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▼ ワンナイトミステイク【前半】

※FRaUのネタバレあります。未読の方はご注意ください。




内地と呼ばれるストへス区から一度も休むことなく馬を走らせていた。ようやく目的地であるトロスト区へと辿り着いた頃にはすっかり辺りも暗くなり、馬も私も疲弊しきっていた。よろよろと手綱を引いて街を進んでいけば、遠くに明々と光を放つ一件の酒場が見えた。門兵の話だと、この地区ではほとんどの宿屋が酒場と兼ねて営業されているらしい。

今晩泊まる手筈になっていた宿屋も一階が酒場で二階が宿になっているようだ。いつもだったらその騒がしい環境に愚痴の一つでもこぼしていたが、今日ばかりは違った。とてもじゃないけど酒でも飲まなきゃ眠れそうになかったからだ。



【ワンナイトミステイク】



馬を厩舎につなぐと兵団のジャケットを脱ぎ捨てて酒場のドアを開けた。中は思っていたよりずっと賑やかだった。特に中央にあるテーブル席がひどく盛り上がっている。やはり洗練された王都とはどこか違う…今さらながら左遷されたのだと思い知る。

──そう、私は憲兵団から調査兵団へと移動になった。

上官から受けたセクハラ行為に声(と、あとちょっと拳)をあげただけで身に覚えのない言いがかりをつけられ、憲兵団から調査兵団への移動を命じられた。長年住み慣れた内地を離れて一日早くウォール・ローゼへと辿り着いたが、規律やなんかの話は明日からにしてほしかった。だからこうして兵団本部ではなく街の宿に泊まることを選んだのだ。何よりこんな状況、飲まなきゃやってられない。

入り口で足を止めたままぐるりと店内を見回せば、テーブル席に座る数名の若い男女が特に騒がしく酒を飲み交わしていた。カウンターには一組のカップルらしき男女とそこから離れた席に座る一人の男。しばらく様子をうかがった後、一人カウンターで酒を飲む男から三つほど席をあけて腰を下ろした。この騒がしい店内で唯一静かに酒を飲めそうな席だった。

わずかな荷物を脇に置いて座ると、一人酒を飲んでいた男がちらりと視線を向けてきたが、あえて気付かないふりをしてカウンター越しに立つマスターへと声をかけた。

「シェリー酒を…」

グラスが目の前に運ばれてくる頃には男の意識も私から逸れたようで、気怠げにグラスに口をつけていた。今度は私が気付かれないよう男を観察する。

白いシャツに黒いパンツというラフな格好をした男は足を組み、周りの騒音など気にした様子もなく静かに酒を飲んでいた。傾けている酒はおそらく何杯目かのものなんだろう。それでも顔色変えずに淡々とグラスを傾ける姿から男の酒豪ぶりが窺える。

「おい、じいさん…」

その一言でマスターは注文も聞かずに新しい酒を空になったグラスに注いだ。そのやりとりを見ているだけで常連客だと分かった。

「うるさくて落ち着かねぇか…」

急にかけられた声に大袈裟なくらい私の肩は跳ねた。気付かれないよう細心の注意を払っていたつもりだったが、そんなのは意味がなかったらしい。男は顔を向けることなく手元のグラスを見つめていたが、それでも声をかけられたのは私だと分かった。

「この街を訪れるのは初めてで…」
「そうか、見慣れない皮袋を持ってやがると思ったが…」

そこでようやくこちらに顔を向けた男を今度こそじっくり観察する。艶やかな黒髪に切れ長の目、綺麗な顔つきだが醸し出す空気は一般人のそれではなかった。どこか異様なオーラを放つ男はこれまでに多くのことを経験してきたに違いない。

「…どこの街から来た?」

その質問にはすぐに答えることが出来なかった。内地から来たと言えばどんな反応をされるだろうか。詳しく話せば兵団の人間ということもバレてしまうだろう。出来れば最後の夜くらい兵団のことは忘れたかった。俯いたまま黙っていれば男はカツンと音を立ててグラスを置いた。

「いや、詮索するつもりはねぇ…妙なことを聞いて悪かったな」

男は顔を戻すと再び静かにグラスを傾けた。その姿をじっと見つめる。おそらくこの男にも私と同じように踏み込めない領域があるのだろう。そう思うとなんだか話がしてみたくなった。手つかずだったシェリー酒を一気に呷ると、男へと向き直る。流し込んだアルコールは一日中馬を走らせ疲労しきった体にじわりと浸透していくのが分かった。



