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エピローグ


まだ果ての方ではオレンジ色が溶けている、宵の口の紺碧の空に、色とりどりの大輪が咲く。アナウンスのカウントダウンの後に始まったスターマインは、一発目ということもあり、盛大で華々しかった。
次々と上がる花火に目を奪われていると、「名前さん!」と声をかけられてハッとする。

「もー、ちゃんとついてきて下さいよ! 子供っすか? こんな人の多いとこではぐれたらそう簡単には会えませんよ?」
「ごめんごめん。でも、もうちょっと歩くスピード落としてもらえると助かるんだけどな」

両脇に屋台が並んだ往来の中、「ほら、私今日下駄だし、歩きにくいから……」と小首を傾げれば、彼のつり上がった眉が下がって、「しょうがないっすねー」と呆れた色のため息が放り出された。

「じゃあ、ほら」

差し出された手と、ぷいっと背けられた顔を交互に見比べる。そんな私に彼は「鈍いな!」と言い放つと、やや荒々しくも私の手を握って、ぐいぐいと歩き始めた。手を繋ぐっていうか、引っ張られるみたいなそれ。
でも……耳がちょっと赤いよ、一差。
まあ、そんなことを思って可愛いなぁなんて微笑む私だって、頬が熱くなってるんだけど。





浴衣なんて、いつぶりに着ただろう。最後に着たのは多分高校生のころで、その頃から体格は変わってなかったけど、柄と色が派手すぎたからさすがに新調した。青鈍色の生地に、白いストライプと大きめの牡丹があしらわれた浴衣。選んだ理由、牡丹の色がオレンジに見えたから、なんて、そんなことは言ったりしないけど。
久しぶりに着付けを頼んだ母は水を得た魚のように舞い上がっちゃって、色々あることないこと訊かれて大変だったっけ。下駄なんて履くのも久しぶり過ぎたから歩きにくくてしょうがないけど、でも、着てきてよかったと思う。

『へー、いいんじゃないっすか? 浴衣。似合ってますよ!』

会ってすぐにさらりとそんなことを言うから、意外と目ざといというか、女心が分かるやつなのかもしれない。でも、その後付け加えられた『マゴにもイショーってやつすね!』という一言は、ひたすら要らなかったけど。
全く、初めてできた彼氏が6歳年下の高校一年生だなんて、友達や親に言ったら目を剥かれそうだ。私だって、逆の立場だったら「騙されてんじゃない?」ってなると思うし、今でもちょっと信じられない。それも、小学生の頃からずっと成長を見守ってきた相手だ。今じゃもうすっかり私の身長を抜いて、ガタイだけは大人になったけど、それでも中身はガキんちょだ。その印象は変わらない。

……なのに、なんでオーケーしちゃったかな。気が触れてるよな、本当に。

そんな風に幾度もため息をついたけど、でも実は、その答えはもう明確に出ている。

(私に対して飛び込みを使って告白してくるとか、反則だよなぁ……)

だって、目を閉じればいつでも思い出せる。あの101Aが──不恰好で荒々しくて、技術なんて欠片もないあのダイブが、矢のようにズブリと心に刺さって、抜けなくなってしまったから。
でもそれも当たり前のことだったかもしれない。それぐらい、飛び込みに全てを捧げ、飛び込みに骨の髄まで魅了されてきた人生だった。

驚くほど娯楽が少なかった人生。楽しいこと全部、青春と呼ばれるもの全部、身体から削ぎ落とすようにして、あの孤高のプラットフォームから投げ捨ててきた。登っては落ち、登っては落ち、その繰り返しを気が狂ったように続けた。時に水の世界は私を容赦なく拒んで、激痛に飲まれることもあった。そうじゃなくても、耳の遠鳴りや腰痛は日常茶飯事で。友達や家族からもなんでそこまでするのかほとほと呆れられながらも、私は飛び続けた。それでよかった。理由はとてもシンプルだ、だって私はあの競技に心底惚れ込んでいたから。楽しいことの3倍ぐらい、苦しくてしんどいことの方が多かったけど。

そういえば、そんな人生の恋人とも言えるほど、病める時も健やかなる時も付き合ってきた飛び込みと、決別する決断をした時も、そのそばに一差がいた。

『他の飛び込み見たことねぇし、オレの中では名前さんが世界一です。世界一、好きです!!!』

あの瞬間、あの言葉に、どれだけ私の心が救われたか。
彼は知らないだろう。

(……ああ、もしかしたら、私は、あの時から───)


「──名前さん!!」
「!」

物思いに沈んでいた思考が、その声でパチンと弾けた。隣を向けば、一差が「なにボーッとしてんすか!」と眉根を寄せて私を見ている。
食べ物を買ったり射的で遊んだり、一通り屋台を覗いた私達は、河原に二人並んで座って打ち上がる花火を見物していた。空からはすっかり残映は消え、満天には深い濃紺が敷き詰められて、そこに様々な種類の花火が打ち上がっては消えていく。もう祭りも終わりに近い。

