短編 | ナノ


▼ 樫の木の下で君を待つ【後半】

───852年。

世界は巨人という脅威から解放され平和な日常を取り戻していた。誰が予想しただろうか、こんな結末を。世界を恐怖に陥れたその黒幕は巨人になれる少年とその父親だったという事実が世間に知れ渡ると、人々はまるで長い悪夢でも見ていたかのように全てを忘れていった。

3つの兵団は憲兵団のみを残して解散となり、街全体を囲っていた壁は役割を終えた今も、その存在を主張するかのように高くそびえ立っていた。

訪れたのは偽りの平和。
その偽りの中でようやく私も確かな幸せを手にしようとしていた。



――――――



花嫁が支度をするために用意されたブライズルーム。鏡の前に座っていた私は自分の顔をじっと見つめた後に小さく息を吐いた。そのため息は一人きりの部屋にやけに響いて耳に届く。

右手に握りしめていた新聞を広げると最近騒がれている事件について事細かに書かれていた。まさか結婚式の日までこんな悲惨な事件が起きるなんて…記事の中によく知った名前を見つけると、胸のあたりをギュッと握りしめた。

「…また兵団の人間だな」

一人きりだと思っていた部屋に突如とした響いた声。驚いたのはそれだけが原因じゃなかった。忘れることなど出来ないその声に大きく目を見開き振り返る。

「リヴァイ…兵長」

腕を組んだまま窓辺に背を預けるようにして立っていたのは実に数年ぶりに見る姿だった。兵団に所属していた頃に上官だった男が何故こんなところにいるのか…訳も分からず目を瞬かせる。

「かつて公に心臓を捧げていたお前が結婚とはな…」
「もう…人々が恐れる脅威は消え去りましたから」
「…冗談だろ、この街はもはや制御不能だ」

リヴァイの言いたい事は分からなくもなかった。これは仮初めの平和だと…そう言いたいに違いない。手元のドレスを握りしめると唇を噛みしめて顔をあげた。

「でも…例え一時的なものだとしても世界は平和になったわ」
「本気で言ってるのか?今や政府の連中は王族の犬も同然だ」
「それは…」
「いい加減、お前も気付いてるんだろ…兵団に関わっていた人間が次々に命を落としてることくらい」
「…それが一体何だっていうの」
「かつて調査兵団だった奴らが狙われている…お前の身も危ないってことだ」

リヴァイが淡々とそう言い終えた瞬間、話を遮るようにノック音が響きわたった。一度ドアを見て慌てて振り向いた時には、リヴァイの姿は柱の影に消えていた。

「準備はどうだい…?」
「え、ええ…順調よ…何も問題ないわ」

満面の笑みで顔を覗かせたフィアンセに、同じように笑って答える。

「なら僕は先に下で挨拶をしているよ」
「ええ、私も準備が終わったらすぐに向かうわ」

ドアを閉めるフィアンセを見送るとすぐに目の前にある鏡を見た。うまく笑えていた自信などない。鏡越しに柱の影から現れたリヴァイと目が合うとすぐに視線を彷徨わせる。

「あの男のどこに惹かれた…俺とは違って優しい言葉でも囁いてくれるか?」
「やめてよリヴァイ…私を振ったのはあなたの方じゃない…」
「ああ…だがあの時はこんな未来が訪れるとは思ってもいなかった」

かつて私たちは上官と部下であり、想いを通じ合わせた恋人同士でもあった。だけどリヴァイはある日突然姿を消したのだ。追われる身となったエレン達と共に。人類最強と謳われた男は今や政府の人間が血眼になって探す犯罪者の一人だった。

「リヴァイ、とにかくこんな所にいたら危険だわ…」
「お前…本当にエレンとその父親がすべての黒幕だとでも思ってるのか?」

その言葉に弾かれたように顔を上げる。

「私だって違うと思いたかった…だけどリヴァイ、あなたは何も教えてくれなかったじゃない。まるで私を邪魔者みたいに追い払ったじゃない…」

リヴァイはエレンを含めた数人の部下を連れて消えたが、私には声一つかけることはなかった。まるでお前は必要ないと…そんな風に言われたような気がしてならなかった。

「世界は平和になったけど、私は絶望のどん底だった…調査兵団もなくなり一人になって…そんな時に私を拾ってくれたのが今のあの人よ」

悲痛な面持ちでそう言い切れば、リヴァイもまた苦しげに眉根を寄せた。

「あの時はお前を巻き込みたくはなかった」
「だったら…」
「だが、状況が変わった…当時、調査兵団に所属していた人間が次々に命を落としてる今、俺はお前を全力で守る」
「…………」
「俺と一緒に来い」

