするようになった。
その姿は眩しくもあり、不安でもあった。
部活も終わり、陽が落ちて久しい部室で、私は外周から帰って来たばかりの手嶋の背中を見つめていた。いつもは先輩たちか、青八木か。部室には必ず誰かがいるから、手嶋と二人きりなるなんてこと滅多にない。


「ねぇ、最近根詰めてない? 大丈夫?」


呼吸の音さえも聞こえそうな、しんと閉じた部室に、声を落とす。
ロッカーに向かっていた手嶋が、「んー?」とこちらに振り向くので、思わず眼を伏せてしまう。
自らの脈動が耳の奥で響く。


「まあ、大丈夫ー……ではないな。もうさ、笑えるくらいあちこちボロボロだよ」


明るい声色で言ってはいるが、その顏には翳りが差していた。
それでも手嶋は眉を下げて笑う。
その姿に、胸を鷲掴みにされたような気がした。
どうして、この人は笑っているのだろう。この笑顔の下になにを織り込んでいるのだろう。わからないけれど、この笑顔にこそ、彼の全てが詰まっているような気がして、私は堪らない気持ちになった。


「もう少し、自分の身体を気遣って。練習だって、もう少し……」
「でも、オレは凡人だからさ、人の倍練習しないとダメなんだわ」


やっぱり手嶋は笑う。
なぜ彼は、満身創痍になりながらも笑えるのだろうか。どうしてここまで頑張れるのだろうか。
知りたい。と、思った。
そして、彼の助けになりたいとも。
私は愚かしくも、その感情に『恋』という名前を与えてしまった。
私には、何もわかっていなかったのだ。


「手嶋が言う、凡人だとかそんなの、私にはわからないけど、身体は大切にしてほしい。大きな怪我してからじゃ遅いって、手嶋だってわかってるでしょ?」


棚から救急箱をおろし、中から必要なものを取り出す。消毒液と脱脂綿。ガーゼでは痛々しすぎるので、絆創膏くらいが無難だろう。


「腕、擦りむいてるから、とりあえずそれだけは手当てさせて」
「ああ……悪ぃな」


痩せている。けれども筋ばった、男子の腕。
小さな擦り傷が沢山ある腕の、赤が滲む箇所に消毒液を吹きかけると、銀の受け皿に、ポタポタと腕から垂れた消毒液が落ちた。
緑色の香りは、消毒液のエタノールに掻き消されてしまった。けれども、絆創膏を貼るときに触れた彼の腕は暖かく、確かに彼の存在を示していた。
こんなに近くに、手嶋がいる。そう考えるだけで、指先も、伏せた睫毛も震えてしまう。
消毒液を吹きかけてから絆創膏を貼るまでの間、彼は静かに口を閉ざしていた。
何を考えているのだろうか。知りたかったけれども、今の私には、顔を上げて至近距離にあるであろう手嶋の顔を見る勇気はなかった。




