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真波くんに手当てされる


悔しくて、情けなくて、みじめで、とにかく死ぬっほど悔しくて。頭の神経は身体中をぐるぐる渦巻くそんな感情のせいで、高負荷で焼き切れてしまいそうだった。

何もかもがサイテー。着てる体操着は泥で薄汚れてて、右膝からは今もじわじわと血が滲み出している。さっき雑に水で洗い流したけど、あの傷の大きさじゃかさぶたになるまで時間がかかるだろう。膝が一番酷いけど、他にもあちこち擦ってしまって、傷だらけの私は顔を顰めながら誰もいない廊下を歩く。「負け犬」という言葉が頭をよぎる。今の私にこんなぴったりな言葉はない。……くそっ!!


「これより、第…回、箱根学園体育祭の閉会式を始めます。それでは……」


棒アナウンスが校庭の方からぼんやりと響いてくる。茜差す窓をちらりと見れば、全校生徒が校庭に集まって、今から発表される総合結果にキャーキャー歓声をあげたりする準備をしながら、その時を待っている。

「ちっ」

舌打ちをして、負け犬でボロ雑巾の私は保健室へと足を進める。兄貴が聞いたら「女子が舌打ちなんて、ならんよ名前!」とか言うだろうな。なーんて思ったら更に顔が歪んだ。イマジナリー兄貴は黙ってて。






ことは二週間前に遡る。


「──く、クラス対抗選抜リレー……?」


私が…? とおそるおそる自分に指を向ける私に、クラスの委員長の彼はパンッと手を合わせて深く頭を下げた。

「ごめん! 急で悪いんだけど、出てくれないかな?」
「え、え……なんで?」
「それが……走る予定だった佐藤さんが捻挫で出れなくなっちゃってさ」

佐藤さん……とさっと目を走らせると、教室の隅っこで友達とこちらをこっそり伺っていた彼女と目があった。一瞬で逸らされた。

「それで、うちのクラスの女子の50メートル走のタイムを速い順で並べた時、上から11人目だったのが……」
「私だったってことか」

選抜リレーの定員は各クラス男子女子10人ずつなのだ。

「──いや、加藤さんなんだけどね」
「えっ」
「加藤さんも今指を痛めてるらしくて出れないって言ってて」

加藤さん……と辺りを見回すと、前方で席について予習をしている彼女の肩がギクリと跳ねた。でもそのまま知らんぷりだ。

「それで、加藤さんの次が東堂さんだったってわけ」
「……」
「ちなみに東堂さんの前の走者が伊藤で、後ろが斎藤な。まあそんなに気負わなくてもいいよ、普通に走ってくれればさ!」

じゃ、よろしく頼むな! と爽やかに、無責任さの伴う軽いノリで言うと、委員長は去っていった。

「…………」

最悪だ。
体育祭は、運動神経が悪い私にとって一年で一番嫌いな学校行事だ。自分の出る競技の結果が団体の結果に反映される点でマラソン大会よりもたちが悪い。
でも、選抜リレーには私の足じゃ絶対選ばれないだろうと高を括っていたのに……ああ、耳元でバッハの「トッカータとフーガ」が聴こえる。

「おはよう〜あれ? どうしたの名前さん、顔真っ青だよ」
「…………」

おはようじゃないわもう昼前だわ、と隣の席の遅刻魔にツッコむ元気さえ無かった。

(……こうなったら、本気でやるしかない……)

ギリ、と奥歯を食いしばった。
決まってしまったものはしょうがない。得意不得意も関係ない。私は、私のポリシーに従っていつものようにベストを尽くすだけだ。





それから、私の地獄のリレー特訓が始まった。


まずは、基礎体力作り。毎朝の旅館清掃のさらに前に、40分のランニング。走るのは当然箱根の山中だ。途中で何回か自転車に乗った山大好き遅刻魔と出くわしたが、無視して黙々と走った。
それと、バトンの受け渡しの練習。これは一人じゃできないので、うちで住み込みで働いてくれてる仲良しの仲居さんに協力を願い、特訓に付き合ってもらった。どうすればスムーズに速く受け渡しができるか、理論は本を借りて勉強した。教室でそれを読んでいる時、隣の席の遅刻魔に何回かちょっかいを出されたが、それも無視。
あと、本番直前には伊藤くんと佐藤くんに頼んで一緒に練習したりもした。一人で極めたところで、後ろと前の走者と噛み合わなければ意味がないからね。

……そんな感じで、東堂名前として、やれることはやった。
期間は短かったけど、本気で練習した。松○修造が乗り移ってるかの如く、普段自分が一番苦手としているスポ根に燃えた。燃えてやった。

