▼ 樫の木の下で君を待つ@
昨日まで降水確率80%の雨マークだった天気は奇跡的に回復してこれぞ結婚式日和と呼べる天気になった。これで予定していたガーデンのセレモニーも行えるとほっと胸を撫で下ろして空を見上げていれば、コンコンと軽いノック音が部屋中に響きわたった。
「やぁ、ナマエ…とっても綺麗だよ」
「ありがとう、ハンジ」
ブライズルームにひょっこり顔を覗かせたのは大学時代からの友人で、今日のカメラマンを担当してくれることになっているハンジだった。黒のスーツに、いつもよりほんの少しだけお洒落に髪をハーフアップにしたハンジは挨拶を済ませるなり抱えていたカメラのレンズを私へと向けた。
「あーダメダメ、今日の主役がそんな顔してたんじゃ…もっと自然に笑わないと」
「そう言われても…」
普段、カメラのレンズなんて向けられ慣れてない私がぎこちない笑顔を浮かべればハンジは困ったようにファインダーから顔を離した。思わず両手をあげて降参のポーズをとる。
「ねぇ、ハンジ…写真撮影はメイクが終わってからでしょ?どうしてこんなに早く来たの?」
「ああ、そうだった…忘れるところだったよ。実は預かってた写真の中にどうしても気になる写真があってさ」
思い出したようにハンジがジャケットの内ポケットから取り出したのは数枚の写真。それは生い立ちムービー用にと預けていた幼少時代からの写真だった。差し出された数枚の写真を覗き込めば、どれも同じ場所で撮影したものばかり。それも一人きりで、とびきりの笑顔を浮かべて。
「ねぇ、どうして毎年同じ木の下で何枚も写真を撮ってるわけ?しかも一人きりでさ…正直、代わり映えしなくて困ってるんだけど…」
その言葉には複雑な表情で笑うしか出来なかった。しばらく口籠っていたが、わずかに息を吐いて口を開いた。
「あのね…実はここにはもう一人いるの…」
静かにそう打ち明けると、ハンジはすぐに顔を引き攣らせた。
「ちょっと怖いな…おめでたい日に変なこと言うのはやめてよ…」
ハンジがそんな風に言うのも無理はない。私は子供の頃から他の人には見えないものが見えていた。それがずっと嫌で嫌でたまらなかったけど、彼と出会って全ては変わったのだ。
私は今でもあの日を、はっきりと覚えてる。
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それは、9歳の夏──。
幼い頃から仲の悪かった両親はその年ついに別々に暮らすことを決めた。どちらに引き取られるか決まるまでの夏休み、私は自然豊かな祖母の家に預けられることになった。
近所に歳の近い友達はいなかったけど一人遊びは得意だった。家の裏手にある小高い丘を登った先に大きな樫の木を見つけると一目散にそこへ近づいた。思った通り沢山のどんぐりが落ちている樫の木の下で、しばらく夢中になって地面を這いつくばっていたが、急に人の気配を感じて動きを止めた。
──私はたまに見てしまうのだ。
この世のものではないものを…
相手に気づかれないよう生唾を飲み込むと、木の幹に手をついて顔を覗かせた。視線の先に焦げ茶色のブーツが見えると思わず心臓は跳ね、握りしめていた右手からどんぐりがコロコロと転がっていった。それが行き着いた先、木の幹に背を預けるようにして座っていた男は、ただじっと遠くを見つめていて
ああ、また見てしまった。
彼らは自分の姿が見えると分かると、どこまでも執拗に追いかけてくるのだ。昔からそれにうんざりしていた私はすぐに踵を返して逃げようと思ったが、ふいに男の横顔から視線を逸らせなくなった。
濃い緑色のマントを羽織り、焦げ茶色のブーツを履いたその人の服装はそれなりに時代を感じさせるもので、何より一人静かに佇む姿はどこか寂しそうに見えた。強い風が吹き抜け、伏せられていた瞳がゆっくりと動いて私を捉えた。
「あ…」
