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手嶋くんに呼び捨てにされる


きりーつ、礼。日直の掛け声と共に、帰りのHRが終わった。一日の日課から解放されたクラスメイト達が動き出し、騒がしくなった教室の空気に紛れて私も小さく息を吐いた。さあ、今から部活だ。荷物の整理を済ませておいたモスグリーン色のリュックサックを背負った。入学当初から使っている、可愛くて丈夫なお気に入りのリュックサック。

同じクラスにいる部員に声をかけて、さて共に部室に向かおうとしたその時だった。


「おい、苗字」


背後からかけられたその声と共に、リュックサックのショルダーベルトの隙間に、ぐりっと強引に指が差し込まれた。そのまま指の力だけで、「彼」はリュックを持ち上げるとベルトをくるんと回転させる。指が引き抜かれて、私の肩にリュックの重力が戻ってくる。

「お前、またリュックの紐ねじれてたぞ?」

私の隣まで来ると、手嶋は呆れたように笑った。一瞬のことに、ごめん、ともありがとう、とも言えず、ただ「あ……!」と声を漏らす私を見て、手嶋は「これで何回目だよ」と馬鹿にしたように片方の口角を上げた。またやってしまった、やられてしまった。

「い、言ってくれれば自分で直すのに。毎回びっくりするんだけど、それ」

恥ずかしさが押し寄せ、ついつい口を尖らせてしまう。手嶋はそんな私を見て軽くハハッと笑うと、そのまま私の横を通り過ぎて前方へ回り込む。

「今から部活? 高森さん」

高森さん、というのは私の隣にいる友人のことだ。ってちょっと手嶋、さっきの私の苦言完全スルーかよ。

「うん、そうだよ。手嶋くんもでしょ?」
「ああ。大会近いんだっけ、そっち。頑張れよ」
「自転車競技部もね!」
「言われるまでもなく、毎日努力してるよ」

そして手嶋はヒラリと片手を上げて、「じゃあな、高森さん、苗字」と言ってそのまま教室を出て行った。

「………じゃ、私達も行こうか、名前」
「………」
「名前?」
「手嶋ってさあ、なんで私のこと呼び捨てなんだろ」
「え?」
「他の女子にはさん付けじゃん? 私だけだよ、苗字、なんて呼び捨てするの……」

手嶋は紳士だ。女子に対する気配りでは、同じクラスの男子達とはレベルが頭一つ飛び抜けている。おまけに外見も整ってて自転車競技部の部長さんときたもんだ。当然、女子人気も高い。

……そんなジェントルマンの手嶋から呼び捨て扱いされる私って、何なんだろう。

「仲がいい証拠じゃん。ほら手嶋くんと名前、体育祭の委員で同じだったし」
「そうだったけど……。それって1ヶ月前のことでしょ? それまで私、手嶋とほとんど喋ったことなかったし、1年の時も違うクラスだったし……。仲がいいって言ってもそこまで絡んでないのに……」
「あはは、そんなに気にすること? 別にいいじゃん、私はちょっと羨ましいけどなぁ。特別扱いされてる、って感じで」

「特別扱い……」


特別扱い、っていうか。

(男子扱い、って言うんじゃないの、それ………)

なんとなく悔しかったので、それは口に出さないでおいた。「やっぱりもうこの話はいいや。部室行こう」と早口で隣の友人に告げる。

手嶋と接触した右肩が疼いている。ベルトの間にねじ込まれた、細いのに節くれだっている手嶋の指。ゴツゴツした指の関節が、ブラウス越しの肌にぶつかる感触。

ーーその疼きを抑え込むように、私は左右のショルダーベルトをギュッと強く握りしめて歩き出した。

少しだけ速足なのは。
顔を伏せているのは、……火照っている頬を友人から隠すため。







体育祭はもう一か月前に終わったっていうのに、まさかまだ仕事をやらされるなんて思ってなかった。といっても頼まれた仕事の内容は雑務。体育祭用に大量に準備して、でも結局使わずに余ってしまった学年分の記録用紙をコピー室まで置いてこいっていうものだった。何でうちのクラスが学年分まとめて運ばなくちゃいけないんですか! って担任に迫ったら、返ってきた答えが、我がクラスの体育祭における成績が全校含めてビリだったから、だって。なんだよそれ、学校の公式行事だってのに、そんな罰ゲームみたいなことやらせるってどーなんだ。しかも、私は200メートル走の種目で学校全体で15位で、割と健闘したのに。

