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泉田くんにキスをねだる


誰もいない更衣室で、一人淡々と着替えを進める。時計を見れば、時刻はすでに20時をまわっていた。主将としての仕事をやっていると、どうしても自分の練習時間が減ってしまう。こういう風に、部活の時間外で自主練習して補うしかない。しかし、今日は随分とトレーニングに熱中してしまった。明日も通常通り学校はあるのだから、早く寮に戻って課題に取り掛かなければ……。

大体の着替えが完了し、荷物をまとめていたその時だった。


「あ〜〜〜っ、塔一郎はっけぇーーーん!」


バァン!! と壊れるぐらいの勢いで扉が開けられたかと思うと、そこに立っていたのは自転車競技部の唯一の女子マネージャーである苗字名前だった。彼女とは数時間前に別れたはずだ。もうとっくに帰ったものだと思っていたが……。

「苗字さん、まだ帰っていなかったのかい? というかその前にここは男子更衣……」

ボクの言葉は、そこで途切れた。

「とーいちろ〜〜〜!」
「うわっ!」

彼女のただならぬ様子に気づいた時にはもう時すでに遅し。両手を広げた苗字さんがこちらに向かって走ってきて、そのままダイブするように思い切り抱き着かれる。ボクがいたのは部屋の四隅だったので、その勢いで数歩よろけると、背後の壁にぶつかった。

「ちょ、ちょっと苗字さ」
「探してたんだよ〜……はぁ……塔一郎の身体やっぱりすっごくイイね〜〜……」
「……っ! ま、まさか苗字さん……の、飲んだのか、アレを………」
「ん〜〜? なんのこと?」
「炭酸飲料だよ……!」
「炭酸? 飲んでないよ? ベプシなら飲んだけど〜〜」
「それ炭酸飲料だから……!!」

そんなのどうだっていいじゃーん、と甘えた声を出されて、ボクは気が遠くなるのを感じた。彼女の名誉のために言っておくと、この苗字名前は非常に優秀なマネージャーだ。よく働くし気が効くし、性格も明るく聡明で、部員からも人気があった。主将になり一気に仕事が増えたボクのサポートも積極的にしてくれて、ボクはマネージャーとしての彼女にかなり厚い信頼を寄せていた。

だが、この苗字名前には、ある特殊な奇癖がある。

彼女は、炭酸飲料を摂取すると、酔っ払ってしまうのだ。お酒では無く、炭酸飲料で。

そんなことってあるのか、と、初めて聞いた時には信じられなかった。しかし、実際に酔っ払った彼女を目撃して―――いや、『体験』して、ボクは身をもって知った。この苗字さんは、酔っ払うと非常に悪質なセクハラを部員に行うのだ。それも、無差別に。
彼女のこの特性を知っているのは、3年ではボクとユキしかいない。あとは卒業した先輩達の数人。普段からボクとユキは彼女に『絶対に炭酸は飲むな』とよーーーく聞かせていた。そして、部員にも『苗字には絶対に炭酸飲料を渡すな』とキツく言っておいた。もちろんその理由は伏せていたけれど。

なのに、何故、こんなことに。

「どうして飲んでしまったんだ……飲むなと約束しただろう…!?」
「貰ったんだもん」
「誰に……!」
「んん〜〜……誰だっけえ?」

だ、ダメだこの酔っぱらいは……!

「もういい! と、とにかく離れてくれ…!」
「嫌ですぅ〜〜〜」

なんとか彼女を引きはがそうとするも、相当強い力でもって抱き着かれているためになかなか身動きも取れない。頭を肩口に擦り付けられる。何か柔らかいものが、ギュウギュウと押し付けられている、ダメだボク、それが何かを意識してはいけない……!

