三ヶ島沙樹は家路を急いでいた。仕事を終えて、店を出たのが珍しく電車が動いている時間だったため、今日は送りを断ったのだ。帰りに買い物もしたかったし、たまには駅から歩いて帰るのもいいと思った。空気の澄んだ、月のきれいな夜だった。
 池袋の駅につき、適当なコンビニで化粧水とクレンジングを買った。本当はどちらも決まった店で買うようにしているのだが、ちょうど昨日の夜に使い切ってしまい、今日は買いに行っている時間がなかった。一日でも手入れを怠ると翌日の化粧のりがぜんぜん違ってくるのは、不規則な生活のせいだけでなく、年齢のこともあるのだろう。店に出ている女の子たちの中でも、ついこの間二十歳になったばかりのような子は、朝方まで酒を飲み、三時間ほどの睡眠しかとらないまま出勤しても、その肌はみずみずしく、ファンデーションのよれもない。自分はもう、彼女たちのように翌日のことを考えずに飲み明かせるような歳ではない。それを口に出したら、小娘が、と失笑を買うだろうが、若いというだけで続けていかれる仕事でないことを、沙樹は知ってしまった。翌日の体のコンディションを犠牲にしてまで、享楽的に振舞うことなどできない。はたからみればつまらない生き方なのかもしれないが、歳月を経て身についたこの堅実さを、沙樹はそれなりに気に入っていた。それに、堅実な中にも楽しみはある。それさえなくさなければ、生きる張りは失われない。
 幹線道路から一本奥の道に入ると、そこはもう閑静な住宅街で、沙樹は自分のハイヒールがやたらと高い音を立てることに不安を覚えた。人通りも少なく、暗い夜道は嫌な記憶を呼び起こさせる。
 店から帰宅する沙樹の後をつけてきたあの男、部屋のカーテンを開けると、下の駐車場からじっとこちらを見つめていた。その男は少し前から沙樹の店に来るようになった客で、たまたま席に着いた沙樹のことを気に入ってくれたらしく、それからもたびたび指名を入れてくれる。それだけならありがたいし大切にすべきお客様なのだが、残念なことに行動がストーカーじみている。沙樹の仕事が終わるまで店の外で待っていて、それで話かけるでもなくアパートまでつけてきたり、外から部屋の様子をうかがっていたり、郵便受けの中に使用済みのコンドームが入れられていたときは、気色が悪いのと恐怖とで、沙樹はしばらくあの部屋に帰れなかった。マネージャーに相談して一週間ほど店の寮を貸してもらい、昨日ようやくアパートに戻ってきたのだが、昨日の今日で一人での帰宅は失敗だったかもしれない。先ほどまでの強気な気持ちが嘘のように、沙樹は今、不安と恐怖にさいなまれていた。冷たく沈黙するアスファルトも、そこに映る自分の影にさえ心がざわめいて仕方ない。こんなことなら大人しくマネージャーの言葉に従って送りの車に乗っていればよかった。しかし、今更後悔してももう遅い。こうなったら一刻も早くアパートに帰りつくほかないのだ。
 沙樹は歩調を速めた。先ほどから誰かが後ろを歩いているような気がしてならない。気のせいかもしれないのに、確認する勇気もなくて、いっそここからアパートまで走ろうかと思ったときだ。確かに人の気配を感じた。
「さーきちゃん」
 肩をつかまれ、横に並んだ男に顔を覗き込まれる。沙樹は泣きそうになった。
「正臣……」
 声をかけてきたのは顔見知りの男で、紀田正臣という、沙樹が池袋の店で働いていたころから付き合いのあるホストだった。
「久しぶりー。今帰りか?」
 正臣は以前と変わらない明るい笑顔で話しかけてくる。商売用のそれと個人的なのものと、差がないのが正臣だった。
「そうだけど……びっくりさせないでよ。心臓止まるかと思った」
「え、ごめん。そんなに驚いた?」
「怖かった……」
 直前の恐怖と安堵とで、沙樹はにじんでしまった涙をぬぐう。
「え、えっ、泣くほど? ていうか怖かったって、まだ誰かにつけられたりしてんのか?」
 わずかに顔を伏せていた沙樹は、隣を歩く正臣を見た。
「どうして正臣が知ってるの?」
 彼とは付き合いがあるとはいえ、最近は以前のように頻繁に連絡を取り合ったりはしていなかったし、実際に会うのもずいぶん久しぶりだった。今日のように、帰りにたまたま一緒になるということも初めてだ。家が近いため、これは少し意外だが。