と、同じく委員である手嶋とぶつくさ言いながら、一昔もふた昔も前の古くてでかいコピー機が置いてある、コピー室というよりかは半物置と化している旧校舎の最上階まで記録用紙を運んだ、その帰り。

埃っぽい部屋を後にして、渡された鍵で施錠を済まし、私と手嶋は誰もいない廊下を引き返し始めた。落ち始めた陽の光が、柔らかな紅を纏い、窓から注ぎ込まれている。微妙な距離感を保ったまま歩く私と手嶋の影が、静止している窓枠や柱の影の間から現れたり消えたりするのを、私は俯いたままぼやーっと見ていた。運動部の掛け声だとか、吹部の練習の音だとか、カラスの鳴き声とか、遠くの方から聞こえてくるのに、旧校舎の中はぞっとするほど静かで、なんだか異次元のような気がした。そんな不思議で夢のような雰囲気に飲み込まれたのか、私は前々から感じていた手嶋へのモヤモヤっとした気持ちを、不意にするりと口に出してしまっていた。


「……手嶋ってさあ、私のこと呼び捨てにするよね」

「えっ?」


何でもない会話になると思っていたのに、手嶋が思いのほか大きな反応を見せたので、そこで私は我に返った。しまっ、た。話題にするつもりはなかったのに。

手嶋は、ぱちりと二度大きく瞬きをすると、神妙な顔でこちらを見て、

「……もしかして、嫌だったか?」

と、聞いてきた。それが、先程まで適当なノリで会話してたのが嘘みたいに真剣な顔で、ビビった私は慌てて背筋を伸ばして「い、嫌じゃないよ!」と返した。

「全然! 別に! 嫌ってわけじゃ、ないんだけど………」
「だけど?」
「あ、あー……いやあの、単純になんでだろうって……。他の、女子には、さん付けじゃん? なんていうか………」

言葉に詰まって、グン、と唇を引き締める。
なんていうか……なんていうか……、
なんなんだ?

手嶋がこちらの真意を図るように、私の横顔をじっと伺っている。ちらりとそちらを伺い見ると、まっすぐなその瞳に斜陽が差し込んでいて、不覚にもかっこいいと思ってしまって、ドクンと心臓が跳ねた。これ以上見てたらダメだと咄嗟に足元に視線を落とす。そして、自分の上履きを見ながら、何も考えないままに私は口を開いていた。

「あーまあ、いいんだけどね! 私お世辞にも女の子らしいとは言えないし、さん付けされるようなキャラでも無いしね! だ、男子カウントされてもしょうがないっていうか……」

「…………」

なんか、おかしい。口走るほどに違和感がぐるぐると加速していく。こんなことを言いたいんじゃない、私、何を手嶋にカミングアウトしてるんだ。なんであんなこと聞いちゃったんだろう、と湧き上がる後悔の念をぐっと噛み締めて、私は「ごめん、気にしないで!」と俯いたまま笑った。早く人がいる下の階に行きたいのに、なぜか手嶋のペースはゆっくりで、それに合わせなくてはいけない気がして、もどかしい思いが募る。旧校舎、二人きりの静かな廊下は、沈黙を際立たせた。

お互い無言のまま、階段に差し掛かった時だった。突然、手嶋が口を開いた。


「……苗字、気付いてる? オレのことを手嶋って呼び捨てにしてるのって、お前だけだぜ?」

「え?」

「他の女子はみんなオレのこと手嶋くん、って呼ぶよ。後さ、オレの知ってる限りじゃ苗字ってオレ以外の男子には大体さん付けしてるだろ」

「そうだっけ……」

「そうだよ」


私に相槌を打つ手嶋は、どうしてか妙に上機嫌そうだった。なんだ? と思いながらも、私は考えを巡らせた。確かに……私、女子はともかく男子で呼び捨てにしてる人っていなかったかもしれない。でも、なんで手嶋だけ呼び捨てにしてたんだろう、私。ていうか、そんなこと手嶋もよく気がついたな。

釈然としないまま、「どうしてだろ?」と首を傾げると、手嶋はハハ、と笑った。


「やっぱり気付いてなかったか。ま、そうだろうな。この際だからぶっちゃけるとさ、苗字がオレのことを手嶋って呼ぶように誘導したのは、他でもないオレなんだよ」

「はぁ? ど、どういうこと」

「体育祭の時。ようやく苗字と交流する機会が巡ってきて、このチャンスを存分に生かさなくちゃなって思って、考えついたんだ。オレが苗字のことを呼び捨てにすれば、きっと苗字もオレのこと呼び捨てにするだろう、って。そしてそれは実際その通りになった」


そこまで言うと、手嶋は軽やかに階段を駆け下りた。一足先に踊り場に出ると、私の方へくるりと振り返る。ニンマリと、その口角は弧を描いたまま。じっと見上げられて、なんとなく、私はそこで足を止めてしまった。


「お互いに呼び捨て、ってさ。本人達の距離が一気に縮まるだけじゃなくて、周りにもいいアピールになるんだよな、オレ達こんなに仲良いですよ、っていう。……いや、アピールっていうか、牽制って言った方がいいかな? 周りの男共への牽制」


するすると言葉が生み出され、誰もいない階段の静かな空気にそれはわずかに反響している。

……えっと。えっと?