私は両手で握りしめていたどんぐりをバラバラと一斉に地面へ落とした。
「おい、ガキ…人の縄張りを荒らしてんじゃねぇよ」
男の声は思っていたよりずっと低くて澄んでいた。向けられたのは鋭い眼差しだったけど、その灰色の瞳を見ているだけで心臓は波打った。不思議と逃げようなんて考えは消え去り、私はただただ目の前の男に見入っていた。
「珍しいな…お前、俺の姿が見えるのか?」
「………」
「何だ…怖くて声も出ねぇか?」
感じたことのない緊張感にうまく言葉を発することが出来なかった私は、黙ったまま首を横に振った。
「見ない顔だが、どこのガキだ…」
しばらく何と答えようかと視線を彷徨わせていたが、すぐに裏手にある祖母の家を指さした。男はゆっくりと首を動かし、目を細めてそれを確認した。その隙に男の姿をじっと観察する。
「あなた…もしかしてこの木の精霊なの?」
「…精霊だと?」
男はわずかに鼻で笑うと再び顔を前へ戻した。
「悪いが、そんな綺麗なもんじゃねぇな…ただの亡霊だ」
「亡霊…」
男はそう言ったが、どう見てもそんな風には見えなかった。この世に何かしらの未練を残してとどまった魂は、やり残したことや伝えたい事を託そうと執拗に追いかけてくるが、目の前の男は今まで出会った"誰"とも違って見えた。
「おい、ガキ…これ以上怖い思いをしたくなかったらここにはもう近づくな」
「え…」
「…いいな?」
念を押されるように向けられた鋭い視線に思わずぶるりと身震いする。そのまま後ずさると一度も振り返ることなく丘を駆けおりていった。
その日、ベッドに入ってからもなかなか眠りにつくことができなかった。恐怖心からじゃない、感じたことのないときめきに空が明るくなるまで眠りにつくことができなかった。まるで懐かしい人と再会できたような、そんなときめきだった。もう一度、あの人に会いたい…枕に顔を埋めたまま朝が来るのをひたすら待った。
――――――
次の日もやっぱり男は樫の木の下にいた。
昨日と変わらず片膝を立てて佇む姿はどこか寂しげで、誰かを待っているようにも見えた。私の姿に気づいた男は何か忌々しいものでも見るように眉根を寄せた。
「…てめぇは言葉が通じないのか」
「あ、あの…今日は、お茶を持ってきたの…」
両手で握りしめていたバスケットを持ち上げると男はわずかに目を見開いたがすぐに面倒くさそうに息を吐いた。
「お前…俺が何か食ったり飲んだり出来るとでも思ってんのか?」
「でも…香りを感じることはできるでしょ?」
それは幼い頃からこの世のものではない"何か"に追われているうちに気づいたことだった。彼らは物に触れたり何かを食べることは出来ないが、わずかながら香りを感じることは出来るらしい。どこかの国では死者を弔うために墓前に香を捧げるのだと聞いたこともある。慌てて赤いチェックの水筒を取り出すと、コポコポと温かな紅茶を注いでいく。途端に男の顔つきが変わった。
「紅茶、か…」
それまでにこりともしなかった男の顔がほんの少し穏やかになったのを私は見逃さなかった。それを見て嬉しくなった私は更に男に近付くと、勢いよくコップを差し出した。突然の行動に何か言いたげな顔をしていた男だったが、諦めたように舌うちをした。
「いい香りでしょ…これ、私のお気に入りなの」
「ああ…香りだけは、な…」
未だ湯気を立ち上らせるコップから顔を逸らした男の横顔をじっと見つめる。
「ねぇ…あなたはここで、誰かを待ってるの?」
「さぁな…随分長い時間ここにいるせいか、もう何も思い出せねぇな」
「そう…」
「まぁ、お前が言うように…誰かを待っていたような気もするが…」
そう呟いた男の横顔は、とても寂しげに見えた。思わず前のめりになってその体に近づく。
「わっ…私が、見つけてあげるよ…!」
「あ…?」
「あなたが待ってるその人を…私が必ず見つけるから…」