「無駄無駄、名前は一度引っ付いたら離れません〜〜」
「くっ、い、いい加減に……!」
「―――ねえ塔一郎、ちゅーしよ?」

不意に、彼女が顔を上げた。もう一度、「ちゅーしよ〜?」と呂律があまり回っていない甘ったるい声で告げて、彼女は首を小さく傾けた。そのとろんと蕩けた瞳に一瞬釘付けになって、ボクは慌てて顔を逸らした。

「ば、馬鹿なことを言うな…!!」
「なんで? ちゅーしようよ」
「するわけないだろ……!!」
「なんでなんでなんで? ねえなんで〜〜?」
「何で、って……」

ああ、これはまずい。シャンプーのニオイか、石鹸のニオイか、とにかく彼女から甘い香りがする。抵抗する力が抜けていく。腕をだらんと下げて、壁に頭をもたれかけて、ボクは軽く天井を見上げた。蛍光灯の光が揺らめいて見える。まずい、息が上がっている。早く、なんとかしなくては……。

「苗字さん、もう勘弁してくれ……」
「ちゅーしてくれたら許してあげるよ〜?」
「………」

軽く目を落とすと、相変わらず苗字さんはボクを見上げている。その唇は薄く開かれていて、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。指先が、触発されるようにピクリと動いた。

「ダメ、だ……!」

その言葉は、流されそうになっている自分を戒めるためのものだった。ボクだって一応健全な男子高校生、この状況に何も感じるなというのは無理な話だ。けど、相手は大事なマネージャー、彼女とそんな関係になるのは主将として絶対に許されない。たかがキス、かもしれないけれど……ダメだ……。
ああでも……ほんの少し、女性として、彼女を想っていた自分もいて、これに乗じてしまえという悪魔の囁きも聞こえてくる……いやダメだ、絶対ダメだ。

確か、酔っ払った彼女は、少し時間が経てば急にスイッチが切れたように眠りこけてしまうのだと先輩達が言っていた。それまでの我慢だ…!

「塔一郎、ちゅーしてよ、ねえねえ〜〜」

「………それは、できない、だから離せ……頼む離してくれ……っ」

―――ああ、誰か助けて……。

「ええ〜……塔一郎のけち、けちんぼ」
「ケチでもなんでもいいよ……」
「もう、しょうがないなあ〜〜〜………」

「!」

彼女がため息を吐いた。どうやら、諦めくれたみたいだ。よかった、よく耐えた、自分…!!


「あーあ…………ユキちゃんは、ちゅー、してくれたのに………」


安堵したのもつかの間、彼女が呟いたその言葉にボクは固まった。


「……………え?」


「ユキちゃんは、たくさんちゅーしてくれたよ?」


「………嘘………だ」


「嘘じゃないよ〜〜? 本当だよ!」


「そんな………」


……………ユキが、彼女と………。
……………ユキが苗字さんと、キスを?


「えへ、ユキちゃんのキス、すっごく気持ちよかったなぁ〜〜……」


それを思い出したかのように、彼女の口元がだらしなく緩んだ。



―――彼女のその言葉とその顔を認識した瞬間、プツン、と、欲望を抑えつけていた自分の中の糸のようなものが、切れた。



「塔一郎? なんか、顔がこわ――んんっ!」



頭に一瞬にして血が登った。ボクは、溢れ出した劣情に押し流されるかのように彼女の口を塞いでいた。自分が何に対して腹を立てているのかわからないまま、とにかく、その柔らかな唇を食んだ。初めての感触に身体中を甘い痺れが駆け抜けて、頭が白く塗りつぶされる。腕を回してぐっと引き寄せて頭を抱え込んだ。彼女も、待ってましたと言わんばかりにボクの首に腕を絡ませてきて、さらにお互い求め合うように口付けを交わす。

ここは、自転車競技部の更衣室で、ボクは主将で、彼女はマネージャーで、彼女は今酔っていて、ボクは、その隙に付け込むように、こうして、キスをしていて、ああ、凄まじい背徳感だ……。なのにおかしいな、背筋がゾクゾクして、止まりそうにない……!

「とういち、ろ……、ちょっと、くるし……」

長い口付けの間にそう訴えかけられて、唇を離すと、彼女は浅く息をついた。見計らってもう一度口付ける。今度はゆっくりと、優しく何度も角度を変えて。狭い更衣室に互いの吐息が響いている。こうやってユキも、彼女とキスをしたのか。ユキも……。

「ン、ん……っ!」

―――そう考えただけで気がおかしくなってしまうほどに頭が熱くなって、ボクはその激しい感情のままに自らの舌をねじ込んだ。すでに薄く開いていた彼女の唇はすんなりとそれを受け入れた。中は熱くて、くらくらと眩暈がした。

なんとなくボクは気が付いた、そうかボクは自分が思っていた以上に、彼女のことが好きだったんだ。だから、例え酔っていたからとはいえ、ユキにキスされてしまったことが、許せなかったんだ。