今、彼は何を話しているのだろう。理解が追いついていかない。身振り手振りを交えて流暢に喋るその様は、大勢の観客の前で新機種のプレゼンをしているどっかの企業の偉い人みたいで、私は口が挟めない。光が差し込んだ階段の踊り場は、彼のステージと化していた。


「でも、誤算だった。男子と女子じゃあ認識が違うのかな。呼び捨てにすることで苗字とも近づけるし周りにもそれを見せつけられて一石二鳥だなんて思ってたんだけど、苗字にそんな勘違いされちゃ意味がない。なあ苗字、男子扱いしてるだなんて、とんでもねえよ。オレはきっと、この学校で誰よりもお前を女の子として見てるから」

「………」

「まあ、しかし、誤算ではあったけど……これはこれでオレのこと意識してもらえたってことでいいのかな?」


そして、手嶋は、笑いかけた。

それは私に対する問いかけというよりは、チェックメイトを宣言する、もう既に勝利を確定しきった棋士のような、そんな重みと堂々とした自信を感じさせる響きがあった。私はなにも答えられなかった。手嶋は、「いやー、苗字は鈍いから、色々と策を講じても手応えが無くて正直焦ってたんだけど、今ので少しホッとしたわ」と続けた。「まあ、外堀を埋めるって意味では成功してたけど」……更に彼はこう付け加えた。

……外堀を、埋める。
「仲がいい証拠じゃん」という、いつかの友人の言葉がさっと頭をよぎった。


「………う、うぬ、」
「ん?」
「自惚れすぎ、だろ、それ」
「………」
「ていうかそれ、私に全部ぶっちゃけることじゃないでしょ、ていうか、え? 普通そういうこと言う? って思うんだけど、えっと、」


なんなんだよ。なんなんだよ、手嶋は。

顔が猛烈に熱かった。私がいる階段は影になっていて、踊り場にいる手嶋から私の頬の照りが確認できているかは微妙なところだったけど。でも、絶対バレてる。そんな自信があった。手嶋純太はずるいから、私がこうなっちゃうことも見透かしてたんだ。きっと、私がリュックのショルダーベルトを直されるたびにドキドキしてたのも。全部全部、見透かしてたんだ。

なんてやつだ、手嶋。

もう、こうなっては彼に対する文句は全部意味がなくて、でもそう分かっても私の口からは負け惜しみが止まらなかった。なにが「スマートでジェントルマンな手嶋くん」だ。せこい。外堀を埋めるだなんて、やることが割と狡猾なんだけど、お前ほんとにスポーツマンか。ぽんぽんと吐き出されるそれは、手嶋に投げつけるものではなく、もうほとんど堕とされかけている心を必死に立て直すため、溶かされかけているハートに即席の防御壁を構築するためのもので、でも、


「悪いな。やり口が汚いとは自分でも思ってるけど、なりふり構ってられないぐらい……本気で惚れ込んでんだ、苗字に」

「………」

「あと、どんな風に見えてるのか知らないけどさ。これで結構余裕無いから、オレ」

「………」


――でも、ガラガラガラ、とその薄っぺらなファイアーウォールは音を立てて崩壊していき、ほんの少しだけ照れくさそうに付け加えられた最後のそれに、もう私の心臓は熱くなってぐずぐずになってしまって、負けましたと白旗を上げる余裕も無いぐらいに、私は認めさせられてしまった。何をって、自分がこの男に心を奪われてしまっていたことを。完膚なきまでに。

ずるい。そんな顔見せるなんて、ずるいよ。


「以上、宣戦布告。じゃ、オレもう部活に行くから」

「え、」


……待ってよ。まだこれで「宣戦布告」の段階なわけ?

もう見事なまでに彼の策略にずぶずぶにハマってしまっているというのに、これ以上何を仕掛けてくるっていうのか。

手嶋が階段を下っていく音を聞きながら、私はしばらくその場で立ち惚けていた。

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