▼ ケニーさん家のリヴァイくん【前編】
その冬、ケニーさんの家に引き取られた一人の男の子のことを誰もが噂していた。両親に捨てられた身寄りのない子供だとか、滅多に口を開かないから失語症なんじゃないかとか…そんな噂ばかりが出回り大人達はこぞってあの子には近付くなと子供に言い聞かせた。だけど私の両親だけは違った。きっと一人で不安だろうから、なるべく力になってあげようねと母が優しく私の頭を撫でたのを今でも覚えてる。その言いつけ通り、私は何かとその子のことを気にかけるようになった。
*
「やーい、ふりんの子!」
そんな声が聞こえてきたのはピアノのお稽古の帰り道だった。数人の男の子たちに囲まれたリヴァイくんが砂場に突き飛ばされるのを見つけるとすぐに駆けだした。
「どうしてこんなひどいことするの!?」
生まれて初めてだった、そんな大きな声で叫んだのは。あまりの気迫に驚いた男の子たちは散り散りになって逃げていく。振り返ると泣きも笑いもせず、ただ無表情のまま私を見上げるリヴァイくんの姿があった。
「あの…大丈夫?」
そう言って伸ばした右手はすぐに弾かれた。
「気安く触るんじゃねぇよ」
「ご…ごめん…」
「チッ…何が不倫の子だ…あいつらふざけたこと言いやがって…」
拳で口元を拭いながら鋭い眼差しをしたリヴァイくんをじっと見つめる。体は小さいのに喧嘩っ早くていつも顔は傷だらけ。何度かその姿を見かけたことはあったが、こんな風に話しかけるのは初めてだった。
「お前も俺のことをそんな風に思ってんだろ…」
「わっ…私はそんな風に思わないよ…!」
慌てて両手を突き出すと首を横に振る。リヴァイくんは更に目を細めて私を睨みつけた。
「何も知らねぇ奴が適当なこと言ってんじゃねぇよ」
「ご、ごめんなさい…」
同い年とは思えないその気迫にぶるりと震える。喋り方はどことなくケニーさんに似ていると思った。
ケニーさんはうちの近所ではちょっとした有名人だった。女好きのギャンブル好き。いつもふらふらと昼間っからお酒を飲むような人がある日突然男の子を引き取った。どこぞの人妻との不倫の末にできた子供なんじゃないかなんて下世話な噂まで流れていたせいか、リヴァイくんは他の子供たちから嫌がらせの対象になることもあった。
「ッ……」
突き飛ばされた際に怪我をしたのか、立ち上がろうとしたリヴァイくんは急に顔をしかめた。手のひらに血が滲んでいるのを見つけるとポケットから白いハンカチを取り出す。
「こ、これ…使って…」
なかなか受け取ろうとしないリヴァイくんの傷口へ強引にハンカチを押しあてる。するとリヴァイくんは、そんなことをされたのは初めてだとでも言うように驚いて顔をあげた。
「汚れるぞ…」
「怪我の方が心配だよ」
血が止まったのを確認すると絆創膏代わりにハンカチを巻き付ける。それをじっと見つめていたリヴァイくんは小さくいいのか…と呟いた。
「俺と一緒にいたらお前まで嫌がらせされるぞ」
「構わないよ…だってリヴァイくんは私が…」
「あ?」
「私が守ってあげるからね、リヴァイくん」
間近で顔を見つめながら笑ってみせる。安心させようと思ってそう言ったのに、リヴァイくんはますます顔を顰めた。そしてこの言葉が、後々彼の男としてのプライドを傷つけていくことになるなんて、その時の私は考えもしていなかった。
――――――
それから何年か経ち、中学に入ったリヴァイくんは荒れていた。他校の不良たちと喧嘩も絶えず、時には警察にお世話になることもあった。学ラン姿のリヴァイくんの顔にも相変わらず生傷が絶えなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
まだ午後の授業も残ってるというのに、鞄を背に持ち校門へと向かうリヴァイくんに気付いた私は急いでその背中を追った。
「リヴァイくん待って…怪我してる」
また先輩に喧嘩を売ったのか、どこぞの不良に絡まれたのか、頬に痛々しく残る傷痕に触れようとすれば、その手は簡単に払いのけられた。それでも諦めずに絆創膏を持って手を伸ばすと、恐ろしい程の視線に射抜かれた。
「てめぇ…しつこいぞ…」
「ここだけだから…」
切れた口端にそっと絆創膏を貼ると私の手は急に掴まれた。
「相変わらず傷一つねぇ手だな…」
「え…」
リヴァイくんは私の手をじっと見た後に、独り言のようにそう呟いた。
「そういうリヴァイくんは…どうしていつも怪我が絶えないの?」
「お前には関係ないだろ…」
チッ…と忌々しく舌打ちをして歩き出した背中を肩を落として見つめる。リヴァイくんは数歩進んだところで急に足を止めた。