その日、帰宅した私は『凡人』という言葉を辞書で引いた。

ぼんじん【凡人】
特にすぐれた点もない人。普通の人。また、つまらない人。

黄味がかった紙の上に並べられた言葉は、どれも手嶋に当てはまらないと思った。
私は、手嶋のことをよく知っているわけじゃない。クラスも別だし、会えるのは部活の時だけ。けれども彼が、いつも周囲に気を配っていて、よく気が付く人だというのは知っている。
社交的で、誰とでもすぐに仲良くなれる。はじめは、そんなところが軽薄そうで苦手だった。でも、手嶋と関わっているうちに、想像よりもずっと真面目な人だということがわかった。
少々芝居がかった喋りが、軽薄そうで浮わついているように見せているだけで、彼は優しく、真面目な、気配りの人だ。
部活前や休憩時間に話す内容からも知識を感じさせるし、きっと頭だって悪くないだろう。聞いた話によれば、歌もプロみたいに上手いらしい。
そんな手嶋に優れた点がないだなんて、とんでもない。それに、人を喜ばせるのが好きなのだろう彼が、つまらない人間なわけがない。彼を普通だと形容するのならば、本当に普通の世界に住まう私なんかは、『普通』の枠にも入れてもらえないのではないか。と思ってしまう。
しかし、手嶋が言っているのはそういうことではないのだろう。
そっと息を吐いて、私は辞書を胸に抱いたまま、腰かけていたベッドに倒れこんだ。マットレスのスプリングが優しく身体を押し返し、包み込む。
こうしていると、布団と身体の境界が曖昧になり、ずるずると引きずりこまれるような感覚に陥る。特に考え事をしているときは顕著だ。
微睡みの縁で私は、今年のインターハイのことを思い返していた。
今年のインターハイで、総北高校自転車競技部は二件の落車事故に見舞われた。ひとつは、エースの金城さんの落車。もうひとつは、古賀の落車だ。
古賀が落車する前日。つまり、インターハイ広島大会二日目の夜。私は、ランドリールームで古賀と手嶋が言い合っているのを聞いてしまった。
部屋の奥から聞こえた手嶋の悲痛な叫びに、ドアノブにかけようとした手が躊躇する。
行き場を失った指先をそっと握りこんで立ち尽くしているうちに、なんの前触れもなくドアが開いた。部屋の奥ではまだ手嶋の声が聞こえていて、状況から察するに、手嶋と青八木による説得は失敗したのだろう。
頭二個ぶん高い位置にあるレンズ越しの古賀の眼は、私を認めて丸く形を変えた。それも束の間のことで、いつものように眼鏡のブリッジを押し上げると、彼はなにも言わずに私の前を通りすぎてしまった。
その背中を追う。
窓の向こうは黒塗りの闇で、昼間あれほど五月蝿かった蝉の声も僅かほどしか聞こえない。


「ねぇ……大丈夫なの? 無茶……しようとしてるんだよね?」


先を行く古賀の背中に声をかける。


「なんだ。聞いてたのか」
「少し……。ごめん」


歩く度にヒタヒタと音のする廊下は、冷房のせいかひんやりとしていた。
なぜだろうか。歩いても歩いても、どこにも辿り着けないような気がする。そればかりか、古賀の背中すら遠くなるような錯覚。握った掌は、じんわりと汗をかいていた。


「……手嶋の言う通りだよ。インターハイなら来年もあるじゃない。古賀なら来年も出られるよ。だから……」
「今年のインターハイは明日しかないんだ!」


振り向き声を荒らげた古賀の眼は燃えるようだった。
私はその双眸を見て、やっと思い至った。古賀が、その肩に、大きな背中に、沢山のものを抱えて戦ってきたことに。


「まだ終わってない」


呟きのようなそれは、自身に言い聞かせているようにも聞こえた。これまで積んできたもの、己が力への自負もあるだろう。
古賀は再び宿泊所の冷たい廊下を歩き始めた。けれども私には、彼の背中が遠くなっていくのをただ見つめることしかできなかった。考え直せと説得することも、明日へのエールも、この不出来な唇は何も落とさないまま、固く結ばれていた。
やっとわかった。
先程から感じていた、底冷えのする恐怖の正体が。
私は古賀に、『諦めろ』と言うのが怖かったんだ。
古賀は宣言通り、三日目の峠で勝負をかけた。そうして先頭集団に食らいついた彼は、峠を登りきった先に現れた、下りのヘアピンカーブを曲がりきれずに落車した。らしい。
全治、一年か二年か。先輩の話によれば、暫くは自転車に乗れないということだった。けれども古賀は、自転車競技部を辞めなかった。
何が彼にそこまでさせるのだろう。
彼らは、恋焦がれるようにして自転車に乗る。
それが世界の全てであるかのように傾注して。
インターハイへの憧憬や、思うように走れない焦燥。自らの才能や可能性への期待や諦念。それでも。それでもと、歯を食い縛り、いろんな感情をない交ぜにして、ペダルに足をかける。
だから、私は思うのだ。
手嶋が古賀と同じ立場だったとしたなら、彼もきっと古賀と同じ事をしたのではないだろうか、と。手嶋だって、来年頑張ればいいと今年を諦めることができるほど、器用な乗り方はしていないはずだ。
微睡みの縁に居た私の、「そこまでわかっていながらどうして……」という嘆きが聞こえる。
どうして。どうしてだろう。
結局私にはなにもわかっていなくて、恋に恋をしているような状態だったってだけだ。私は、手嶋を好きだと思いながら、彼にとって何が最善か、彼がどんな気持ちで自身と戦っているのか、想像すらできていなかったんだろう。
だから、あの時――……。


