▼ chapter10 告白【前半】
あたたかな日差しが窓から差し込みうーんと大きく伸びをする。季節はすっかり春になった。ここ最近、試験の準備でまともに眠れていなかったからかアラームが鳴ってもすぐには反応できなかった。もう5分だけ…もぞもぞと寝返りを打った先で何かとぶつかった。
「ん…」
まだ肌寒い季節。そのあたたかい何かに無意識にすり寄れば、ぎゅっと優しく包み込まれる。それが心地よくてつい微睡みそうになるが、すぐに何かがおかしいと目を開けた。ぼやける視界の先にはよく知った顔。夢見心地だった私は一瞬にしてフリーズした。
「…うぇええ!?」
叫びながら仰け反ると盛大な音を立ててベッドの下に落ちた。その衝撃で意識がはっきりと覚醒する。
「え…エレン…!?なっ…なんでエレンが……ここに…」
「…お前の寝顔見たくて早起きした」
なんて差し込む日差しに負けないくらい爽やかな笑顔で言い切るエレンに「はぁ!?」と声をあげる。こっちは心臓が止まるかと思ったというのに、目の前のエレンは今だベッドに寝転んだまま笑顔で私を見下ろしていた。
「か、勝手に部屋に入ってきたの…!?」
「…お前がそれを言うのかよ」
一瞬にして不機嫌そうな顔つきになったエレンは呆れたように言った。
そうだ、いつも散々好き勝手にエレンの部屋に入って怒られていたのは私の方だった。あの頃はエレンのことが好きで好きで365日ずっと一緒にいたいとさえ思っていた。
だけど…
今はあの時とは違う。
確実に何かが違うのだ。
エレンに「好きだ」と言われてからしばらく経ったが、私はまだ返事出来ずにいた。そんな私を何も言わずに待ってくれるエレン。顔をあげれば見慣れた優しい笑顔があって、ますます胸が痛んだ。
――――――
制服に着替えてエレンと共にリビングに下りれば、エルヴィンがいつものようにキッチンで忙しなく動いていた。部屋中に広がる甘い香りはフレンチトーストの香り。既に身支度を整えたハンジは新聞を広げながらコーヒーを啜り、その隣に座っていたリヴァイ足を組んだまま資料を見つめていた。いつもと変わらない風景。おはよう、と声をかければ笑顔を向けられる。ただ一人、リヴァイを除いて。
「あれ…今日は珍しくナマエもお寝坊さんだね」
「うん、最近ちょっと寝不足で…」
「あぁ、そっか…もうすぐテストだもんね」
「今さらない頭で頑張ったって意味ないんですけどね」
「ちょ、ちょっとエレン…それどういう意味よ…!」
そんな賑やかなやりとりにもリヴァイは見向きもしない。カウンターに座ったまま仕事の資料を見つめるその横顔をじっと見つめていれば、エレンにおでこを小突かれる。
「ほら、早く飯食って行くぞ…」
「うん…」
エルヴィン特製のフレンチトーストをフォークでつつきながらもチラチラとリヴァイのことを気にしてしまう。あの日からリヴァイは目を合わせようともしてくれなくなった。嫌われたってしょうがない。私はいつまで経っても同じ事で悩む、どこまでも女々しい子供なんだから。
だけどもう一度だけ、ちゃんと話しがしたかった。そんなことを考えていれば、急にエレンが立ち上がった。
「おい、そろそろ行くぞ…」
「あ、うん…」
今はとりあえず学校に行こう。のろのろと立ち上がり鞄を手に取るとエレンが自然に私の手を握った。まるで付き合っている彼氏彼女のように。
「え…」
そこにいた誰もが繋がれた手に視線を向けた。突然のことに固まっていたが、洗い物をしていたエルヴィンの眉間にくっきりと皺が寄ったのに気付くと、咄嗟に乾いた笑みを浮かべた。
「え…エレンってば、やだなー…子供の頃の癖がぬけてないんだから…」
あはは…と笑いながらバシバシとエレンの背中を叩く。なんとか誤摩化そうと必死だったが、リビングに漂う微妙な空気は一向に和らぐことはない。一つ咳払いをすると、エレンの背中を強引に押して逃げるように玄関に向かった。
――――――
