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雨のち曇りのち恋


誰にも理解されなくていいと思っていた。されないんだろう、と諦めていた。ロードバイクが好きで、走ることが好きで、強くなりたい、という野望だけ、己の中に燃えているのなら、それでいいと。阻害された時も、けなされた時も、その炎は変わらずあったから、銅橋は我慢して頭を下げられた。
やがて、少ないけれど、ありのままの己を認めてくれる人も現れた。我慢しなくていいと、解き放っていいと、そう言ってくれて。それから2年に上がって、勝利という確実な実績を積み重ねていくにつれて、彼は実力で周りを黙らすことに成功した。

―――あくまで自転車競技部の中で、という話だ。

「銅橋くんってさ、1年の時先輩殴って退部になってるんだって。知ってた?」
「え? そうなの!? やだ、私今席隣なんだけど。怖〜」
「しかも3回もだって」
「うわぁ」

2年の春、新しいクラスになってまだ1ヶ月も経たない頃のこと。
放課後、忘れ物をして教室へ取りに戻ろうとした時、銅橋の耳はその話し声を捉えてしまった。ピタリと、足が止まった。

「いかついし、髪の毛も染めてるし、いかにもって感じ」
「マリはああいう強そうな人がタイプなんじゃなかったっけ?」
「え〜〜いや人に暴力振るう人とかぜったい無理でしょ」

甲高い、キャハハという乾いた笑い声が、彼の鼓膜を震わせる。
一つ、大きく深呼吸をした。

(――言わせておけばいい)

乗り込んでいって、訂正するまでもない。だって自転車競技部と何も関係ない部外者の戯れ言だ。気にすることはない。オレは悪くないと、自分が一番よく知っている。主将もそれを知ってくれている。あんな、まだ顔も名前もわからない、有象無象の女に何を言われようが、痛くも痒くもない。

そう思い、拳を強く握りしめた、その時だった。


「私はそんなに悪い人だとは思わないけどなぁ」


特に、誰かを咎めるような響きもない。強い意志も感じられない。

独り言のように、能天気に呟かれたそれは、だが、確かにその場にあった空気を変えた。

「だって、この前、日直の岡部さんが黒板消してる時、変わってあげてたよ」

……それは。
アイツがチビで、全ッ然消し終わりそうになかったから、見るに見かねて手を出しちまっただけだ。

「それに本当に不良なら、そもそも部活頑張ったりしなくない? あの人――銅橋くん、この前表彰されてたよ。すごいよ」

…………。

「あんたそれ、銅橋くんの髪の毛が緑だから擁護してるんでしょ」
「う。まぁ、それもある」
「出たよ、苗字の緑キチ」
「キチってゆーな、愛好者と言え。とにかく、あんまり自転車競技部のこと知らないのに、こんなホントかどうかもわからない噂で盛り上がるのよくないよ。誰が聞いてるかもわからないんだし」

ね? やめとこ? と軽い口調で諌めた後、「それに緑好きに悪い人はいないって昔の偉い人も言ってたよー」と茶化したように付け加える。それに毒気を抜かれたのか、ほかの女子達も「なんだそれ」「結局それが言いたいだけでしょ?」と呆れたように笑い、和やかに、話題は移り変わった。

(――苗字)

ゆっくりと、心の中で呟いた。同じクラスのヤツだ、ということだけはわかる。でも顔はよく思い出せない。下の名前もわからない。

けど。

苗字。銅橋は、彼女の名前を繰り返す。苗字。どんなヤツなんだ。
刻みつけるように呟くうちに、その円やかな響きで、苛立ちや怒りで波立っていた心の中が、平穏を取りもどしていく気がした。





その次の日。銅橋は、彼女の本名を知ることができた。苗字名前。顔も確認し、昨日はぼやけていた人物像がはっきりする。苗字名前は、どこにでもいるような凡庸な女子生徒だった。

更に次の日。彼女の持ち物がどれもこれも緑色で統一されてることに気がつく。そういや「緑キチ」とか言われてたな、と彼は思い出して、ほんのわずかに愉快な気持ちになる。

一週間後。知らずのうちに、銅橋は彼女のことを目で追っている。目立つどころか、注意していなければすぐに見失ってしまうような、どちらかといえば地味な女子生徒だ。でも、あの小柄な身体の内側に、自分への陰口を諌めるだけのしたたかさを確かに秘めている。不思議な感じだった。

そしてそれからさらに二週間後――あの、雨の日が訪れた。
しとやかに降りしきる五月雨が、それまで互いの背中に秘めた視線を送るだけだった二人を、一つの傘の下に閉じ込めた。肩と肩が触れてしまいそうなほど、近い距離で。

彼女は知らない、銅橋がもう一ヶ月も前から自分の存在を認識していたことを。彼女は知らない、相合傘をしようといささか強引に迫られた時、かすかに彼の心に喜びの色が滲んでいたことを。彼女は知らない、隣で歩いていて、会話を重ねているその瞬間も、彼が彼女を絶対に濡らすまいと気を張っていたことも。

