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新開くんの唇を奪う


「失礼しまぁーす……」

「あ、苗字さん。今日もお迎えご苦労様。新開くんなら、あっちで寝てるわよ」

保健室の先生は、ため息混じりにそう笑うと、カーテンの仕切りで区切られている一角を指差した。

「ほんとごめんなさい、毎度毎度…」

「まぁね、自転車競技部だからね…。疲労回復したいのはわかるけど、でも、さすがに最近は頻度が多いわよ? 私も見逃しきれなくなってきちゃうから」

苦笑する先生。うん……っていうか、見逃しきれなくなってきちゃうって、今この時点でだいぶ新開くんに甘いよね。他の生徒にはこんな対応しないくせに。


新開くん、ほんっと年上キラーだ。


「―――あ、まずい。そろそろ職員会議の時間だ。それじゃ苗字さん、新開くんによろしくね。私ちょっと行かなくちゃだから」
「はぁーい」

内心、なーにがよろしくねだ、とちょっとうんざりしつつ先生を見送る。

同じクラスの新開くんは、5時限目の授業をよくサボっては保健室で寝ている。その後に始まる部活に向けて、体力を温存しときたいんだとか。で、私は放課後、それを起こしにいく係。なんで私かと言うと、彼が直々に私に頼んできたからだ。まあ、彼とはちょっと仲いい方ではあるし、別にいいんだけれど……。

カーテンの仕切りを開けて中に入ると、新開くんは布団すら被らずにそのまま気持ちよさそうに眠っている。その寝顔を見て、自然とため息をついてしまう。ほんと、いい身分だよね。私もこんな風に堂々と寝てみたいわ。

「新開くーん、起きてー」

呼びかけても、一切の反応を見せない彼。

「起きてー、もう帰りのHR終わったよー!」

ぽん、ぽん、と優しく肩のあたりを叩くも、それにも全然反応しない。
………呆れた。どれだけ深い眠りについてるんだ。よく学校でそんな風に熟睡できるな。

私は、ベッドの傍らに置いてある椅子に腰掛けた。ふわっと、窓から風が流れ込んできて、白くて薄いカーテンと共に、彼の髪の毛も少し揺れる。


(…………綺麗な、寝顔………)


老若男女、みんなを魅了する甘いフェイス。その一方で、「箱根の直線鬼」なんていうおどろおどろしい二つ名をつけられてしまうほど、自転車のために全てを注ぎ込み、作り上げられたそのたくましい肉体。

そんな我が学園のアイドルにしてヒーローの彼は、今私の目の前で無防備に寝ている。


…………いや、違う。


今私の目の前に寝ているのは、鬼でもアイドルでもヒーローでもなく。

一人の男の子。私にとって特別な……私が恋心を抱いている、一人の男の子で。

そこに、そんな肩書きは全部いらないのだ。


いつもこっそりこちらを伺っている保健室の先生は、今日はいない。今、この保健室にいるのは私と新開くんの二人だけ。
それを意識し始めた途端、妙な高揚感と開放感で、心拍数が上がってくるのを感じる。


「新開くん。新開……隼人、くん……はやとくん………」


息を吐き出すように彼の名前を呟くと、誰も聞いてないというのに背徳感で背筋がぞわりとした。

熱を帯びた言葉も、爽やかに注ぎ込む風に全部ぜんぶ流されてしまうのだから、ねえ、今だけは許して。


「好き、新開くん………」


―――――言ってしまった。

キューっと、切ないものが胸を締め付ける。こんな想い、彼は知らないんだろう。私がどんな気持ちでここに通っているのかも、何にも知らない。

立ち上がる。起こさなくちゃいけないから、と自分に言い聞かせ、そっと彼の身体に近寄る。

ネクタイは緩められていて、がっしりとした首もとと浮き出た鎖骨に、ごくりと唾を飲んだ。


(いけない、ダメだよ、何考えてんの、私………)


心拍数がどんどん上がっていく。頭の中で理性が何かをわめきたてているけど、全身に響く鼓動でそれもどこか遠くへ追いやられる。ぼんやりとする視界で、ただただ綺麗な彼の寝顔だけがくっきりしていて。


我に返ったのは、ふっと、唇になにか柔らかいものが当たる感触がした時。


「―――――っ!!!!」


勢いよく後退すると、背もたれのない丸い椅子がガタっと倒れて、その音に心臓が跳ね上がる。新開くんはまだ起きる気配はない。慌てて椅子を直して、私はカーテンの仕切りを開けると保健室から飛び出した。


(何やってんの、何やってんの、何やってんのよ私………っ!!)