目の前まで伸ばされたリヴァイの手をじっと見つめる。わずかに動きそうになった体を必死で抑え込んで首を横に振った。

「いいえ、行かないわ…」
「ナマエ…」
「リヴァイ、知らないでしょう…あなたが突然消えて、私がどんなに…」

言いかけた言葉を飲み込むように口を噤むと、俯いた。瞬きをすれば今にも涙が零れ落ちそうだった。だけど、もう…過去は振り返らないと決めたのだ。

「ここまでわざわざ忠告しに来てくれたことは感謝する…だけど、もう帰って」
「それがお前の本心なのか…」
「今日は私にとって人生最良の日なのよ」

その言葉にリヴァイは眉一つ動かさなかったが、それでも私には分かった。あれは泣いてるも同然の顔だ。伸ばしていた手をキツく握りしめたリヴァイは静かに踵を返した。

「…悪かったな、邪魔をして」

窓枠に足を掛けたリヴァイはそのまま瞬く間に姿を消した。今にも追いかけそうになる足を必死に止めて自分の体を抱きしめる。これ以上、式を前に心を乱されるわけにはいかなかった。

もうリヴァイのことも…調査兵団のことも…この世界の真実がどうであろうと、全てを忘れると決めたのだ。



――――――



正午を知らせる鐘の音が鳴り響く。

チャペルの中からは既に荘厳な音楽が流れはじめ、列席者のざわめきを耳にしながら入場の時を待っていた。扉が開く直前、フードを深く被った少年から淡い紫色のブーケを受け取った。それは見覚えのある花だった。

「綺麗な花ね…これは何ていう花なの?」
「スターチスの花です」

その聞き覚えのある声に大きく目を見開いた。

「え…エレン、なの…?」

深く被ったフードで顔はよく見えないがその声を聞き間違えるはずがなかった。しばらく無言で立ち尽くしていた少年はコクリと小さく頷いた。

「よ、よかった…元気そうで…」

その言葉にほんの少し顔をあげたエレンは弱々しく笑ってみせた。

「こんなところにいて平気なの?」
「…危険は承知です。兵長も俺がここにいることは知りません」
「え…」
「時間があまりありません。ナマエさん、聞いてください」

チャペルから聞こえるパイプオルガンの音色はだんだんと大きくなっていた。入場の時刻が迫っている。

「兵長はいつも、どこかにふらっと出掛けては明方に戻ってきて…行き先さえ言わなかったけど、それでも俺たちには分かりました」
「……」
「兵長はずっとあなたの元へ向かっていたんです」

言葉にならなかった。だけどエレンの言葉をすぐに信じることもできずに首を横に振って後ずさる。エレンは手元のブーケに視線を落とした。

「この花に見覚えはありませんか…?」

それは確かに見覚えのある花だった。泣いたり落ち込んだりすると、いつも知らない間にその花が窓辺に置いてあったことを思い出す。それを置いていったのは今もバージンロードの先で待つフィアンセだとばかり思っていた。

「兵長はずっとあなたの元へ通ってたんです。あなたが無事か、いつも気付かれないように見守ってたんです…」

気付けば頬を冷たい何かが流れていく。

「そんなこと、今さら言われても…」
「兵長はただ、あなたを巻き込みたくはなかったんだ…」
「だけど、私は…」
「今も待ってるはずです。あなたといつも過ごしたあの木の下で」

その言葉に、二人でよく一緒に過ごした大きな樫の木を思い出した。寄り添うように並んで座って多くの時間を過ごした場所。

「だから…」

エレンがそこまで言いかけた時、チャペルの扉は勢いよく開いた。一瞬にしてあたたかな拍手に包まれる。エレンはフードを深く被り直して言いかけた言葉を飲み込むように、ゆっくりと下がっていった。

もう笑うことなど出来なかった。

チャベル内に溢れ返る幸せな空気に、違和感と戸惑い…場違いな感覚を覚えて、震える足のまま一歩を踏み出す。

リヴァイが消えてすぐ、私は毎晩泣いて過ごした。涙が止まらなくて、悲しみに押し潰されそうで…そんな時、気付けば窓辺に淡い紫色をした花が一輪置いてあった。部屋の前には大きな木があって時々かすかな気配を感じたけど、いつも気のせいだと思っていた。

