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7.5M


高校一年の夏は、それまでとは比べ物にならないほど鮮烈な彩度で、めまぐるしく過ぎていった。夏休みが始まってからは、とにかく、練習、練習、練習。そして、本番のインターハイが終わったのが昨日。とにかく密度の高い日々で、すべてが終わった今、なんだか夢みたいにあっという間だったなと思う。
丸一日オフの日も夏休みに入ってから初めてで、とりあえず午前中は寝て過ごした。それから飯を食って、自室でベッドに寝転がりながら、ぼんやりと天井を見上げている。まだ8月も序盤なのに、なんとなく、もう夏自体が終わってしまったような気持ちだった。

夏……。でも、なんか……何かが足りないような……

「──そうだ!! 名前さんに会ってないのか!!」

ガバッと身を起こして叫ぶ。雲一つない晴天をバックにからりと笑う彼女の姿が頭の中に浮かんで、強烈な懐かしさが胸を締め付けた。
高校に入って、あんまりにも濃密な日々を過ごしていたから、すっかり忘れていた! 一度思い出せば、もうじっとしていられないほど、あの人に会いたくてたまらなくなった。報告したいことが山ほどある。自転車競技部に入ったこと、そこで出会った愉快な人達、初めてのインターハイ。

まだ身体に疲労は残っているが、こうしちゃいられねェ。オレは荷物をまとめると、部屋を飛び出した。





上総プールに着いた頃には、もう陽は傾きはじめていた。25Mプールは子供達の賑やかな声で溢れている。
入口ゲートを抜けて、きょろきょろとプールを見回すと……いた。名前さんは、いつもの格好をしてホースでプールサイドに水を撒いている。
彼女の姿を確認した瞬間、心臓がわずかに跳ねる。ごくりと息を飲んで、オレは彼女に近づいて行って、「名前さん!」と名前を呼んだ。

「おお、一差じゃん! 久しぶり」
「……っす」

いつもと変わらない、夏の匂いがする名前さんの笑顔に久々触れて、胸の中の温度が上昇する。ほっと安心するような、そわそわと落ち着かないような、変なテンションだ。がばかみたいに緩みそうになるのを、ぐっと抑えつける。

「あれ? 今日は仮面ライダーくんはいないの?」
「はい、オレ一人だけっす。…何か文句でも!?」
「いや別にいいけど……」

段竹にも一応声はかけたけど、オレはいいよという返答だった。ここ数年、段竹はプール付き合いが悪い。行きたくないという感じより、遠慮しているような物言いをするのが、よくわからない。

「ていうかお前、また大きくなったな? 今何年だっけ?」
「……それ、毎年聞きますよね。ちょっとは覚えてほしいんすけど」

苦言を零せば、名前さんは「あはは、ごめんごめん」と眉を下げてからりと笑う。……まぁ、許してやるか。

「高1になりました」
「! そっか、もう高校生か! 道理で、すっかり大人っぽくなっちゃってー」

名前さんは「ちょっと待ってて」と言うと、ホースを置いて、隅の蛇口の方まで駆けていく。水を止めて、またこちらに戻ってくると、オレの目の前に立った。手を伸ばして、自分の頭とオレの頭に交互に掌をかざすと、にこりと目を細めて微笑みかけた。

「もう私より、全然大きいね」
「!」

そう言えば。昔は見上げていた名前さんを、いつのまにか見下ろすようになっている。
「初めて会った時はこーんなに小さかったのになー」と腰の辺りに手をやる名前さんのつむじを見下ろしながら、オレはなんともいえない変な感情に襲われていた。
だって。例えば今、両手を彼女の背中に回して、こちらに思いっきり引き寄せてしまえば。オレよりずっと華奢な名前さんは、きっとオレの腕の中にすっぽり収まってしまうのだ。力だって、きっとオレの方が全然強い。

「……寂しくなるなぁ」

っていやいや、はぁ!? 何考えてんだオレ……! とかぶりを振ったその時、名前さんはそうぽつりと呟いた。

「もう、あんたらの成長を見守れるのも、今年で最後か」
「……え? どういうことっすか」
「今年の8月いっぱいで、ここのバイト辞めるの。来年就職だから、私」

「……………………。は?」



「──段竹!! 段竹、大変だ!!」

ものすごい勢いでピンポンを連打して、玄関の前でそう叫べば、やがてガチャリとドアが開いて、「どうした、一差」と段竹が顔を覗かせる。夕飯時だったのか、口の端にソースが付いていた。
メシ中に悪いなとちょっとだけ思ったが、緊急事態だから勘弁してもらおう。オレはプールであったことを段竹にまくしたてた。
と、ドアに寄りかかって、腕を組んで聞いていた段竹は、なるほどな、と冷静に口を開いた。