「今、アナウンスで上総プールの名前が呼ばれましたよ! これから打ち上がるヤツっすよ!」
「マジで? あー、そういや確かうちからも出してたわ」

と、言ったそばから、どおん! と濃紺の空に咲いたのは単発の菊型。「……ショボいっすね」と正直な感想を述べる一差に、「しょうがないだろ、儲かってないんだから」と苦笑する。

「あ、一差、口んとこソースついてる」
「え?」
「ちょっと待ってな」

持参したウェットティッシュを一枚出して、口元を拭ってやれば、その行為を甘んじて受けていた一差が少し照れくさそうに「……子供扱いやめろって言ってるでしょ!」と苦言を漏らす。

「実際子供じゃん」
「子供じゃねぇよ!! もう高校生ス!!」
「高校生なんて、私からしたらまだまだ子供だよ」
「たった6歳差でしょ!」

その時、連続して二つの花火が打ち上がった。しゅるしゅると夜空を金色の直線が駆け上っていって、それに少し遅れて、隣の直線がそれを追いかけていく。
花火って、見方を変えれば、夜空という名のプールに落ちていくダイブのようだと思う。それこそ、101Aのような。
どおん、どん! 先に打ち上がった花火が鮮やかな緑の華を咲かせる中、あとから追いかけてった方は、それを追い抜いて、それより高いところで弾けると、オレンジ色の大輪を咲かせた。
その鮮やかな光彩に目を奪われていると、一差が「ほら、見てたでしょ!」と口を開く。

「今の花火みたいに、オレだってあっという間に追い越しますよ! 6歳差なんて!」

己を誇示するように手を胸元に添えて、一差は自信に満ちた声色でそう告げた。ちょっと幼さは残るけど、どんな喧騒の中にあってもよく通る明るい声だ。
彼と一緒にいると、6歳差という壁も、きっとそれ以外に待ち受けている障害も、なんだか難なく乗り越えていける気がしてしまう。本当に、追い越されるような気がしてしまう。そんな希望のエネルギーを容赦なく伝染させてくる、太陽の申し子みたいな子だ。

だけど、私が本当に望んでいることとは、少し違って。

「無理して追い越さなくてもいいよ。あんたはゆっくり、大人になりな」

ゆっくりと頭を振って、そう告げた。

たくさん経験して、たくさん吸収して、そのキラキラしたガラス玉のような瞳に、色々なものを映して。
信頼できる仲間達と共に、夢に向かって一生懸命走りながら、豊かな思い出を作ってほしい。

私が捨て去ってきた「青春」を、めいいっぱいその純粋な心に刻みつけて、素敵な大人になってほしい。

「……そして、これまで通り、その成長を私に見守らせてよ」

祈りを込めて、ささやかな願いを口にすると。一差はハハッと、そんな私のか細い不安を吹き消すように、朗らかに笑った。

「これまで通り、じゃないでしょ。これからは特等席で見守って下さいよ!」
「……。うん」

──ああ、なんて眩しい。自然と目が細まる。どうしてこの子はこんなにも眩しいんだろう。

まだ、好き、とか、そういうはっきりとした恋愛感情は、よく分からないけれど。この素直でまっすぐな子の成長を、一番近いところで見ることができるなら、こんなに光栄で、こんなに嬉しいことはないかもしれない。

そんな風に思った時、一差が「そういえば、ちょっと思ったんすけど」と、何でもないことのように話し始めた。


「花火って、ダイブに似てません? ほら、打ち上がる瞬間とか、101Aっぽいっすよ!」

「────」


何かが落ちる、音がした。

革命を告げるような一陣の清々しい風が、胸を吹き抜けた。そのあと、くすぐったいような、形容しがたい甘酸っぱい感情が、そこに充満していった。
花火を指差して、そう無邪気に言い放った一差の横顔を、くらくらと、酩酊にも似た気持ちで一心に見つめる。

ただ、同じものを見て、同じことを思い浮かべた、それだけなのに。
さっきの風に、まるで心を掻っ攫われてしまったようだ。

「……、好き」

コップに注がれた水が溢れるように、満ち満ちたその感情は、喉を震わせて音になっていた。
無意識に滑り落ちたそれに自分自身驚いて、咄嗟に口元を押さえつける。でも、言葉になった瞬間に轟いた花火のおかげで、相手に届くことはなかったらしい。

「え? なんか言ったっすか?」
「………。なんでもない」

きょとんとした顔でそう問いかける彼に、眉を下げて微笑みかけた。

──うん。今はこのままでいい。
胸底に芽吹いた、小さな蕾。いつか恋という名前の花が咲くまで、大事に大事に育てよう。
そして、その時に、改めて伝えられたらいい。不慣れでも、不恰好でも、あの101Aのように、一直線にあなたの心にダイブできたらいい。

「一差、次はラストの大仕掛けだよ!」

楽しみだね! と、これから始まる二人の希望溢れる未来を夜空に描きながら、私は声を弾ませた。

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