「静雄さんに聞いたんだよ。沙樹が最近、嫌な客に付きまとわれてるって。それで今、店まで送ってもらってるんだろ?」
 静雄というのは沙樹と正臣の共通の知り合いだ。沙樹が以前、仕事明けに店のお姉さんに連れて行ってもらったバーでカクテルを作っていて、カウンター越しに色々話をしてみると正臣の先輩であることがわかった。バーテンの前は正臣の店でプレイヤーとして出ていたらしい。当時沙樹はまだ池袋の店で働いていて、正臣と恋人のような関係だった。
 しかし今、静雄が沙樹を店まで送ってくれているというのは、何もそういう過去の縁からではなく(基本的に面倒見はよさそうだから、頼めばそれくらいはやってくれそうだが)もっと別の筋からの、れっきとした仕事だった。というのも、彼が現在働いている債権回収会社は、沙樹や正臣の店と同じ、粟楠会という池袋を拠点とする暴力団のフロント企業で、沙樹の店はオーナーこそ構成員ではないが、上のほうはみんなつながっているのだ。今回の件も時々店に来てくれる幹部の一人が心配して、静雄をボディーガード代わりに貸してくれた。
「そっか。静雄さん池袋だもんね。今でもよく会う?」
「いや、最近はあんまり。でもこないだ店の内勤ヘルプで入ってくれたときに、お前の彼女大変だなって言われて」
「元、だけどね」
「は?」
「元彼女」
「ああ……」
 正臣は表情を曇らせた。少し意地の悪いことを言ったかと沙樹は思ったが、あの時突然別れ話を切り出したのは正臣だ。いまさらそれをどうこう言うつもりはないが、忘れてもらっては困る。しかし、正臣があまりに浮かない顔をしているので、沙樹は話題を変えることにした。
「最近はどう? 落ち着いた?」
「うん……落ち着いてる」
「臨也君も元気?」
「ああ。この間面談でさ、あいつの学校行ったら担任の先生が高校の同級生でびっくりしたよ。沙樹も知ってるだろ? 竜ヶ峰帝人ってすげー名前の奴」
 臨也の話題になると、正臣はいつも以上に饒舌になる。しかも表情が生き生きしている。
「相変わらずだね、正臣」
 沙樹が苦笑すると、正臣ははっとした顔になった。
「ごめん……」
「なんで謝るの? 正臣は何も悪くないよ」
「いや、そういうんじゃなくて……もうちょっと俺がしっかりしてたら、別の結果になってたのかなって」
 正臣の表情から再び明るさが失われてゆく。
「後悔してるの?」
 否定されても肯定されてもなんとも言えない気分になる質問をしてしまった。沙樹は正臣の答えが少し怖い。
 しかし、彼は答えなかった。前を見据えたままの静かな瞳は悲しげで、そのくせ、口元にはかすかな笑みを浮かべていた。
「俺が、言えることじゃないよな」
 確かにその通りだ。沙樹との関係よりも弟を選んだのは正臣だ。今更なにが後悔だ。ふざけるな、と心のどこかで思ってしまう自分が、沙樹はとても大人げないようで、心の狭い人間に思えていらだたしい。しかし、正臣の選択を嬉しく思う気持ちも、確かにあった。
 父の妾腹である弟と二人で暮らすことになったから別れてほしい。もともと恋人同士という正式な契約を結ばないままの付き合いだったが、ある日、正臣はそう言った。そして沙樹は了承した。もちろん、簡単にそれができたわけではない。最初はなんとなく一緒にいただけだったが、時間がたつにつれ、本当に正臣のことが好きになっていたため、決断はそれなりに苦しかった。
「私は正臣のそういうところ、結構好きだよ。優しくてお人よしで、家族を大事にしてるとこ」
 別れてもいいよ、と正臣に言ったとき、胸が苦しかったのを覚えている。その瞬間に、沙樹は自分がいかに正臣のことを好いていたかを知った。遅かった。泣きたかったが、がまんした。ここで泣いたら、正臣は罪悪感に苦しむ。彼の弟にもそれを押し付けることになる。きっと正臣は弟に沙樹のことを話はしないだろうけれど、彼の幸せのために犠牲になったなどと、沙樹の気持ちの上だけでも、決してそんなことを思ってはならない。そんなそぶりを見せてはならない。
「ごめん、沙樹」
 それでも正臣は謝った。それがたまらなくつらかった。
「謝らないでよ……ありがとうって、言って」
 無理に笑おうとして失敗した。唇が震えて、とっさにうつむいたが、声が揺れるのまではごまかせなかった。