こんなの、自分の柄じゃない。し、浮かれすぎだ、これから部活なのに緊張感持て、と律する声も聞こえる。
だが、そういった、ある意味羞恥心のようなものを一つ一つ取り除いていくと―――残るのは、「楽しい」という素直な感情だけだった。





そして、それから数日後。


「銅橋くん、おはよう」

朝練を終えて、銅橋が教室に入って席についたところに、名前が訪れた。弾んだ声は、自分の登校を待っていたかのようにも聞こえた。いや、そんなわけはない、と思うが。少し居心地の悪い気持ちになりながら、あぁ、はよ、と返答する。

「えっと。これ、この前借りたやつ。聞いたから返すね」

本当にありがとう、とはにかみながら名前が手渡したのは、一枚のCDだ。それは数日前に銅橋が名前に貸したものだった。

あの雨の翌日、ハンカチを返す際に。渡すだけ渡して、その後どう話を続けるかもわからず、それじゃあと戻ろうとした銅橋を引き止めて、名前は言った。

『銅橋くん。あの、時間があるなら、もうちょっとお話しない?』

そして、

『昨日は、私が好きなものの話ばっかりしちゃったから、今度は銅橋くんの好きなもの、教えて欲しいな!』

まっすぐ見上げられて、まさかそんなこと言われるとは思ってなかった銅橋は狼狽えた。好きなもの、とモゴモゴと呟く。咄嗟に頭の中に浮かんだのは自転車だったが、求められている答えとは少し違う気がした。

言葉に詰まる銅橋に、名前が助け舟を出す。

『えっと、例えば好きなアーティストとかは?』
『……あぁ、それなら』

そんなに音楽に詳しいわけではないが、一つだけ、昔からよく聴いているバンドがあった。その名前を上げると、名前は『へぇ!』と顔を輝かせる。知ってるのかと思えば、『うーん、知らないなー』と言葉が続いて、じゃあなんでそんな嬉しそうな顔をしているのか、疑問が浮かぶ。

『じゃあ、CD、貸す……か?』
『! いいの!?』

再び顔を上げた名前が、嬉しそうに顔を綻ばせた。『ありがとう』と笑いかけられて、心の無防備な部分を不意にくすぐられたような動悸が襲った。銅橋は慌てて目を逸らした。

――そして、今に至る。

「あんまりこういうバンドの曲、聞かないんだけど……かっこよかったよ! ワーッと血が滾る感じ!」
「そーか、まァ…なら、よかったけどよ」
「パッと聞いた感じ、2曲目と5曲目が好きだったな〜」
「2曲目と5曲目……オレも好きだ」
「! やっぱり?」

いいよねいいよね、と名前の頬が緩む。
その笑顔の裏には何の敵意もなく、何の含みもなく、好意100%であることを、銅橋は知っている。

(私はそんなに悪い人だとは思わないけどなぁ)

不意に、あの日の声が蘇った。

――知っている、からこそ。
そういう視線に慣れてないのもあって、銅橋はどうしても、素直に受け止めることができなかった。また、目を逸らす。

「あ、それでね……これ、お礼。昨日焼いたクッキー。抹茶味!」

と、名前がおずおずと差し出したのは、うぐいす色のクッキーが何枚か入った透明な小袋だった。緑色の細いリボンで、上の方が括られてある。

……ここでも緑かよ。

「徹底されてんな、ホントに」

そう思ったら、自然と口元が綻んでいた。

「今、食ってもいいか?」
「あ、うん。どうぞどうぞ」
「……。うまい」

口の中でほろりと崩れたクッキーは、優しい味がした。思わずといった感じで呟くと、固唾を呑んで見守っていたと思われる名前が、「ほんと!?」と身を乗り出す。

「あー、よかった〜! いや、ちゃんと味見したし、自信はあったんだけどね? 甘いもの苦手とかだったらどうしよっかなと思ってたから、よかったよ!」

また作ってくるね。
何の臆面もなく、名前は弾んだ声で、そう続けた。


「……ああ」


――見れない。

きっと今、彼女は満面の笑みを自分に降り注いでいるのだろう。

少し前までは、自分から彼女のことを目で追っていたというのに。ここ最近ずっとそうだ。目の前で笑われると、胸がギュッとして、逃げるように勝手に目を伏せている。

銅橋は思う。

だって、直視してしまったら最後な気がするのだ。そういう、本能的なところで予感がする。見てしまったら、突きつけられてしまう。抑えきれなくなって、しまう。

多分、ずっと前からーーーあの立ち聞きをしてしまったあの日から。自分の心は、自分の力じゃどうにもならないところに、縛り付けられている。

その檻に、名前が付く日も近いだろう。きっと、優しくて、あたたかで、円やかな響きの名前が。甘酸っぱい予感が身体の内側に息づくのを感じながら、上ずる鼓動を抑えつけて、銅橋は「楽しみにしてる」と小さく言った。

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