同じ言葉が回り続け、思考がストップしてしまった脳内は、ただ「逃げろ」とだけ命令を下した。それを忠実に守って、足だけがひたすら動き続ける。

走って、走って、走って。

階段のところまで来ると、私はその手すりから伸びる支柱にすがるように掴まって、思わずへたり込んだ。
荒い息を整えるのも忘れて、唇を押さえる。

私は、やってはならないことをした。

――――寝ている新開くんの唇を、奪ってしまった。


(私、最低だ………………)


改めてその事実を突きつけられると、凄まじい罪悪感と自己嫌悪でじわりと涙が滲む。あの時、私は自分を抑え付けることができなくて、一瞬の欲望に身を任せてしまった。


(……最低だ。本当に、最低だ……)


その時、階段でへたり込んでいる私の横を、男子生徒が駆け下りていった。その姿を見てはっとする。彼は自転車競技部のジャージを着ていた。そうだ、私は新開くんを起こさなくちゃいけないんだ。部活が始まる時間までに…!!

立ち上がると、ふらりと目眩がして、慌てて手すりを掴む。涙で滲む視界をぱちぱちと瞬きをしてはっきりさせ、私は歩き出した。心の中は、彼と再び対面できるような状態ではなくて、落ち着きも冷静さも何も取り戻せてなかったけど、でも行かなくちゃ。それが私の役目なんだから。





保健室のドアは開けっ放しになっていた。多分私が逃げ出した時のままなんだろう。そっと中に入ると、やはり先生の姿はない。ドアを閉めると、私はゆっくりと中に進んでいく。

その時、中途半端に開けられた白いカーテンの仕切りの間から、人影が動くのが見えて、私の心臓は止まった。


「――――あ、苗字、今起こしに来てくれたのか。ほめてくれよ、今日は自分で起きたんだぜ」


新開くんは、起きていた。立ち上がった状態でカーテンの隙間から顔を覗かせて、私を見て笑う。

「なあ、苗字、ちょっとこっちに来てくれないか? ネクタイを結びなおすのが、うまくいかなくて………」
「…………」
「苗字?」
「―――っ、あ、うん……!」


―――――バレていない。
起きているのを見たときは、肝が冷えたけど。でも、バレてない。私の名を呼ぶ彼の声も、向けられた彼の笑顔も、いつもと同じだ。クラスメイトの新開くん、ただの友達の新開くん。いつもと何一つ、変わらない。

安堵と、罪悪感と、そしてほんの少しの寂しさのようなもので、再び私の心の中は色んな絵の具が混ざり合った子供のパレットみたいに、ぐちゃぐちゃになる。でもいいんだ、これで。私が言わなければ、彼の中であのキスは無かったことになる。私の中であのキスは一生残るのだろうけど、でもそこで閉じ込めておけば、それは事実では無くなる。過ぎ去る時間にさらされ、風化し、いつかきっとマボロシのような記憶になる。

それが一番いい。………逃げ、なのかもしれないけど。

私はいつもと変わらない、「ただの友達の苗字名前」を装って、新開くんへと近づいた。カーテンの仕切りの中に入ると、彼はベッドの傍らで立って、赤いネクタイを首からかけてアレでもないこれでもないと、試行錯誤しているようだった。

「…ネクタイ、結ぶのそんなに苦手だっけ?」
「恥ずかしい話、実はそうなんだよな。……あ、そこ閉めてくれ」

意外な一面に微笑んでいると、彼がカーテンの仕切りを指差した。別に今更閉めなくてもいいかと開けっ放しにしといたのだけど、着替え中はやっぱり恥ずかしいのかな。私は返事をしてそれを閉めると、もう一度彼の方に向き直って――――息を呑んだ。

「……!」

新開くんは、その間に先ほどよりぐっと私との距離を縮めていた。びっくりして固まった私に、彼はいつものように笑いかける。

「苗字、ネクタイ、頼むよ」

「あ、ああ……そうか、そうだったね」

成程、そういうことか。一人で焦ったことが恥ずかしい。照れを隠すように目を落として笑い、私は彼の首からぶら下がる赤いネクタイに手をかけた。新開くんは割と身長がある方だけど、結ぶのには全然問題なさそうだ。