「オレ達がチームSSをやめて高校生になったように、名前さんだって社会人になるんだ。しょうがない」
「そりゃ、んなこと、オレだって分かってるけど……」
「……一差。気持ち、伝えなくていいのか?」
「は? 気持ちって?」
「好きなんだろ、名前さんのこと」
「!」

段竹の瞳は鋭い。思わず息を詰めて黙り込んでしまうオレに、「自分で気がついてなかったのか?」とヤツは問いかける。

好き。
段竹が口にするそれが、オレンジビーナが好きとか、カブトムシが好きとか、そういう意味の「好き」じゃないことなんて、オレだって分かる。
名前さんのことを思い浮かべると、胸がぎゅっと苦しくなる。乾いた夏の風のような、からりとした笑顔から覗く白い歯。飛び込みをしている時の、しなやかで人魚みたいな身体。強い西日を受けてきらきら輝く、水に濡れた黒髪。中華料理屋で見せた子供みたいな大粒の涙。ありがとうと言った時の、ぼろぼろの笑顔。彼女との思い出全部が、訴えかけるように、オレの心臓を甘く締め付ける。一体これはなんなのだろうと、ずっと分からなかった。

これが「好き」ってことなのか。
オレは名前さんに、恋ってヤツをしてるのか。

名前を与えられると、不思議なほどにしっくり来て、荒ぶっていた心の中が凪いでいく。
今、オレの中にあるのは、たった一つの想いだけだ。

「……オレ、もう名前さんと会えなくなるとか、ぜってェ嫌だ」

決意を、静かに口にする。

「名前さんに、告白する。そんで、オレのものにする!」





そうと決めたら、すぐ実行だ!

「好きです」
「…………は?」
「好きです。オレと付き合ってください」

名前さんの手から箒が抜け落ちる。カランという音が、人のいなくなった夕暮れのプールサイドに響いた。

「え……えっ? なに、急に……冗談? そういう冗談学校で流行ってるの?」
「冗談なワケないでしょ、本気です」

後ろに手を組んで、オレは彼女の瞳を捉えたまま、強い語気で言い切る。
笑顔を引きつらせた名前さんは「……え、マジで?」と後ずさりすると、オレから顔を隠すように背を向け、箒を拾った。動きがギクシャクしてる。

「いやぁ、一差もそんなこと言う年になったか〜成長したな〜」
「子供扱いすんのやめてください、っていうか話逸らさないでもらえますか」
「……だって……無理、でしょ」

掃きながらぼそぼそと何か言ってるので、オレは大股で彼女の正面に回りこむ。

「無理? 無理って、何がすか!」
「そりゃ、色々あるでしょうが。年の差とか。一差今いくつよ」
「15ス!」
「私は21だから、6歳差だよ。四捨五入すれば10だよ」
「そんなん誤差でしょ、6歳でも10歳でも!」
「誤差なわけあるか!」
「じゃあどうすりゃいいんすか!!」
「そんなの、諦めるしか……ないんじゃない?」
「……ぜってぇ嫌だ」

吐き捨てるように言った。

「ぜってェ諦めませんから!! オレ!!」

挑みかかるようにそう叫べば、名前さんの肩がぴくりと跳ねる。
その時、ある天才的な閃きがオレ様の頭脳にビビっと走った。

「じゃあ、飛び越えますよ!!」

オレは後方にそびえ立っているコンクリートの灰色の怪物を指差して、声を張り上げる。

「あの10Mの飛び込み台からダイブします!! ダイブできたら、オレと付き合ってください!!」
「……!!」

一瞬怯んだように見えた名前さんだったが、すぐに「ハァ!?」と口を開いた。

「なんだそれ! 勝手に決めんな!」
「だって、オレと名前さんの年の差は四捨五入して10歳。そんであの飛び込み台は10M! 1M一歳だと計算すれば、ピッタリっすよね」
「いや、何その理屈、意味わかんないし」
「わかれよ!! それがオレの覚悟ってことすよ!!」
「……っ! あ、あのさ……ちょっと、一回落ち着こ、一差? 私なんか飲み物」
「逃げるな!!!!」
「!」

オレの猛追を受けて、名前さんの目が逃げ場を求めるように泳いでいる。夕陽のせいかもしれないけど、顔が赤いようにも見える。
……名前さん、意外と押しに弱いのか? 攻めるなら今しかない!