そしてとうとう迎えた本番。
その成果は───出た、と思う。

バトンの受け渡しのタイミングはドンピシャだったし、腕を振って、足を大きく開いて、私なりに一生懸命走った。


完璧だった。
………足を引っ掛けられて、転ばされなければ。





無人の保健室はガランとしている。そりゃそうだ、保健の先生は校庭に設営された救護テントにいるだろうから。それを知りながらわざわざこっちまで来たのは、今の状態で誰にも会いたくなかったからだ。慰めも、労いも、中途半端な優しさも全部要らなかった。不用意にそんなこと言われたら、私はそいつを殴ってしまうかもしれない。……いや、泣いてしまうかもしれない。

先ほど傷口は水で洗い流したから、あとは消毒して、適当な絆創膏を貼るだけだ。どこに何があるのかは、以前保健委員だったことがあるのでなんとなく把握している。

「いっ……!」

棚の上の方にあるピンセットを取ろうとして背伸びをした時、転んだ際思い切りひねった足首に痛みが走った。よろめいた弾みで、棚の出っ張った部分に置かれていた絆創膏の入れ物が落ちる。カシャン! と音がして、見事に床に散らばる絆創膏に、あぁ、と気の抜けた声が出た。

ため息をついて、拾おうとしゃがもうとすると、膝の傷口が開いて、一層強く痛んで、顔が引きつった。

「……何してんだろ、わたし……」

ばっかみたいだ。

座った瞬間、波のようにしんどさが襲いかかってきた。自嘲するために上がった口角は、すぐにそんな負の感情に押し潰されて、へにゃっと、変な風に歪む。

どうしてこんなにも、うまくいかないんだろう。どうしてこんなにも、私は不器用なんだろう。尊敬してる兄や姉の顔が頭に思い浮かぶ。ほんとに私、あの人たちと同じ血が流れてるんだろうか。

絆創膏をかき集めながら鼻の辺りがツーンとしたその時、その場に、私の心情とは真逆の、能天気で明るい声が響いた。


「──あぁ、こんなところにいた」


「!」


ハッと顔を上げると、そこに立っていたのは──


「真波山岳………」


一番会いたくないヤツがきてしまった、と思った。


咄嗟に手元に目を落として、悟られないようにぐすっと鼻を啜ると、私は絆創膏集めを再開する。

「探してたんだよ。あれ、何してるの?」
「……絆創膏。落としちゃったから、拾ってんの。あんたこそ、何でここにいるの? 負け犬の私を笑いに来たの?」
「え? 何言ってんの? ……ていうか名前さん、怪我してるでしょ。オレが拾うから、ここに腰掛けてなよ」

顔を上げると、真波は中央のテーブルから椅子を引き出して、ね? と私を促した。

「……、ほんとになにしにきたの……」
「いいから。あ、ひょっとして立てないぐらい痛い? それならオレがお姫様抱っこして運んでもいいけど」
「……結構です」

ブルーに燻る瞳からは真意が図れない。
しぶしぶ立ち上がって、椅子に腰掛けると、真波は「ちょっと待っててね、オレが手当てしてあげるから」と言って、絆創膏を拾い始めた。


……真波山岳。
私はコイツのことが、苦手だ。

今年の春。やっとあのウザくてシスコンでやたらと影響力のある兄貴が卒業して、もう兄貴絡みの面倒くさいあれこれが無くなると清々しい気持ちでいた私の前に、突然現れた男。

その名前だけは知ってた。私が東堂尽八の妹だからとかじゃなくて、単に有名人だったから。1年でインハイのメンバーに選ばれた不思議系クライマー、あんな幼い顔して相当な実力者。


『──ねえ、キミ、東堂さんの妹なんだって? オレ、真波山岳。東堂さんにはすっげーお世話になったんだ、同じクラスになれて嬉しいよ』


これからよろしくね、と人懐っこい笑顔で話しかけてきたのが懐かしい。この時はまだ、なんとも思ってなかった。でも、それからことあるごとに私に絡んでくるようになって、その度に私と兄貴を比べるようなことを言ったり、私の運動神経を小馬鹿にしてるようなナチュラルな煽りを繰り返してくるので、どんどん苦手意識が増していった。

同じクライマーである兄貴が嫌いで、その鬱憤を妹である私に晴らしてるのかと思ったこともった。でも、兄貴はウザがられることはあっただろうけど恨まれるような人格じゃないし、やっぱりそれはないな、ってすぐに思い直した。
基本的にずっとニコニコふわふわしてて、掴みどころがなくて、嫌われてるのか懐かれてるのかすら分からない、風船みたいな男。それが私の真波山岳に対する印象だ。