「苗字」

ネクタイを締め上げて、最後に形を整えていると、ふと頭上から彼の声が降ってきた。「ん?」と顔を上げて見えた彼の顔は、「いつもの新開くん」では無くて。


――――その、私を見つめる熱っぽい瞳に気づいた時には、私の唇は彼の唇で塞がれていた。


「―――っ!」


先程は一瞬で終わってしまったあの柔らかい感触。自分からした時とは全然違って、熱を持ったそれを強く押し当てられる。何が何だかわからないまま目を見開いていると、ゆっくりと新開くんの顔が離れて。呆然と彼を見上げていると、腰に手が回ってきてぐっと引き寄せられた。思わずつんのめる形になった私を受け止めて、彼はもう片方の手で顎をくいっと持ち上げる。

「ほら苗字、目、閉じて」
「え、ま、待って新開く、」
「さっきのお返しだから」
「――――っ!! き、気づいてたの…!?」
「まあね。嬉しかったよ」
「え?」
「オレも苗字のこと好きだし。けどやっぱり、寝込みを襲うのはいただけないよな」
「………ん!?」

衝撃的なことをさらっと言われた気がするけど、正直私の頭はキスされたこととこの状況で頭がいっぱいいっぱいだ。ただわかるのは、今目の前で笑っている新開くんは、やっぱりいつもの新開くんではないということで。彼のギラリと光る瞳を見て、何か見てはいけない彼の一面を目撃している気がして、思わず目を逸らすと「ダメだよ、こっち見て」とその目に似つかわしくない妙に優しい声で囁かれる。

心臓がばくばくと荒ぶり出す中、おずおずともう一度彼に目を合わすと、ふっと一瞬微笑まれたと思ったら顔が近づいてきた。なんてことだ、拒否権なんてなかった。
半ば投げやりになった私は、ぎゅっと目を閉じた。もうなるようになれ!!!


―――そして私は、後にこの行動を後悔することになる。


真っ暗な視界の中で、ふっと彼が動くのを感じた。身構えた直後に、チュッというリップ音と共に唇に軽くキスを落とされる。これで終わりか、と目を開こうとしたら、今度は角度を変えて柔らかさを確かめるように強く押し当てられて、パニックになっている内にまた唇を吸われた。連続して繰り返されるそれに、頭がついていけなくて、訳がわからなくなってくる。息が苦しくなって後ろに仰け反ろうとしても、腰に回った手が私をしっかりと捉えて許してくれない。

次第に、酸素不足で頭がふわふわして、何も考えられなくなってきた。その一方で、彼に触れられている部分の感覚だけがどんどん研ぎ澄まされていって、ぼやけた頭は唇が重なり合う熱さを快感と認識し始める。

「っ、は、ぁ……!」

ぞわぞわとしたもどかしさに耐えられなくて、キスの合間に吐息が漏れると、それすら逃さないといった感じでまた深く口づけされた。時折聞こえるリップ音と互いの吐息が混じる音がどうしようもなくやらしく聞こえて、それに理性もなにもかも溶かされて全部持っていかれそうになる。その時、キスをしたまま舌で唇を舐められて、そのくすぐったいとも違う初めての感覚に背筋がぞくりとした。

「ン…っ、…!」

「……!」

思わず小さく声が漏れて、それが自分の声じゃないみたいで、恥ずかしさで目にじわりと涙がにじむ。

ああ、弄ばれてる、彼はきっとこんなに腑抜けてしまっている私を見て、内心笑っているんだろう。私は初めてだからよくわからないけど、新開くんはこういうキスを他の人にやったことがあって、だからこんなに手馴れてるんだ。大好きな人にキスされてるというのに、胸が痛いほど締め付けられて、違う意味で涙が浮かんできた時、ゴクリ、と至近距離で彼の喉仏が上下した。

すると、顎に当てられていた手が、私の髪の毛をかき分けて頭を支える。腰をさらにぐっと持ち上げるように引き寄せられて、薄目を開ければまた彼の顔が近づいてくるのが見えた。何か彼の雰囲気がさらに変わった気がするけど、もはや、なにも抵抗する気が起きない。

――――しかし。その瞬間、ぬるり、と彼の舌が、すでにゆるゆると開いていた私の口に侵入する感触がして。


「!!!!!!」


その感触に一瞬で我に返った私は、思いっきり身体をよじって抵抗すると、無理やり彼の胸に頭を埋めて、両手を背中に回した。そしてぎゅうっと強く抱きしめる。こうしてしまえば、彼は私にキスできない。暴れ狂う心臓をなだめるように肩で息をついて、脳に酸素を送り込んでいると、ちらりと視界の端にうつる真っ白なベッド。頭の中でカンカンカンカンと警鐘が鳴り始めて、ようやく戻り始めた理性が告げる――――これ、ヤバイかも、しれない。