「じゃあ、そういうことでいいすね!!」
「ちょ、ちょっと待て、よくない全然よくない!」
「そっちが惚れさせたんでしょ!! 大人なら責任取って付き合えよ!!」
「は、はぁ!? 知るかよ!! お前が勝手に惚れたんだろ!」
「……じゃあ、一億歩譲って、デートしてください」

今月の花火大会、あるでしょ。そう目を見据えて、静かに告げた。

「……一億歩はもはや譲ってないと思うけど……」
「デートぐらいいいでしょ! こんだけジョウホしてやってんのに! 大人のくせに心が狭いな!」
「お前マジで、態度な!?」

名前さんは指を差してそう声を荒げたあと、その手を頭にやって、「まぁ、ほんとに、デートだけなら……」と前髪のあたりを弄りながら、ぼそぼそ目を逸らして言う。

「声が小さい!!」
「……コイツ……、本気でむかついてきたんだけど……」
「ハハッ! でも、よかったです」
「あ? 勘違いすんなよマジで、一億歩譲ってやってだからな」
「いや、そこじゃなくて。それもよかったっすけど。彼氏がいるとか、他に好きな人がいるとかじゃないみたいなんで」
「……!!」
「断る理由が年の差だけなら。いくらでも挽回できる」

そう言って不敵に口角を上げてみせれば、名前さんは苛立たしげに唇を噛んで、「〜〜っ勝手に言ってろ!」と捨て台詞を吐いた。ハハッ、子供みてぇ。


それから、オレの過酷な飛び込み特訓生活が始まった。

部活が午前終わりの日や、お盆でまとまった休みが与えられた時に、わざわざ県外の飛び込み台があるプールまでロードを走らせた。上総プールの飛び込み台は使用禁止だったから、こうするしかなかったんだ。事情を説明した段竹が一緒に付いてきてくれることも何度かあった。
飛び込む上で一番支障になったのは、やっぱり、過去5Mから飛んで思いっきり失敗したあの記憶だ。すっかりトラウマになってしまっていて、飛び込み台の先端に立つと、背後から忍び寄ってきてオレの身体を羽交い締めにしてしまう、もう一人の影の自分だった。
だからオレは、まず最も低い1M台でダイブすることから始めた。飛び込み方も、前に名前さんが教えてくれた、水の抵抗を極力まで減らす飛び方だ。1Mが飛べるようになったら、3M。3Mが飛べるようになったら、5M。5Mが飛べるようになったら、7.5M。
簡単な飛び方といえど、7.5Mから10Mに初めて挑戦するときは、やっぱりちょっとビビった。台の先っぽから見下ろすプールが小さく見えて、あれにちゃんと入水できるのか、あの枠外に墜落するんじゃないか、根本的なところから不安が募る。しかも、無事に着水したとしても、失敗したら受ける衝撃は5Mの時の比じゃないだろう。
最初登った時は、飛び降りる踏ん切りがつかず、ダサいと思いながらもすごすごと戻ってきてしまった。そんなオレを見て、見守ってくれていた段竹が、口を開く。

「名前さんに何かコツとか聞かなかったのか?」
「コツ……」

そういえば、とオレは思い出す。昔、名前さんに「怖くないんすか?」と訊ねたことがあった。あの時、名前さんは、確か……。

『んー、割といつも怖いよ。失敗したらどういう目にあうかわかってるからね。新しい技に挑む時とか、足が動かなくなったりするよ』
『そういう時、私は「自分は陸に打ち上げられた魚だ」って思い込むようにしてるの』

魚? と聞き返したオレに、彼女は「そ。魚、トビウオとかね」と少しおどけた調子で、軽やかに続けた。

『ああ、陸は苦しい、早く水に還りたい、水が恋しい、愛しの水よ……ってな具合にね。思い込ませるわけ。自分は魚だ、って』

あの時の彼女の言葉を思い出しながら、再び10Mの台へと登る。先端までゆっくり歩いて、遥か先の地上にあるプールを見下ろし、両手を横にまっすぐ伸ばして。

(オレは魚だ……水が恋しい……オレは魚だ……!)

足がふっと動いた。膝を曲げて、下半身に力を溜めて、大きく宙へジャンプする。ものすごいスピードで落下する中、空中で伸ばした両手を身体にピタリと付けて、身体を縦にして──
薄い膜を突き抜けるような爽快感のある衝撃の後、水中に迎え入れられたオレは沈みながら大きくガッツポーズをする。よし! やっと……やっと10Mから飛べたぞ!
ダイブに成功したあとの心地よい脱力感を覚えながら水面から顔を出したオレに、段竹が「一差、やったな!」と拳を突き出した。オレも「ハハッ! 天才鏑木一差様にかかればこんなもんだぜ!」とその拳にグータッチをした。

でも……まだだ。
あの人を手に入れるためには、こんなオコサマみたいな飛び込みじゃ足りない。
必要なのは、完璧で、カッコよくて、一発で惚れさせられるような、そんな強い男の飛び込みだ!

プールサイドに上がったオレは、再び10Mの頂きを目指して、階段を上り始めた。

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