――――――



それから三人分あいた席が埋まるまで時間はかからなかった。素性を聞けば、男は腰にかかったサーベルをちらりと見て武器職人だと素っ気なく答えた。そして私は自分のことを行商人だと偽った。

「だからそんな物騒なものを持ってるんですね」
「…まぁな、ところでお前は何を売ってるんだ」
「えっと…紅茶とか…いろいろ」
「ほぅ…紅茶か…」

どう見てもそんなものに興味がありそうには見えなかったが、紅茶に食いついた男に目を丸くする。無愛想に見えて意外と話しやすい男にアルコールも加わり、会話の内容は次第に深いものへと変わっていった。

「私は…昨日まで内地で働いていたんですけど色々あって左遷されることになって…」
「何があった…?」
「上司に体を触られて…気付いたら殴り飛ばしてました…」
「なかなか骨のある女じゃねぇか…」

背中から抱きしめられるという明らかなセクハラ行為に反射的に体は動いていた。意識を失った男を見て上官だと気付いたが時既に遅し。先に手を出したのは向こうだが、相手が悪かった。所詮、私はなんの力も持たないただの一般兵。権力なんてそんなものだ。

「理不尽だと思いませんか…?」
「悪貨は良貨を駆逐すると言うからな…まぁ、運が悪かったと思え」
「そ、そんな風に納得なんて出来ません…」

左遷された先の調査兵団といえば人類最強と名高いリヴァイ兵長がいることでも有名だ。訓練なんかも他の兵団に比べてかなり厳しいと聞く。内地で厩務員としてのんびり馬の世話をしてきた私にとってそれは地獄の左遷と言っても過言ではなかった。

「貴方はどうして一人で飲んでるんですか…?」
「明日から厄介な奴が来ることになってな…」
「厄介な奴…?」
「俺は必要ないと言ったんだが…上の奴が余計なことをしやがって…」
「…お互い、上司には恵まれなかったみたいですね」

同じような悩みを持って酒場を訪れた男とこうして出会ったのも何かの縁かもしれない。小さく笑ってグラスを差し出せば、男も自分のグラスを持ち上げた。カツンと音をたててぶつかるグラス。二人の間には不思議と穏やか時間が流れた。それを打破るように響きわたる笑い声。中央のテーブル席に座る若い男女達が盛り上がる様子を遠目に見つめる。会話の内容はもっぱら色恋沙汰についてだった。

「誰が誰を好きだのってだけであそこまで盛り上がれる気持ちが理解できません」
「まったく同感だな…一杯奢らせてくれ」
「なら、シェリー酒を…」

おかわりで…と続けようとしたが、驚いた顔をする男に首を傾げる。男はすぐに視線を逸らして何事もなかったように続けた。

「…だが、お前も奴らと同い年くらいじゃねぇのか?そういう年頃だろ…」

そういう目の前の男は年齢不詳だった。口振りからして年上なんだろうけど、見ようによっては若くも見える。

「…私は、恋だとか愛だとかくだらない色事には嫌悪感くらい覚えます」
「ほぅ…」

今回、私を左遷に追いやった上官に対してだってそうだ。貴族出身の柔らかな物腰にわずかな憧れを抱いていたというのに、セクハラをした途端、誘ってきたのはそっちだろうと言いだす始末。もう絶対上官…いや、男なんか信じるものかと心に決めていた。

「私が信用できるのは…」

奢ってもらったシェリー酒を一気に呷ると、ダンッとグラスを置いた。ああ、まずい…このままでは完全に思考はアルコールに奪われる。それでも止められないのはこの街の安酒が意外と口に合うからか、それともこの目つきの悪い男が意外と聞き上手だからか…気付けばそんなことはどうでもよくなっていた。

「私が信用できるのはっ…もう、馬だけなんです…!」
「おい、飲み過ぎだ…」

私の最後の記憶は男にグラスを奪われるところまでだった。

そこからは夢なのか現実なのか…異様に楽しくなって大笑いしたり、泣きわめいたりもした気がする。

宿屋の主人でもあるマスターが私の部屋は上だからと男に話している声がどこか遠くで聞こえた。ギシッと軋む階段を登っていくのは明らかに自分の足じゃない。逞しい腕に抱えられて私は夢見心地だった。