一年の冬だった。
シーズンオフになり、体力作りや筋肉トレーニング中心の活動になった自転車競技部で、手嶋はやはり、遅くまで残って練習をしていた。
気温的に外周には向かないが、雪さえ降らなければ走れないということもない。身体が冷えては大きな怪我に繋がってしまうので、ライド前にしっかりと身体を暖めておくことは必須となるが。


「苗字、バス通だろ? オレも帰りバス停の前通るからさ、そこまで送るよ」


部活を終えて制服に着替えた手嶋がそう言ったので、私は思わず眼を見開いて彼の顔を凝視してしまった。
これは夢?それとも幻聴の類いか。
けれども先輩たちが、「そうしてもらえ」などと話を進めているので、どうやら幻聴や聞き間違いではないようだ。


「ありがとう。その……お願いします……」
「なんだよ。急に畏まんなよ! テレるだろ?」


くしゃりと、手嶋が笑った。
その笑顔に心臓が大きく音を立て、早鐘を打つ。
どうしよう。どうしよう。と、頭のなかはそればかりで、理解の追い付かないこの状況に眼が回ってしまいそうだった。
振り返ってみれば、私はこの時点で、史上最大級に舞い上がっていたのだろう。
私と手嶋が部室を出たのは、すっかり陽が落ちて辺りが黒く塗りつぶされた頃だった。ぼんやりと輪郭が浮かぶ宵闇の中で、吐いた息だけがはっきりと白く見える。
手嶋は小さく、「さむっ」と呟くと、巻いていたマフラーを口許まで引き上げた。私はなぜだかまったく寒さを感じなくて、それどころか、頬が火照り、熱ささえ感じていた。いっそう、吐く息が白く浮かび上がりそうで、それが恥ずかしくて呼吸すらままならない。
バス停までの道すがら、手嶋は口下手な私を気遣ってか、たくさん話をしてくれた。会話が途切れないようにと、私が話せる内容を選んでくれていたんだと思う。やはり、彼は優しい。
冬の夜は静かで、空気はツンっとしていてそっけない。そんな中でも手嶋のまろみを帯びた声は、柔らかで暖かく響いていた。
境界ブロックもない、路側帯が一本引かれただけの端の狭い道を並んで歩いていた時だった。道の向こうから車が走ってきて、それを避けるために私たちは一列になって端に寄った。
立ち止まって過ぎる車を見送る間、ヘッドライトに照らされた手嶋の横顔を盗み見ていた。その横顔は寒さのせいか、鼻の頭が少し赤くなっていた。
手嶋と、毎日こうして当たり前みたいに一緒に下校できたらいいのに。この横顔を一番近くで見つめることができたら、いいのに。
そんなことを考えてしまっていたからかもしれない。


「手嶋は、好きな子とかいるの?」


車の排気音が通りすぎて、しんとしていた帰路に、自身の唇のあわいから溢れた声が落ちた。
コロコロと転がった言葉が、手嶋のスニーカーの爪先にコツンとぶつかり、濃紫の双眸が丸く見開かれているのを認めた時やっと、自分が言葉を発していたことに気が付いた。


「なんだよ急に。ドキドキするだろ?」


手嶋が冗談めかして言うのを聞いて、誤魔化さなければと思った。聡い手嶋のことだ、今ので私の気持ちに気付かれた可能性だってある。けれども、狼狽する唇は寒さに凍えるように小刻みに震えるばかりで、なんの言い訳もさせてはくれない。
そんな私を見かねてか、どこか遠くを見るような眼差しをした手嶋が言う。


「今はさ、自転車のことしか考えられねぇんだわ」


その表情を見て、その言葉を聞いて、腹の底が冷えた。同時にカッと頬に熱が差した。
手嶋は恋愛なんかにうつつを抜かしている場合ではないのに。真剣に、自転車に取り組んでいるのに。私は……手嶋のことを好きだと思いながら、自分のことばかり考えていた。
寒々とした空気が、私を突き刺していく。
恥ずかしい、と思った。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、消えてしまいたいと思った。
身を震わせるほどの羞恥を取り繕うために、私は意識的に明るい声色を作り、震える唇で嘘を吐いた。「手嶋のことが気になっている子に頼まれたの」なんて。「手嶋って意外とモテるのね」なんて。
私はあの日の自分が、世界で一番嫌いだ。