バージンロードを途中まで進んだところで、ぴたりと足を止めた。

「ごめんなさい」

それだけ呟くと、深く深く瞼を閉じて頭を下げる。
気付いた時には踵を返していた。



――――――



リヴァイは待ってる。
あの樫の木の下で私を待ってる。

頭の中でそんなことを繰り返しながら私はひたすらに走った。白い靴は脱ぎ捨てて裸足のまま丘を駆け上がれば、ドレスの裾がひらひらと舞うのを視線の端で捉えた。遠くに樫の木が見えると一度足を止めて荒い息を整える。

いつだったかあの木の下で樫の実を使った恋占いをしたことを思い出した。リヴァイは馬鹿馬鹿しいと言ったが、街で流行っているその占いをどうしてもやりたいと私が言ったのだ。

──今度こそ。今度こそ、ついていく。
何があっても傍にいると伝えるのだ。

両手をぐっと握りしめ再び走り出したが、樫の木まで残り数十メートルという所で、突然黒い服を着た男たちに囲まれた。その身なりから一目で政府の人間だと分かった。

「調査兵団で分隊長をしていた女だな…」

一瞬にして私の周りを包囲した男たちの動きはよくよく訓練されたものだった。

──ああ、私は一体いつになったら分かるんだろう。リヴァイの言ってることはいつも正しいと、後になって分かるのに。

こんな状況にも関わらず自嘲的な笑みがこぼれた。

だけど、ここで死ぬわけにはいかなかった。私がここで死ねばあの優しい人は一生悔やみ続けることになるだろう。すぐに逃げるために踵を返そうとしたが、ふいにもう一つ、別の考えも頭を過った。

さっきあれだけひどいことを言ったのだ。リヴァイが私の前に現れることは、きっともうないだろう。結婚して、幸せに過ごしているとそう思うはず。

ならば、私に出来ることは…

エレンから受け取った淡い紫色のブーケを見つめる。スターチス…花言葉は確か、永遠に変わらない心。

「どうした…逃げるのは諦めたか?」

急に動かなくなった私を不審に思い、男たちはじりじりと背後から近寄った。その気配を感じながらゆっくりと振り返る。

「お願いがあるの」

神妙な面持ちでそう訴えれば、男たちは驚いたように顔を見合わせた。

「私の亡骸を…誰にも見つからない場所に葬ってほしいの。埋めるなり、焼くなり…好きにしてくれて構わないから」

しばらく顔を見合わせていた男たちだったが、中心に立つ男が言い放った。

「ああ、言われなくてもそうするつもりだ」

その言葉に安心したように頭を垂れる。

いつも私を見守ってくれていたリヴァイ。窓辺にそっとスターチスの花を置いていったリヴァイの姿を心に浮かべると不思議と何も怖くはなかった。あんなに怖いと思っていた死でさえ受け入れることが出来た。

不安なことはただ一つ。

──幸せになれるだろうか、不器用なあの人は。

白いドレスが赤く染まる残りわずかな時、私はそんなことを考えていた。









樫の木の下で恋占いをした日、リヴァイと一緒に浮かべたどんぐりの実は、私のものだけが沈んでいった。不吉だと笑えば、リヴァイはこんなもの信じるなと言ったけど…私はいつかこんな日がくるのではないかと思っていた。


意識が戻り瞼をあければ辺りはすっかり暗くなっていた。完成された物語がすっぽりと頭から抜け落ちていたような感覚に胸は震え、涙が次から次へと溢れた。

リヴァイはずっと待ってくれていたのだ。
死してもなお、その魂をそこにとどめて。
まるで時が止まってしまったように…

流れ落ちる涙を手の甲で拭うと、あの日の辿り着けなかった場所に向かって再び走り出した。



――――――



数年前に祖母が亡くなってから私はその街にさえ近付かなくなった。胸を抉るような失恋に、あれは幻だったのだと自分に言い聞かせ、何度も忘れようとした。

だけど何年経っても忘れることなんて出来なかった。唯一の幸せな記憶もそこにしかないのだから。

樫の木に辿り着けば、出会った頃と変わらずその人はいた。寂しげに、一人佇む姿を私は息を切らせながら遠目に見つめた。

「リヴァイ…」

自然とその名を口にしていた。涙で顔をぐちゃぐちゃにした私に気付いたリヴァイは、全てを悟ったようにゆっくりと立ち上がった。

「遅いじゃねぇか…随分待たせやがって」
「待ちすぎだよ…」
「ああ、そうだな…確かにもう、何年も待った」
「どうして教えてくれなかったの…?」
「…話すべきか俺には分からなかった。二度もお前の幸せを、邪魔したくはなかったからな」