絆創膏を拾い終えた真波は、それを棚に戻すと、そのまま私が中途半端に用意していた治療道具をテーブルへと運んできた。

「やあお待たせ、じゃまず消毒しよっか」
「……真波、あの、手当ぐらい自分でできるから……」
「ダメ、オレにやらせて」

珍しくきっぱりとそう言うと、真波はしゃがみこんで、私の膝の傷をまじまじと見つめた。

「うわぁ、血が出てる」
「……そうだね」
「痛い?」
「……見てわかんない?」

なんで頑なに私の治療をしたがってるのか分からないけど、やるなら早くやってくれ。
漫然としたやり取りに苛立ちを募らせてみせれば、真波は「そうだよね、ごめんごめん」と呑気に笑う。

「それじゃ、多分染みるけど我慢してね」

そう言うと、真波はシャーレの上で脱脂綿にピューッと衝動液を染み込ませると、それをピンセットでつまんで、

「っ、つぅ……!」

──割と遠慮なく、ぎゅう…っと傷口に押し当てた。

「ごめん、痛かった?」
「あ、アンタね、もーちょい、優しくやりなさいよっ優しく!」
「あはは、ごめん」

言ってる間にも、じゅっじゅっと容赦なく消毒していく。脱脂綿が、私の血を吸って完全にピンク色に色付くと、それを傍らに用意してあったゴミ箱にぽいっと捨てて、新しい脱脂綿を用意し始める。

保健室の外では、相変わらず閉会式が執り行われていて、校長先生の前説が終わり、もうそろそろ結果発表といったところだった。いちいち声は届いてくるのに、なんだか、まるでこの保健室だけ切り取られてしまったような感覚に陥る。この不思議ちゃんとふたりっきりだから?

「……止まんないなぁ、血」
「……、まあ、相当派手にすっ転んだからね……」
「オレ、見てたよ。名前さんが一生懸命走ってるところも、転んだところも」
「……そう」

じゅっ、じゅっ……

「訂正しないの?」
「え?」
「転んだんじゃなくて、転ばされたんだーって」
「! ……気づいてたの……」
「結構露骨だったじゃん、アレ。オレ以外にも気がついたと思うけどね」
「あーそう……やっぱ気のせいじゃなかったか。まあ、もういいけどね、どーでも」

窓の外に目をやりながら投げやりに答えると、真波が意外そうに「悔しくないの?」と目線を上げた。

「悔しいに決まってるでしょ。今でも腸煮えくり返ってるわよ、自分自身にね」
「へえ? 転ばしてきた人じゃなくて?」
「そんなヤツ、私を転ばせる時点で人間として私より格下の雑魚じゃん。自分から負けを宣言してるようなもんよ。そんなやつにコケさせられた自分の爪の甘さに腹たってるの」
「っふ……はは! なるほどね」

真波はおかしそうに笑う。相変わらずぎゅうぅっと脱脂綿を押し付けながら。

「じゃあ、クラスのみんなは名前さんのことを責めてなかったよって言っても慰めにはならないわけだ」
「それ、男子でしょ? 私の顔がいいから庇ってくれてるだけだよ」

一部の、私のことを目の敵にしてる女子とか、裏でなに言ってるかわかったもんじゃないね。

そっけなく吐き捨てる私に、真波は先ほどより大きな声を出して笑った。つい、「なんかおかしい?」と眉根を寄せると、「いやぁ、なんでも。やっぱり名前さん、面白いや」と言うので、そりゃどーもと返す。

ていうか、いつまで……

「───ねぇ、名前さんはさ、どんな時に生きてるって思う?」
「は?」

いつまで消毒してんだ、と思った最中、急に話がとんちんかんな方向に変わって困惑する。い、生きてる?

「なに、いきなり……何の話よ」
「オレはやっぱり、自転車に乗ってる時。ギリギリ、あともう一歩のところで死ぬってとこまで身体追い込んで山頂目指してる時、たまらなく生きてる! って思うんだ。逆に言うと、そのぐらいしなくちゃ生きてる感じがしない」
「………」

目をぱちくりとさせて、私は唐突に語り出した不思議ちゃんを見下ろす。なに言ってるんだろうコイツ。

と、真波は顔を上げて、きょとんとしている私の間抜け面を見てふふっと笑った。

「名前さんは、いつも何かと戦ってるよね。今回のリレーにしても、なんにしてもそう、常に向かい風を受けながら全力で立ち向かってる。敵が多いっていうより、自分のプライドのために戦ってる、そんな感じ。よくやるよなって思う」
「……それ、褒めてる?」
「もちろんべた褒めだし、ちょっと羨ましい。名前さんからは、いつでも生きてるって感じがするから。オレとは正反対だ」

