「そんなわけで、一真の退院おめでとうの会にかこつけて吉田くんと沢地さんを友人関係にする作戦Fが実行されることになったから」
「……なんだ、て?」
晴巳に持ってきてもらった服に着替え、そう多くない荷物を鞄に詰めていた一真は真顔で固まった。
入院のどさくさに紛れて合鍵を渡すことに成功していた一真がその幸せを噛みしめながら作業している最中だったので、いつもより反応が数テンポ遅れたのである。
ベッドに腰掛け、楽しそうに足をプラプラさせている晴巳をじっと見つめてみるものの、いまいち内容を掴めなかった。
「ま、とりあえず沢地さんとか皆さんと一緒に退院おめでとうの会を開くってことだから」
「そうか…」
二、三素直に頷けない点があったものの、言えそうな雰囲気ではない。
おそらく深く尋ねさせる気はないのだろう。証拠に、とりあえず頷いてみせた一真に晴巳は満足そうに微笑んだのでこれで正解だと思うことにした。
「ま、一真が臥せっている間に色々あったというわけだよ」
「そうなのか……」
上機嫌な晴巳が見れただけでまぁいいか、と一真は健気に思い直して鞄のチャックを閉めた。
「大丈夫? 傷口痛まない?」
病室を出て、エレベーターを待っていた。
入院生活ではベッドに座っていることが多かったので、復活した身長差を一真が懐かしく思っていると、晴巳が「鞄持とうか?」と手を差しす。
久々の上目遣いに浮かれてぼーっとしていただけとは言えない一真は誤魔化すように硬い表情を浮かべた。
「いや、大丈夫だ」
「そう? なんかボーっとしてない? 平気?」
「ああ、別に何ともない」
鞄の持ち手を掴もうとする晴巳の頭を撫でて、できるだけ安心できそうな声を出してみたものの不満なのかむくれた顔をされてしまう。
「別に平気ならいいんだけどさー」
ぽーん、と古ぼけた音とともに扉が開いたエレベーターに晴巳が先に乗り込み、「開」のボタンを押しながら一真を待つ。若干の怪我人扱いを感じて一真はくすぐったい心地だった。
「折角迎えに来たのに何だか役立たずみたいでつまんない」
「いや、そんなことはない。絶対」
「まぁいいけどさ。そういや入院費ってどうなってんの?」
「……親父から受け取ってる」
頬を膨らませる晴巳を宥める言葉を懸命に探していた一真だったが、あっさり話題を変えられて肩透かしを食らった気になった。いや、切り替えが早いところが晴巳のいいところだ、と思ってはいるのだが。
「親父ってお父さん? そういや一真の家族構成聞くの初めてかも」
「……期待するようなことは何もないからな」
面白い物を見つけたと言わんばかりに顔を輝かせ、晴巳が一真を見る。
「そういや一真って何で一人暮らししてんの? もしかして複雑な家庭系?」
「……何でそんなに楽しそうなんだ…」
「だって本当に複雑な家庭なら、重々しく聞いたら何だか辛くない?」
「……そうだな」
正直一真にはよく分からない理論だが、嫌ではなかったので頷いた。
「少し前に、親父が再婚して」
「再婚?」
「母親、俺が小さい時に家出ていって。それで中三の時に再婚」
「中三って言えば…」
忘れもしない卒業式の某事件を否応なし思い出してしまった晴巳が僅かに赤面する。
一真がそれに気付くより先にと、晴巳は病室棟の受付で入院費の支払い方法を尋ねに行く。
「一真、あっちだって」
受付で忙しそうに書類と格闘していた女性に総合窓口に案内され、晴巳は一真と連れだって歩く。
「……で、こんな家出て行ってやる! って感じ?」
こほんと咳払いを一つしてから、晴巳は似ていないにもほどがあるモノマネ調で言った。
「……その再婚相手がまだ若いんだよ。気も合わねーし」
モノマネにつっこむこともなく、真顔のままの一真に晴巳が微妙な顔をした。
なんともコメントに困る微妙な話で、いつもの軽口にもキレがないのは自分でも分かっていた。
「……だからあんま期待しても面白くないって言っただろ」
「いや…そう来るとは思ってもみなかったっていうか」
「……一緒に暮らす気はねぇし、向こうも同じだから丁度いいし、俺は不満も何もないけどな」
気ままな暮らしを一真は気に入っているし、不満も不平もないのは本心だ。
住んでいるところの家賃や生活費。もちろん学費も支払ってもらえている身分ではむしろ不満に思うことがある方がおかしいくらいだと一真は思っていた。
「でも、寂しくなかった?」
「ああ」
「そっか」
一真にしてみれば考えたこともなかった話だが、晴巳は真剣に言っているようだったので笑わないようにしたが、少しばかり口元がにやけた。
それを隠すように晴巳が居るしな、と小さく付け加えれば、バッと見上げて、それから弾かれたように目を逸らす晴巳。
意外と照れ屋な一面に一真は一層笑わない努力をしなければならなくなった。
待ち時間はそこそこあったものの、思ったより簡単だった退院の手続きを済ませて二人は病院を後にした。
自動ドアが開いた瞬間に吹き込んできた冷たい風に晴巳は目を細めて空を見た。
「……今日は二人で退院祝いしよっか」
「ああ」
晴巳の言葉を聞いて、ああ退院したんだな、という実感が一真にも湧いてきた。やや遅いのは考えごとに気を取られていたからである。
「じゃ今日はすき焼だ」
「すき焼?」
「おめでたいことがある日はすき焼、みたいな決まりない?」
「…………ない、な」
「じゃあこれからは堤家ルールに従ってよ。な、わけで今夜はすき焼に決定」
わりと強引な決定だったが、一真に不満はなかったので黙って頷いた。
「………」
病院に運び込まれて、傷の縫合を受け、麻酔のせいでぼんやりした頭が少しマシになって、まともに身体を起こせるようになった日、晴巳が病室に現れた。
罵倒して、泣き出しながら、微かな声で「好き」だと言ってくれたのをよく覚えている。
薄情野郎だの馬鹿だの阿呆だの、散々余計な言葉が前置きされていたけれど。
あまりにそれが嬉しくて、少しばかり暴走してしまったが、自分は晴巳にとってどうなったんだろうか。自宅に近づくにつれ、一真は青ざめていった。
……すっかり恋人面をしてしまったが、それは図々しかったかもしれない。
「………」
「荷物置いて、買い物行かなきゃ」
「ん。ああ…」
すき焼すき焼、と唄う晴巳の横で一真はどんどん血の気を失っていった。浮かれすぎて根本的なことを忘れていた。
「は、晴巳」
「何?疲れた?」
「……何でもない」
一瞬、それならば確かめればいいと思ったが、いざ言葉にしようとすればまるで口が動かなくなった。
この笑顔で、この唄うような声で切り捨てられれば立ち直れないと一真は思った。
そのせいで、一真は家に着くまで、何度となく晴巳を呼んでは「何でもない」と誤魔化す羽目になり、不審そうな目で見られることになった。
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