「…お前、今日も塾なのか?」
「え…そうだけど、どうして?」
わずかに振り向いたリヴァイくんが何かを言いかけた瞬間、校門の前に止まった赤いスポーツカーがクラクションを鳴らした。中から出てきたのは綺麗に着飾った大人の女性で、咄嗟にリヴァイくんの上着を掴んだ。
「ど、どこ行くの…」
「うるせぇな…いい加減俺に付きまとうのはやめろ。俺はお前みたいな小便くせぇガキには興味ないんだよ」
そう言い残して去っていく背中に再び肩を落とす。どうしてこんなに嫌われてしまったのか、まったく心当たりがなかった。
「小便くさいかなぁ…」
自分の腕を自分でくんくんと嗅いでみる。グラウンドに残された私は、大きくため息を零した。
――――――
その夜、塾が終わって外に出てみると辺りはすっかり暗くなっていた。街灯がわずかに照らす夜道を進みながらチラチラと後ろを振り返る。ここ最近、誰かにつけられているような気がしていた。
(また、だ…怖い…)
背後から聞こえてくる足音に鞄を抱えて走り出したが、あまりの恐怖に足は絡まりアスファルトの道に派手な音をたてて転げた。
「きゃっ…!」
全身に痛みが走ったが、そんなことより背後が気になった。早く逃げなきゃ…そんな気持ちで立ち上がろうとした瞬間、何者かに腕を掴まれた。ぼんやりと灯る街灯の下。誰かと思えば、腕を掴んでいたのは学ラン姿のよく知った顔で…
「リ…リヴァイくん!?どうしてここに」
まさかの人物に大きく目を見開く。リヴァイくんは腕を引いてゆっくり私を起き上がらせた。
「たまたま通りかかっただけだ…」
「そ、そう…あれ、でも確かこの前もそんなこと…」
そう、こんな風にリヴァイくんと塾帰りに遭遇するのは今回が初めてじゃなかった。前にも同じようなことがあって逃げていれば、たまたま通りかかったというリヴァイくんが現れたのだ。
「…そんなことより、お前ん家は金持ちなんだろ。なんで誰も迎えに来ねぇんだ」
「だって、そんなに遠い距離じゃないし…」
そう言って歩き出そうとしたが、一歩踏み出したところで足首に激痛が走った。
「いたっ…」
さっき派手に転げた時に捻ってしまったのかもしれない。辺りは薄暗くて確認できなかったが、ほんの少し足首が腫れているような気がした。
「乗れ…」
「え…」
その声に慌てて顔をあげると、目の前には屈んだリヴァイくんの背中。これは背負ってくれるということなんだろうか。どうしようか迷っていれば、強引に腕を引かれて背中に担がれる。
「あ…ありがとう…」
ためらいながらお礼を述べると、返ってきたのは舌打ちだった。
「軽いな…お前、ちゃんと飯食ってんのか…」
「う、うん…」
リヴァイくんの背中は温かくて、思ってたよりもずっと広くて、急に心臓がうるさいくらいに波打ちはじめた。それを誤摩化そうと口を開きかけたが何を話せばいいか分からなくて肩口に顔を埋める。意外にも先に口を開いたのはリヴァイくんの方だった。
「俺に怪我するなと言っておいて自分はこのザマか…」
「う…」
「大体、こんな時間まで何してやがった」
「ちょっと…テストの見返しを…」
「そんなのは家に帰ってからでもできるだろ…」
「だってもうすぐ受験だし…リヴァイくんは行きたい高校とかないの?」
それはずっと気になっていたことだった。できればリヴァイくんと同じ学校に進学したい…なんて、そんな下心からここぞとばかりに質問する。
「はっ…俺が高校や大学に行けるとでも思ってんのか…何でも自分と同じだと思うな」
それは思ってもみない言葉だった。
「ご、ごめん…」
そうだ、ケニーさんはいつもリヴァイくんに早く働けと口癖のように言っていた。自分の考えなしの発言に激しく後悔したけど、リヴァイくんはそれから家につくまで一言も口を開かなかった。
――――――
翌日、リヴァイは担任のハンジに呼び出されていた。いつもだったら無視して帰るとこだが、どうもこの担任だけは苦手だった。
「おかしいなぁ…君はやれば出来るはずなんだけどね」
「関係ねぇよ…」
何の実験に使うのか見当もつかない器具やら道具に囲まれた化学準備室。担任のハンジはリヴァイの中間テストを前に、指をコツコツとテーブルに叩いていた。
「でもさ…このままだと彼女と一緒にいられなくなるけどそれでもいいの?」
「何のことだ…」
「ナマエだよ…君たち幼馴染みなんだろ?」
「はっ……」
「彼女は可愛くて頭も良くて家はお金持ちときた。いずれどこかの大手企業に就職して立派な誰かの元にお嫁にいくんだろうね」
「…何が言いたい」
忌々しげに眉根を寄せたリヴァイに、ハンジは眼鏡をかけ直して笑ってみせた。