  




夏が終わってしまったのならば、残りの高校生活だって、すぐに終わってしまう。
いや、終わってしまったのだ。
桜にはまだ早い、三月のはじめ。未だ冬の名残が残る冷たい空気が、上履きの下の爪先を凍えさせていた。
底冷えのする体育館に並べられたパイプ椅子に座り、何時間も、よく知らない来賓の、「ご卒業おめでとうございます」に頭を下げ続けていた。なにがめでたいものかと叫び出したいのを堪えながら、厳かに、粛々と。
そんな卒業式を終えた午後。私は未練たらしくも、まだ校内に残っていた。
鍵が壊れている屋上の扉は、ちょっとしたコツを掴めば開けられるということを教えてくれたのは手嶋だった。彼との想い出が、校内のあちらこちらに散らばっている。
私は屋上の柵に手をついて、見える景色に手嶋との想い出を数えていた。
三年のクラス替えで、やっと同じクラスになれたこと。靴箱の前に貼り出されたクラス名簿を見た私が、どれほど嬉しかったか、手嶋は知らない。
席替えの度に、近くにならなくてもいいから手嶋より後ろで、彼の姿が視界に入る席に座りたいと願っていたことを手嶋は知らない。
球技大会も体育祭も文化祭も、今年が一番楽しかった。
高校の三年間で最も心を焦がした事柄を青春と呼ぶのならば、私の青春はきっと手嶋だ。
制服のポケットに入れたスマホが小さく震えて、メッセージを受信したことを知らせる。


『今どこにいる? 昼どっか食いに行こうって話してたんだけどさ、苗字も来るだろ?』


卒業式でだって泣けなかったのに、スマホの画面に表示されている吹き出しを見ていたら、視界が滲みはじめてきた。
本当にこれで最後なんだ。卒業してしまえば、こうして手嶋からLINEが送られてくることもなくなるのだろう。
四月になって、靴箱の前に貼り出されるクラス名簿の中に私たちの名前はない。手嶋の席にも、私の席にも別の誰かが座って、私たちの場所は別の誰かの場所へと上書きされていくのだ。
いつまでも続くと思っていた三年間が、呆気なく終わる。
まだ終わりたくない。終わらせたくない。
それが叶わない想いでも。
自分勝手な想いでも、手嶋のことをまだ好きでいたかった。手嶋のボトルにドリンクを注ぎ続けていたかった。誰にも気付かれない、私だけが知っている小さな小さな贔屓を、これからもずっと、続けていきたかった。のに。
夏が終わってしまったから。
秋も、冬も終わってしまったから。
全て終わってしまうしかない。


「こんなとこにいたのかよ」


後ろから聞こえるはずのない声が聞こえて、私は反射的に振り返った。
認めた顔に動揺が写っていて、手嶋に泣き顔を晒してしまったことに気が付いた。恥ずかしいとかそんな気持ちは湧かなくて、ただ、嗚呼、見られてしまった。と、冷静に思った。


「感傷に浸ってるとこなんだけど」
「いや、意外……だったからさ。悪ぃ」


泣いているのが意外ということか、卒業ごときで泣くのが意外ということなのか。


「でしょ? 意外と可愛いところあるのよ、私」
「あのさ、苗字……」


居心地が悪そうに身じろぎした手嶋が、どこか迷いの色が映る双眸で私を見つめた。


「なに?」
「いや、やっぱいいわ……」


歯切れ悪く、彼は言う。


「そう」


終わらせるのなら、今この瞬間なんじゃないだろうか。


「昼飯、苗字も行くだろ?」
「ええ」


この恋心はきっと、緩やかに死んでいく。
この痛みも苦しみもいつかは風化して、輝かしい想い出へと変換されていくのだろう。それでいいのかもしれない。いや、きっと、それが最善なのだろう。
でも私は、私の我が儘でしかないけれど、いつか死に行く想いなら、手嶋の手で終わらせてほしい。手嶋に告白して終わりたい。
ずっと悔やんでいた。あの時、二年前の冬に、自身の気持ちを誤魔化して、偽って、手嶋に想いを伝えなかったことを。二年前のあの日から、私の恋心はあてどなくさ迷い続けて、どこにも行けずにいる。呪いのように呪縛のように、ずっと。
だから、そろそろ終わりにしたい。
終わらせてほしい。