「何で今さら子供の頃の癖なんか出てくるんだ…?」
残されたリビングでエルヴィンが複雑な表情のまま呟けば、少しの間を置いてハンジが顔をあげた。
「さぁ…赤ちゃんがえりでもしたんじゃない…?」
エレン精神年齢低いし…と淡々と続けるハンジに、そんなわけあるかとエルヴィンが声を荒げる。
「それよりリヴァイさ…今日出発なんでしょ?」
「あぁ…」
「本当に二人に言わなくて良かったの…?」
珍しく真剣な表情をしたハンジにリヴァイは仕事の資料から顔を上げると一度視線を彷徨わせてから答えた。
「あぁ、必要ない…」
――――――
駆逐ハウスを出てしばらく足早に進んでいたが、人気のない通りでぴたりと足を止めるとエレンの方へと振り返った。
「ちょっとエレン…駆逐ハウスは恋愛禁止って忘れた?」
「いや…」
「だったら何であんなことしたの…!?」
捲し立てるようにそう言えば、エレンはばつが悪そうに視線を逸らした。
「お前の方こそ…リヴァイさんのことばっか気にして…あの人のこと、どう思ってるんだよ?」
「そ、そんなの…ただの同居人に決まってるじゃん…」
動揺を隠すために視線を逸らして答えれば、エレンの痛いほどにまっすぐな視線が突き刺さる。
この変り用は一体何だろうと思わずにはいられなかった。いつも私がエレンを追いかけ、馬鹿みたいに嫉妬して、エレンを見送り続けていたというのに。今ではエレンがかつての私と同じような瞳で私を見つめていた。
「なぁ…今日学校サボれるか?」
「え…」
「今日は一日、お前と一緒にいたい…」
そう言って私の両手をぎゅっと握りしめたエレンは悲しげな瞳のままじっと私を見つめた。
「ダメか…?」
まるで捨てられた犬みたいな顔で聞かれたら断れるはずがない。例え試験前であろうとも。
――――――
ゴロゴロとキャリーケースをひきずる。リヴァイは駅までの道のりを進みながら初めてあのシェアハウスを訪れた日のことを思い返していた。悪徳業者と間違われたこと、気まぐれで協力したこと、馬鹿みたいに必死な姿を黙って見ていられなくなったこと。あの家に住み始めてからの全てを思い出していた。
「おーい…リヴァイ…ちょっと待ってよ!」
その声にぴたりと足を止めて振り返れば、片手をあげて走ってくるハンジの姿があった。目の前まで追いつくと前屈みになって荒い呼吸を整える、そんな姿をまじまじと見つめる。
「なんだ…置き忘れのもんでもあったか?」
「いや、そうじゃなくてさ…」
ハンジは乱れた呼吸を整えると、久しぶりに走らされたよ…なんてぼやきながら上体を起こした。
「ねぇ、本当にいいの…?」
「何のことだ…」
「ナマエに何も言わずに行くことだよ…」
いい加減聞き飽きた内容にわざとらしく息を吐く。
「おい…何度も同じ事を言わすんじゃねぇよ」
「リヴァイが向こうに行ってる間にエレンとうまくいっちゃうかもよ…それでもいいの?」
「あぁ…むしろそうなればいいと思ってる」
少しも間をあけずにそう答えれば、ハンジは驚いたように目を見開いた。
「なら、ナマエはどうなるのさ…知らない間にリヴァイが海外に行ったなんて知ったらきっと泣くんじゃないかな…」
言われてふいに浮かんでくるナマエの泣き顔を頭から振り払うように舌うちする。
「はっ…そんなもんすぐに慣れんだろ」
「ねぇ、リヴァイ…前に私たちはもうあんな風にはなれないって言ってたけどさ…別にいいんじゃないかな…」
「あ…?」
「本気で好きなら真っ直ぐぶつかってみなよ…」
ハンジが何を言いたいのか分からないでもなかった。だが、自分がそんな性格ではないことは誰よりも理解していたし、それを今さら変えることもできない。
「ハンジ…お前が何を期待してるか知らんが諦めるんだな。俺はそんな人間じゃない」
突き放すように言い切れば、ハンジはわざとらしい溜め息と共に踵を返した。
「あっそ…もういいよ…好きにしな。せいぜい向こうで美人な彼女でも作るんだね…」