「ナマエのことが好きなんでしょ?だったら逃げてばかりいないでさ、ちょっとは努力しなよ…やればできるんだから」
「おい、メガネ…てめぇが何を勘違いしてるのか知らんが俺は早くこのクソみたいな街から出たいだけだ…」
リヴァイはそう言って窓の外に視線を移した。幼い頃からあられもない噂を流され白い目で見られてきた。自分はいつかこの狭い街から抜け出すのだと、そう語るリヴァイをハンジはじっと見つめる。
「ねぇ…だったら留学してみるのはどう?君にぴったりの奨学金制度があるんだけど」
そう言ってゴソゴソと汚いデスクの中からハンジが取り出したパンフレッドをリヴァイはじっと見つめる。
「まぁもちろん楽な道じゃないよ…それなりに努力も必要だし」
「俺はこの街から抜け出せるんだったら何だっていい…」
リヴァイは唯一いつも自分に笑いかけてきた少女の姿を頭の中から追い払うように、目の前の用紙を強く握りしめた。
――――――
「リヴァイくん…」
名前を呼ばれて振り返ると、いつもより悲しげな顔をして佇むナマエの姿があった。オレンジ色の夕陽が差し込む廊下、部活中の生徒たちの声は遠くのグラウンドから聞こえてくるだけだった。
「聞いたよ、留学するんでしょ…」
「ああ」
「やっぱりリヴァイくんはすごいな…」
そう言って笑ったナマエの顔はやはりどこか寂しげだった。
「でも、本音を言うと…行ってほしくないよ」
留学を勧められた日から必死に勉強したリヴァイはいくつもの試験をパスしてその資格を得た。あとは必要な書類を提出するだけだった。その書類を持って職員室に向かう途中、リヴァイを引き止めるようにナマエはその袖口を掴んだ。
「あのね…私ね、リヴァイくんのこと…」
俯いたナマエが何を言おうとしているか気付いたリヴァイは、勢いよくその手を払いのけた。
「やめろ…俺とお前じゃ住む世界が違いすぎる」
「どうして…」
「結局俺はどこに行こうと、何をしようと…この街じゃ変わり者のケニーに引き取られた身寄りのないガキだってことは変わらねぇんだよ」
珍しく早口でそう言い切ったリヴァイに、ナマエは静かに首を横に振った。
「どこにいても、何をしてても…リヴァイくんはリヴァイくんだよ」
「はっ…何の苦労もしたことない金持ちの戯言だな…」
自嘲気味に笑ってそう呟けば、ナマエは悲しげに顔を歪めて俯いた。それでもすぐに無理やり笑って顔をあげた。
「必ず帰ってきてね…私、いつまでもずっと待ってるから」
そんな言葉に面倒くさそうに舌打ちをしたリヴァイは足早に踵を返した。煩わしさでいっぱいだった。自分はこんな狭い街も、この女のことも、全て忘れて新しい場所で生きるのだと、まるでそう自分に言い聞かせるように背を向けて歩き出した。
――――――
それから何年もの時が流れた。
海外に向けて何度も手紙を送ったけど、返事がきたことは一度もなかった。出し続けていた手紙がついに宛先不明で返ってくるようになった頃、私は大学を卒業して社会人になった。
ようやく仕事にも慣れてきた一年目の冬。経営陣の総入れ替えが行われ、海外の支店から新しい上司がやってくることになった。朝から落ち着きのないオフィスにその人が現れた瞬間、私は大きく目を見開いた。
少し伸びた背に、グレーのスーツを着こなしたその顔には以前のような生傷はない。それでも会いたくてたまらなかったその姿を私が見間違えるはずがなかった。
「リヴァイくん…!」
そう名前を呼んで近付けば、その人はあからさまに嫌な顔をして振り返った。
「やっぱりリヴァイくんだ」
「………」
「久しぶりだね、ずっと待ってたんだよ。でもまさか同じ会社で一緒に働けるなんて思わなかったな」
思わぬ場所での再会に喜びをあらわにしていれば、懐かしい舌打ちが辺りに響きわたった。
「部長だ」
「え…」
「部長と呼べ」
ようやく返ってきた言葉は思ってもみない冷たい声だった。きょとんと瞬きを繰り返していると、リヴァイくんは低い声で続けた。
「いいな…これは上司命令だ」
「うん…」
「うんじゃねぇ、はい、だろ」
「ご、ごめ…」
「すみませんだ…そんなことも分からねぇのか」
「うう…」
ついに泣き出した私にリヴァイくんは再び忌々しく舌打ちをした。
「相変わらず鬱陶しい女だな…」
会いたくてたまらなかったリヴァイくんとの久し振りの再会はそんな再会だった。私だけだったんだろうか、こんなに会いたくてたまらなかったのは。そんな風に思うとやっぱり悲しくて泣けてきた。
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