遠い記憶の中で、私は自分の身を案じて訪ねてきたリヴァイを冷たい言葉で突き放した。本当はその手を取りたかったのに、くだらない意地を張って…

「ごめんね…私、沢山ひどいこと言った…」
「いや…謝るべきは俺の方だ。俺はずっとお前に伝えたかった…あの日、守ってやれなくてすまなかったと」

その言葉に大きく首を横に振る。あの日、私は自ら死を選んだのだ。

「リヴァイ、私ね…あの日あなたの元に向かってたんだよ…」
「ああ…知ってる」
「え…」
「全部知ってんだ…」

思ってもみない言葉に私は瞬きも忘れてリヴァイを見つめた。

「お前は俺のためを思って自分の亡骸を隠せと…奴らにそう言ったんだろ…」

リヴァイは悲痛に顔を歪めながらもどこか笑ってそう言った。

何年も、何千年も、来るはずがないと分かっていながらリヴァイは私を待ち続けていたのかと思うと胸は押し潰されそうなほど痛み、ついにその場に泣き崩れた。そんな私をリヴァイはそっと包み込んだ。触れる事などできないはずなのに、確かにそこに温もりはあって…

「ごめんね、リヴァイ…」

顔を上げればリヴァイはどこまでも優しい眼差しで私を見つめていた。同時にその体が徐々に透けはじめていることに気付くと、泣くのも忘れて目を見開く。

「どうして…」

目の前の体に縋り付こうと必死に手を伸ばしたが、それは虚しく空気を掴むだけだった。

「待って…お願い…あと一日、ううん、あと数分だけでもいいから」
「いや…俺のことは、もう忘れろ」

リヴァイは静かにそう言うと私の頬に手を添えた。その手は、やっぱりそこにあるみたいに温かくて涙で視界は滲んでいく。

「忘れられる日はくる…必ずだ」
「そんなの無理だよ…」

私の耳元に顔を近づけリヴァイはそっと囁いた。

「あの日、俺が言ったことだけは忘れるな」
「え…」
「お前を想ってる奴は必ずいると…そう言っただろう」
「うん…」
「──あれは俺のことだ」

最後にそう言い残して、リヴァイは静かに消えていった。背中に回したはずの腕はむなしく空を切り、私は呆然とその場に膝をついた。


樫の木は生命、永遠の命の象徴だと聞いたことがある。どんぐりの実を持っていると病魔から身を守り、長生きすることができるという言い伝えもある。長い年月を経て、再び巡り会えるようにとこの木が、そんな奇跡を起こしてくれたのかもしれない。そんな風に思うと涙は止まらなかったけど、あたたかな気持ちでいっぱいになった。



――――――



それから何日も、何年も経った。

結婚をやめた私は祖母の家を買い戻し、そこで一人暮らしをはじめた。リヴァイがずっとそうしてくれていたように、時間さえあれば樫の木へと赴き、来るはずのない人を待ち続ける日々。

いつかの日のように草の上に仰向けになって寝転んでみた。リヴァイと一緒に見た空を探したけど、どう頑張ってもあの日見た空は見つからなかった。隣を見ても、もうそこにあの人の姿はない。

「ねぇ、リヴァイ…知ってた?本当に悲しい時は、上を向いてても涙は流れるんだよ…」

涙は流れたけど、不思議と寂しくはなかった。

もし、どこかに孤独を感じている人がいるならほんの少しでいいから想像してみてほしい。この広い世界のどこかに、自分以上に自分のことを想ってくれていた人がいたのかもしれないと。

それは姿、形さえ知らない…

自分が生まれるもっとずっと前から自分だけを待ってくれていた人で…そんな人がいたかもしれないと思うだけで、きっと寂しくはないから。

空に向かって手を伸ばせば、遠くにあの日リヴァイと一緒に見た空が見えた気がした。

ふいに優しい風が頬を撫でていく。





スターチスの花束を持ったまま小高いを登る一人の足音。その姿を見て、ナマエの涙が止まるまで残り数十秒前の出来事だった。


「おい、ガキ…人の縄張りを荒らしてんじゃねぇよ」



──だから私は、
そんな日が訪れるまで、いつまでも樫の木の下で君を待つ。

Fin.

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