「し、新開くん、ごめ、なさい、勝手にキスして、あの、でも、も、ゆるして………!」

息は全然整ってなかったけど、私は彼にそう懇願した。顔を上げたらまたキスされると思ったので、ぴったりと片方のほっぺたを彼の胸にくっつけたまま喋る。

「……んーー、どうしようかな……」

彼の声は少し低くて。私と同じように少し息が上がっているのか吐息混じりで、なんだかやけに艶っぽく感じた。彼の身体に密着している方の耳に直接振動してくる鼓動は、びっくりするほど速い。

「お、お願いします……っ」

「……じゃあさ、もう一度キスしてよ、苗字から」

「――――は?」

「それで許してあげる」

低姿勢でお願いしたら、相変わらず艶っぽい声で何だかどえらいことを注文された。おそるおそる目線だけ上げて彼の顔を伺うと、ちろりと舌で唇を舐めて、挑戦的な顔で見下ろされる。そんなことできるわけないでしょ。大体そんなことしたら今度はどこまでされるかわかったもんじゃない。あの「お返し」とは言えないレベルの深い口づけを思うと、ちょっとずつ怒りがこみ上げてくる。100倍返しぐらいのレベルだったぞアレは。半沢○樹もびっくりだ。

というか、大体今どういう流れでどうしてこうなってるの? 私が新開くんの唇を奪ったら、奪い返された? いやいや、問題はそこじゃなくて……いやそれも大問題だよ!! 流されそうになった私も悪いけど、危うくディープなほうのキスまでされそうになった。でもそのキスの間にものすごく重要なことを言われてる気がする。ああもう、だから全部さっきのキスで吹っ飛んでしまった、えっと、なんだっけ、

「苗字、早くしないとまた食っちまうぞ」

―――人が必死になって頭の中を整理している時に、本当になんなのこの人は。キッと上目遣いで睨んでみせてもなんの効果も無かったので、思いっきりぐりぐりと頭を胸に押し付けてやる。

「新開さま、許してください……!」

「行動と言葉が伴ってないな」

「あ!!!! ってか、新開くん部活はいいの!?!?」

「!」

彼がその言葉で一瞬ひるんだ隙に、私は背中に回していた手で彼の腕のホールドを無理やりこじあけて、その中から抜け出した。そしてそのまま距離を取る。大股で一歩、二歩、三歩。
ふーふーと息を荒げて、臨戦態勢の私を見て、新開くんは髪をかきあげて、呆れたように笑う。

「あーあ、逃げられちまった。そんじゃオレも、部活に行くとするかな」

「本当に、ごめんなさい…!」

「今度は顔と言葉が伴ってないぞ」

「でも、だって、ちょっとひどいよ、あんなの……! 新開くんは、そーゆーの慣れてて、私みたいなのでもあんなキスできるのかもしれないけどっ、私は……気持ちも、無いのに、あんなの、されても……!」

私のキスに気づいてたってことは、その前の私の告白も、私が新開くんの名前を呼んだことにも気づいてたってことだ。あまりの恥ずかしさと怒りで、涙声になる。

「同情のつもり、なのかな? ああそれとも面白かったのかな? そうだよね面白いよね、こんな、私、」
「―――苗字、何言ってんだ?」
「え?」

困惑した表情の彼に、私も困惑する。

「オレ、さっきちゃんと言ったよな? 苗字のこと、好きだって」
「……………え?」
「忘れちゃうぐらい、さっきのキスが良かったんだな」
「っ!! ちが……! ていうか、えっ!?」
「じゃあな、苗字。今日も起こしにきてくれてありがとう。―――また、頼むぜ」


彼はそう言って、口をぱくぱくすることしかできない私の頭を通りすがりにポンポンと撫でると、鞄をひっさげてスタスタと保健室から出て行ってしまった。

残された私は、放心状態のまま、彼が先程まで寝ていたベッドに腰掛ける。

彼が、私のことを、好き?

嘘だあ。嘘でしょ?

それを意識した途端、先ほどのキスを思い出してしまって、身体中が燃えるように熱くなりだした。ぼふん、とそのままベッドに倒れこむと、上履きを適当に脱いで放る。もう色々考えるのに疲れてしまって、寝てしまいたかった。でも、ぎゅっと身体を丸めて固く目を閉じると、そこでもやっぱりあのキスの感触がいちいち浮かんできて。私は枕に顔をうずめて、その言葉にならない気持ちを、「あー」とも「うー」ともつかない唸りと共に吐き出した。


……その後、その場で眠りこけた私は、本当に熱を出してしまって。帰ってきた保健室の先生に何があったかをキツく聞かれたけど、その慌てっぷりにちょっとだけ優越感を得ながら「それは秘密です」と答えたのだった。


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