動物としての本能を忠実になぞるかのように、口の中を侵して、舌を絡ませる、唾液を掬い上げる。自分から舌を絡ませてきた、その苗字さんの淫らさに思わず笑いがこみ上げてしまう程に興奮した。ピク、ピク、と小さく震えている腕の中の彼女が愛おしい。どんどん、熱が、身体に蓄積されていく。うっすらと、このままキスを続けていたら大変なことになる、と頭が警告していた。それは絶対に無視してはいけない警告だと、ボクはわかっていた。自分を今自分として作りあげている自尊心とか、矜持とか、このままでは全て崩壊してしまう。

顔をそっと離すと、唾液の糸がつぅ…っとボク達を繋いだ。呼吸を繰り返せば、冷たい空気が肺を満たす。苗字さんは相当苦しかったのか、くたっとしてボクの胸板に寄り掛かって息を荒くしていた。

「ご……ごめん……大丈夫?」

何に対しての「ごめん」なのか、自分でもはっきりしなかった。ボクの問いかけに、彼女は顔を上げた。

「えへへ……平気だよ? 塔一郎のキス、激しかったね……」

「………」

彼女の笑顔は、いつもと変わらずあどけないもので。ああ、この人は、ただただ単純に酔っ払っていてキスがしたかっただけなんだな、というか。そこにボクへの気持ちは無く、本当に誰でも良かったんだな、と思った。

深くため息をついた。ようやく頭が冷えていく。麻痺していた理性的な思考が戻ってくる。

「ふぁぁ……なんか眠くなってきちゃった……それじゃおやすみ、塔一郎……」

そしてそのまま、彼女はボクに抱き着いたまま、スイッチが切れるみたいに眠りについてしまった。慌ててその身体を支える。ようやく、嵐が過ぎ去った。とりあえず、彼女をなんとかして女子寮まで運ばなくては……。


……いや、その前に、まだ体内で燻っているこの熱い疼きを、なんとかしなくてはだ……。






「―――で。何で飲んだの? 誰から貰ったの?」

「えーっと、ですね……た、多分、クラスの男子? かな? あ、部活の人ではないです…!」

「前からキツく言っておいたはずだよね。絶対に炭酸飲料は飲むなって。なのにどうして飲んだんだ?」

「………お。美味しそう、だったので……」

「はい? なに?」

「うっ。あの。随分飲んでないな、と思いまして。ほんの少しだけならいいかなって……。あ、そうそう、それゼロカロリーのヤツだったし……」

「『ほんの少しだけならいいかな』……? 自分が酔っ払うとどうなるか、わかっているんだよね? あとカロリーは何にも関係ないから」

「はい、ごめんなさい、塔一郎くん………」

「金輪際、絶対に炭酸飲料は飲むな。少なくとも、学校では絶対に飲むな。いいね?」

「はい………」

立ったまま、しゅん、と項垂れる苗字さんを見て、ボクは深く息を吐いた。
翌日の朝、顔を真っ青にして教室に駆け込んできた苗字さんは、炭酸飲料を飲んでしまったこと以外、なんと昨日のことを何も覚えていなかった。もちろん、ボクと交わしたあのキスのことも、全て。

「あの……塔一郎くん。私、塔一郎くんに一体何をしちゃったのかな……?」

「…………知らなくて、いい」

全く、今自分の目の前にいる彼女と、昨日のキスをねだってきた酔っぱらいが同一人物だなんてとても思えない。でも確かに昨日、ボクはこの人とキスをした。そう、あの唇に、自分のものを重ねた。彼女は知らないけれど、ボクはあの唇の柔らかさを、口の中の熱さを、彼女の唾液の甘さを知っている。…恐ろしいことだな、と、ひどく虚ろに感じる。

ユキは、昨日苗字さんが炭酸飲料を飲んだことを何も知らなかった。ということはつまり、彼女とユキが口付けを交わしたのはそれ以前ということになる。そう……ユキはボクにそのことを隠している。そしてボクも、昨日のことをユキに言うつもりはない。昨日のことを通して気づいてしまった彼女への想いも、誰にも言うつもりはない。


「――塔一郎くん? 私の顔に何かついてる?」


苗字さんが首を傾げる。ボクは目を伏せて「なんでもないよ」と事務的な声で言った。


【リクエスト:泉田に怒られる】

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