だから、目が離せないんだよね。
消毒を再開した真波は、私の傷跡を一心に見ながら、どこかぼんやりと、独り言のようにそう呟いた。

「最初は、東堂さんの妹だっていう興味から近づいたけど、もう正直それはどうでもよくなっちゃった」
「………」

なんか……なんだろう、この流れ。

いつの間にか、真波を取り巻く空気がガラリと変わっている。真波の言葉の行方を、妙に落ち着かない鼓動を抑えつけながら見守る自分がいる。真波はマイペースに喋ってるだけなのに、一方的に緊張感を与えられている。

「あーもういいや、全部ぶちまけちゃおう」とあっけらかんと言い放つ真波に、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「オレさ、今みたいに、傷ついて、ボロボロになって、満身創痍になってる名前さんを見ると……」


ドクン。

目が合った瞬間、その、息苦しくなるほどの胸のざわつきはピークに達した。


「──おかしいんだ、なんだか心臓がズキズキして、自転車に乗ってるわけでもないのにわーって血が騒ぐんだ」

「………」

「だから実は、今も結構やばい。鼓動がバクバクして口から飛び出そうだ。これって一体なんなんだろう?」


ねぇ、名前さんはこの気持ちの正体、分かる?

……そう、真波が問いかける。その口元はどこか挑発的に弧を描き、深い海の底のような色をした瞳には斜陽が差し込んで、揺らめき、人を惑わせる複雑な色彩を放つ。

そんな、見てるだけでくらりとするような危うい笑顔で、じぃっと、火傷しそうなほどの視線を私に向けてくる。

私としては、こんなに間近で、こんなに恥ずかしげもなく、熱烈な視線を送られるのが初めてで。その前のセリフと相まって、どう反応すればいいのかわからず、ただ吐息が震える。目の前の真波は、いつものヘラヘラニコニコした男と全然違って、初めて見る真波の一面で、ひょっとしたらコイツの核なのかもしれなくて。真っ白な煙をかき分けて山中を進んでいったら、急にマグマの本流にぶち当たってしまった探検隊のような気分だ。こんな、燃え盛るような煌きが、ギラついたものが、掴みどころがないと思ってたこの男の中にあったなんて。

と、その時。

「!」

突然、校庭の方からうわぁーーっと地鳴りのような歓声が聞こえてきて、ハッとする。どうやら総合優勝が発表されたようだ。妙な緊迫感が一気に緩和して、真波も「へえ、優勝2年3組かぁ」なんてのんびり反応していて、ふう、と胸を撫で下ろした。

「……あの、真波」
「ん?」
「もう、血はとっくに止まってると思うんですけど……」

そして、やっと言えた。

──そう。さっきからコイツは、もう血を吸わなくなった真っ白な脱脂綿を、ひたすら傷口にプッシュし続けていたのだ。執拗に、何回も、えぐるように、じゅうっ、じゅうぅ…っ、って。

「あ、ホントだ。すっかり夢中になってて気が付かなかった」
「む、夢中にって、あんたね……」

ため息をつく私に、ごめんごめんとへらっと笑い、真波はマイペースに絆創膏の用意をしている。

そんな不思議ちゃんを見下ろして、私はおもむろに口を開いた。

「……ねえ、真波……」
「んー?」
「……レースに行けば見れるの? 生きてるって瞬間のあんたが、もっとたくさん」

そう告げると、弾かれたようにこちらを見る。その顔が、嬉しそうに、ぱあ…と華やいでいく。

──もう、いい。こいつが私に対し倒錯めいた欲望を抱えていようが、ひょっとして恋愛感情を抱いていようが、どういう感情を抱いていようがもう何でもいい、知るか。それより、私はあの青い炎に触れて、真波山岳という人間の深淵を、もっと覗いてみたいと思ってしまった。

それがどういう欲求なのか、今はまだわからない。ひょっとしたら後悔するかもしれない、けど。

「いいの? 名前さん、多分レースに来たらオレのこと好きになっちゃうよ」
「兄貴みたいなこと言うのやめろ」

いつの間にか、痛みも、心が千切られそうなほどの悔しさも、どこかに消えていた。


【リクエスト:運動音痴で東堂さんの妹である夢主に片想いしているけど、初恋なのでアピールが空回りして夢主から苦手な人認定されている真波】

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