――――――



憲兵団で不祥事を起こして調査兵団への移動が決まった後、幼い頃から知り合いだったナイル師団長が調査兵団の団長とは顔なじみだからと話をつけてくれた。ずっと厩務員として馬の世話ばかりしてきた私がいきなり壁外調査など行けば真っ先に巨人の胃袋行きになると心配して特別な役職を見つけてくれたらしい。

いつもよくしてくれたナイル師団長。幼い頃から頼りがいのあるその人が、街を出る前、私に申し訳なさそうな顔で頭を垂れた。

『守ってやれなくてすまねぇ…』

違うんです。全ては油断した私が悪いんです…
もう二度と…上官なんかに心を許したりしませんから、ナイル師団長…

「だから…心配…しないで…ください」

むにゃむにゃと発した言葉が自分の寝言だと気付くまでそんなに時間はかからなかった。窓から差し込む光に目を細めれば、やけにごつごつした枕だな…と体をよじった。あたたかな人肌、ほんの少し汗が混じったような男らしい匂い。

「ん…?」

目を開けて固まる。

今度は状況を把握するのに時間がかかった。私は誰かに腕枕をされていた。それもかなり体格がいい男だと抱きつくように回していた腕の感触で分かる。ドキドキと速まる心音がまるで機会音のように耳に届いた。

(や…やってしまった…)

十代の生娘でもあるまいし、これはとんでもない失態である。落ち着け…落ち着くんだ私。そう自分に言い聞かせると昨夜のことを思い出そうと必死に頭を回転させた。別に裸で寝てたからって何かあったとは限らない。そう、お互いに酔っぱらって寝てしまっただけかもしれない。

とにかく男が目を覚ます前に何があったか必死で思い出そうと試みたが、頭がズキズキと痛んで記憶は断片的にしか思い出せなかった。マスターの声、軋む階段を登る音、ベッドに下ろされ帰ろうとする男を強引に引き留めた。首に腕を回して、唇を寄せて…そこまで思い出してさっと血の気が引いていくのが分かった。

「や、やってしまった…!」

今度は口に出していた。それに気づいて薄らと目をあけた男は掠れた声で囁いた。

「…気分はどうだ?」
「最悪です…」
「ああ、俺もだ…」

男も気分は最悪らしい。私は一体何をしでかしたというのだ。先の記憶を思い出したいような思い出したくないような…そんな葛藤に苛まれていれば、わずかに体を起こした男は眠たげな目をしたまま私を見下ろした。

「まさか覚えてねぇのか…?」
「ぜ、全部覚えてるに決まってます」
「…ならいいが」

薄暗い酒場とは違い、太陽光が差し込む部屋で見る男はひどく疲れて見えた。顔色も良いとは言えないし、目の下の隈もひどい。

「あの…もしかして眠れませんでした…?」
「いや、こんなによく眠れたのは久しぶりだ…」

男は深く息を吐きだすと気怠げに片手で額を覆った。その色っぽい仕草に見惚れていたが、すぐに顔を横に振ってベッドから抜け出した。

「昨日は…なんだか迷惑をかけてしまったみたいで…ごめんなさい」
「………」
「あの…私、もう行きますね…」

必死に平常心を保ったふりをしながらシーツを手繰り寄せると、部屋中に散乱していた服を寄せ集めた。そのままそそくさと部屋を出て行こうとしたが男の低い声が背後から響きわたった。

「おい、待て…」
「は、はい…」
「お前、行商人じゃねぇな…」
「え…」
「昨夜も言ったが別に詮索するつもりはねぇ…が、せめて名前くらい教えろ」

その言葉に動きを止めると、しばらく考えてから振り返った。

「…ナマエ、です」
「ナマエ、か…また会えるといいな」

それが社交辞令だとしてもなんだか嬉しかった。本音を言うともう二度と会うのはごめんだけど。そう、これは一夜の過ちにすぎない。

未だベッドで上半身を露にして座る男に近づくと、頬に手を当てちゅっと音をたてて反対側の頬にキスをした。男は特に驚いた様子もなく目線だけ私に向けてきた。どうしてこんな行動に出たのか自分でも分からなかったが、せめてものお詫びの気持ちと、不思議と沸き上がった愛しさからだと思う。

「それじゃあ、さようなら…」

きっとこの男も武器職人などではないのだろう。もう二度と会うことはないだろうから知る必要もないが。一晩だけでも悩みから解放してくれた男に心からの笑顔を向けて部屋を後にした。

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