ただ、そんな寂しげな顔をしてほしくない一心からだった。紅茶の香りを感じたときのように穏やかな顔をしてほしくて、必死にぎこちない笑顔を作ってみせる。男はしばらく驚いたような顔で固まっていたが、すぐにふっと笑った。
「おかしなガキだな…」
「ガキじゃない、ナマエよ…それにもう、立派な大人だわ」
「そうか…」
「ねぇ、あなたの名前は…?」
「名前…」
男は消え入るようにそう呟くと、まるで遠い昔を思い出すように空を仰いだ。
「名前、か…」
「もしかして名前まで忘れちゃった…?」
「いや…俺の名はリヴァイだ…」
その名前は不思議とスッと胸の奥に広がっていった。
「リヴァイ…」
幽霊にこんな気持ちを抱くなんておかしいと分かっていたけど、それでも惹かれずにはいられなかった。きっと子供ながらにその寂しげな姿を放っておけなかったんだと思う。私は今でもあの横顔を思い出すだけで胸がぎゅっとなるのだ。
――――――
その夏から毎年、夏休みになると祖母の家を訪れた。リヴァイに会うために毎日時間さえあれば樫の木の下へと通った。それこそ夜になっても帰ってこない私を心配して祖母が様子を見にくるほどにそこにいたものだ。リヴァイはあまり多くを語らなかったけど、いつも黙って私の話しを聞いてくれた。
そして12歳の夏。
いつものように祖母の家に着くなり荷物を投げ出すと紅茶の入ったポットだけを手に小高い丘を駆け上がる。息を切らせて立つ私をリヴァイはちらりと横目で捉えたがすぐに視線を逸らした。久し振りの再会だというのに素っ気ないが、それもいつも通りだった。
「少し、背ぇ伸びたか…」
「そういうリヴァイはやっぱり変わらないんだね」
私の背がどんなに伸びようともリヴァイの姿形は変わらない。歳もとらないし、見た目も変わらない。それを見てやっぱり自分とは違う時間を生きてる人なのだと再確認する。隣に腰を下ろすとほんの少し近づいた身長になんだか嬉しくなって一人笑みを零した。それを見たリヴァイは怪訝な顔つきで眉根を寄せた。
「おい、何を笑ってやがる」
「ううん…何でもない…」
「気持ちの悪い奴だな」
「そ、そんなことよりさ…この一年で何か思い出したことはあった?」
誤摩化すように咳払いをして尋ねれば、リヴァイはいや…と小さくため息をつくだけだった。待ち人を探す為に覚えていることを聞き出すところから始めていたが、まだまだ情報は少なかった。
「何でもいいの…ほら、二人で行った場所とか一緒にやったこととかさ」
「覚えてんのはこれを水に浮かべたくらいか…」
そう言ってリヴァイが指差したのはそこら中に落ちている樫の実だった。
「もしかして…」
それを聞いてすぐに水桶を用意した。なみなみと水を張ったそこにどんぐりを二つ落とす。ぷかぷかと浮いたそれはゆっくりと距離を縮めていった。
「ねぇ、もしかしてこんな風にどんぐりを二つ同時に落としたんじゃない?」
「あぁ…確かそんな感じだったな…」
「やっぱり…」
この国には古くから伝わる有名な恋占いがある。水を張ったボールに二人同時にどんぐりを浮かべ、その距離から二人の運勢を占うのだ。距離が近いほど二人はうまくいくと言われ、逆に沈んだり離れたりすると残念な結末が待ち受けていると言われている。
そんな占いを一緒にした相手がリヴァイの待ち人…
「リヴァイが待ってる人って…」
そこまで言って途端に口を噤んだ私をリヴァイは訝しげに見つめた。
「なんだ…?」
「ううん…何でもない…」
「お前…今日はそればっかりだな…」
それが恋占いだとは何故か言えなかった。いや、言いたくなかった。リヴァイが待っているのはきっと、彼の大切な人なのだ。その事実が訳も分からず私の胸を締め付けていた。
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