「余計なお世話だ」
「まったく…とんだ無駄足だったよ…」
ぶつぶつと文句を言いながら来た道を戻ろうとするハンジの背中を咄嗟に呼び止めた。
「おい、ハンジ…」
「なにさ…」
「あいつが泣いたら…側にいてやってくれ…」
その言葉に足を止めたハンジは、静かに振り返るとわずかに頷いてみせた。それを確認したリヴァイは再び駅に向かって歩き出す。
「ほんっとに素直じゃないんだから…」
眼鏡をかけ直したハンジは独り言のように呟いた。
――――――
初めて学校をサボった。いつも逆方向の電車に乗る私たちは初めて同じ方向に進む電車に乗って街に向かった。エレンに手を引かれ、雑貨屋に立ち寄ったり、一緒にクレープを食べたり、それは小さな頃からずっと夢見てきた時間だった。いつかエレンとこんな風に同じ時間を共有する。それが叶ったはずなのに胸の中にはぽっかりと穴があいたままだった。
気付けば私は自然と足を止めていた。
「どうしたんだよ…」
クレープを持ったままエレンが振り返ったが、顔をあげることができずにいた。とても大事なことに気付いた気がして…同時にそれを受け入れることができなかった。
「私…ずっと夢だった。エレンとこんな風に並んで歩くのが…」
「あぁ…なら、これからはずっと…」
「でも…違うの…」
私が今、隣にいたい相手はエレンじゃない。
そう、言葉にするために顔をあげた。あの日、あの雨の日に私が感じた痛みを同じようにエレンに与えようとしている。そう思うとやっぱり言葉になど出来なくて…ぎゅっと両手を握りしめればポケットの中で携帯が揺れた。
「ご、ごめん…」
エレンに背中を向けてポケットから携帯を出すと、メールの受信を知らせるブルーのランプに目を見開く。
(え、ハンジさん…?)
こんな時間にメールなんて珍しいと受信ボックスを開く。
『ごめんね。リヴァイに言うなって口止めされてたんだけどさ…』
その先の内容を読んで一瞬にして私の頭は真っ白になった。無意識に涙が流れ落ちる。
「お…おい、どうしたんだよ…」
頬を流れる涙に気付いたエレンが驚いて私の肩を掴んだが、携帯を握りしめたまま放心していた私はただただ後悔していた。
こうなるまで気づかないなんて…
「ごめんエレン…私、やっぱりエレンとは一緒にいられない…」
「なんでだよ…」
「自分でも分からない…エレンしかいないってずっと思ってたのに…」
子供のころからずっとそう思っていた。片思いでもいい。側に居られるならそれだけでいい。いつかきっとこの想いは届くんだと幸せな夢を見て、きっと恋に恋をしていた。
だけど私は、胸の痛みを知った。
背中のぬくもりも、煙草の香りも、不器用な優しさも忘れようとすればするほど、心の中に溢れていく。
「わたし…」
この気持ちの正体がまだはっきりとは分からない。それでも時計を見て早く行かなきゃと…そんな気持ちだけが焦って、体は勝手に動いていた。
「ごめん、行かなきゃ…」
「待て…」
「エレン、お願い…!」
「タクシー使うなら、こっちの方が早い。俺が捕まえてやるから」
そう言って私の手を引いたまま賑やかな通りに出るとエレンは慣れた様子で一台のタクシーを止めた。その思いもよらない行動に間の抜けた顔で立ち尽くしていれば、エレンは寂しげに笑った。
「…俺が悪いんだ、お前を誰かに奪われる日が来るなんて想像もしてなかった」
「エレン…」
「だから、はやく行け…」
促されてタクシーに乗り込むと目的地を伝えて窓を開ける。ごめん…と口を開こうとすれば、やんわりと止められる。
「謝るな…まだお前がふられる可能性だってあるだろ…」
「え…」
「だから…今度は、俺が待つ番だ…」
タクシーは走りだして、遠くなっていくエレンは最後にいたずらっぽく笑ってみせた。
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