「ねぇ手嶋」


ん? と振り返った彼から、緑の匂いが香る。五月のそよ風のような。手嶋によく似合う、私の好きな香り。
この香りとも、もうさよならだ。
長い間秘めてきた想いを口にするというのに、不思議と恐ろしくはなかった。

「私、手嶋のことが……好きだった」


やっと終わったのだと思った瞬間、右の目から一筋の涙が流れて、頬をつたった。
滲んだ視界に、動揺する手嶋が映って可笑しくて堪らなかった。
彼は「ま、じ?」と、口を開いて、双眸を大きく見開いた。そんなに驚くほどのこと? っと、聞きたくなるほどに驚きを露にして、狼狽えていた。


「ええ、マジよ」


私は言う。
たぶんその時、私は笑っていた。




  



実った恋が祝福となり、朽ちた恋は呪いになると言うのならば、私のは、呪いだった。
ずっと、呪いだと思っていた。
けれども呪いは、時々まれに、祝福に変わることがあるらしい。



来客を知らせるドアベルが鳴り、私はインターホンモニターを覗き込んだ。しかし、小さな画面は真っ暗で何も映っていない。
故障だろうかと思えないのは、私がひねくれているせいだろう。
真っ暗な画面に向かって「はい」と返事をすると、「お届けものです」と声が聞こえて、思わず笑ってしまいそうになる。声色を変えてはいるけれども、間違いなく手嶋の声だ。
壁にかけたカレンダーを見やる。
まあ、今日くらいは手嶋の小芝居に付き合うべきだろう。思わず笑みの滲むため息の後に、チェーンを外し、ドアを開ける。すると眼前に、薫り立つ赤いベルベットが広がった。


「誕生日おめでとう!」


ドアの向こうに立っていたのは、想像通りの軽薄そうな出で立ちの男で、彼は普段から浮かべている笑みを少しも崩さずに花束をこちらに傾けている。
高校の卒業式の日、終焉を求めて告白した私に彼は、「オレも好きだった」と返事をした。まさに青天の霹靂とはこのことで、私の二年間はなんだったのかと膝から崩れ落ちる思いだった。
けれども私は、嘆きと後悔ばかりだった二年間が無駄だったなんて思わない。いつから手嶋が私を好いていてくれたのかは怖くて聞けていないけれど。きっと、あの時の手嶋にとっては、私の想いも、彼の中にあった私への想いも、邪魔なものであったに違いないから。
今でも、彼は大学で自転車に乗っている。
この恋心をずっと呪いだと思っていた身だ、多くは望まない。手嶋にとっての一番は自転車でいい。ただ、想い続けていられることが私にとって一番しあわせなのだ。


「あ、りがとう」


受け取った花束は、私たちに似合わなくて落ち着かない。何しろ薔薇の花束なんて、はじめてもらったのだ。しかも、相手が手嶋となれば、落ち着いていられるわけがない。


「苗字、スゲー真っ赤になってる」


かわいい、と何でもないことのように言うので、閉口してしまう。
しかもだ、


「これ、もしかして……」
「あ、気付いた? 本数、歳の数にしてもらったんだ」


誕生日に薔薇の花束だなんて、あまりにもベタすぎて、今時ドラマでだってやらない。しかも、歳の数ときた。ここで、歯の浮くような台詞のひとつでもあれば、キザだって笑い飛ばせるのだけれど、手嶋のは、キザっていうよりベタなのだ。
しかし悔しいことに私は、このベタすぎるほどベタに、何かある度にサプライズを仕掛けてくる男のことが、今もあの頃とちっとも変わらず、いや、あの頃よりももっとずっと好きで、好きでたまらないのだ。


「ねぇ、手嶋」


好き、と言えば、キョトンと瞳を丸くした手嶋が、「珍しいな」と目を細めた。


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