「沙樹、ごめん。本当にごめん」
 抱きしめられ、だめだと思うのに涙があふれた。
 こんなはずではなかった。別れるのなんてもっと簡単だと思っていた。正臣のことは好きだ。でも永遠の別れではない。そもそも本当に恋人と呼べる存在だったのかさえ微妙だ。しかしそんな、契約の有無などは無意味だった。そんなものを結んでいなくても、沙樹の心はこんなにも痛い。
「ごめん、沙樹。好きなんだ、本当に」
 苦しい。正臣に嫌われたわけではない。冷められたわけでもない。ただ、彼は家族を選んだのだ。半分しか血のつながらない弟を、支えてやらなければならない。生活が安定するまで余裕がなくなる。だからしばらく会えない。中途半端な状態にしておくのは嫌だから、別れたい。ものすごく正臣らしいとも、彼らしくないともいえる理由だった。ちゃらちゃらしているように見せていても、実は真面目なことを沙樹は知っている。一人っ子で、人一倍さみしがり屋なところも、だからこそ家族を大事にしたいと思っているところも、辛い立場に立たされている弟を、放っておけるはずがないということも、知っていたしわかっているつもりだった。そんなところも好きだった。だからこそ、待っててくれと言われないことが悲しい。それは沙樹のためなのかもしれないが、沙樹にとっては何よりつらいことだった。
「もういい。もういいから、何も言わないで」
 顔を押し付けた正臣の上着からはかすかに香水のにおいがした。彼の誕生日に、沙樹が贈ったものだった。
 今となってはいい思い出とまではいかないが、あのころは若かった、くらいに思うことはできる。若かった。決して劇的な恋ではなかったけれど、むしろ劇的なのは別れを告げられたあの一瞬、さらに言うならばそれを了承した一瞬だけだったが、初めて恋の痛みを知った気がする。
 正臣が好きだ。それは今でも変わらない。彼はいまだに沙樹が接してきたどんな男とも違っていた。彼自身が特別というよりは、沙樹の想いが特別なのだ。あんなふうに人を好きになることはもうないと思えるくらい、あのとき、正臣は沙樹のすべてだった。今思えばあれは依存なのかもしれない。沙樹には正臣しかいなかった。彼のほかに心を揺らすものも、人もなく、彼だけが、沙樹の心を震わせた。
「もう着いちゃったな」
 気がつくと、沙樹のアパートの真下まで来ていた。正臣と付き合っていたころから変えていない部屋を、彼は懐かしそうに見上げる。
「ごめんね。送ってもらっちゃって」
「気にすんなよ。俺も心配だったし、明日から大丈夫か? やっぱり車で送ってもらえよ」
「うん。そうする。なんかやっぱり怖いし」
 両腕をさするようにして苦笑すると、正臣は申し訳なさそうな顔になった。
「ほんとは俺が送ってやれればいいんだけどな……」
 沙樹は思わず笑ってしまった。
「正臣、変わらないね。誰にでもそんなに優しいの?」
「えっ……」
「あんまり、私に優しくしてくれなくていいよ。すごく嬉しいけど、また好きになっちゃうかもしれない」
「あ……ごめん」
 正臣の瞳が揺れた。彼がなぜ謝るのか、その理由を、彼自身はわかっているのだろうか。
「ううん。謝らないで。じゃあ、もう行くね。ほんとにありがと。寒いから、正臣も風邪ひかないようにね」
 冷えた両手で正臣の手を握り締め、互いの熱が発生しないうちに離す。
「おやすみ」
 微笑んで、沙樹は正臣に背を向け、アパートの寒々しい階段を上り始めた。
「沙樹」
 中ほどまで上り終えたところで名前を呼ばれ、沙樹は振り返った。
「明日からも気をつけろよ……おやすみ」
 正臣が無理やりに笑顔を作って言った。その表情からも、彼がそんなことを言いたかったのではないとわかる。わかっていたが、沙樹は気づかないふりをした。
「ありがとう。おやすみ」
 もう振り返らずに、沙樹は階段を上り、鍵を開けて部屋に入った。駅からそう遠いわけでもないのに、沙樹の部屋はあまりに静かで、暗い。その静寂と暗闇の中で、沙樹の心は冷たい孤独に飲まれてしまいそうだった。室内にもかかわらず、吐き出す息が白い。いつもならなんでもないそんなことまでが、心に深く突き刺さる。
 あのとき、沙樹には正臣しかいなかった。その彼が離れた今、沙樹には何も、誰も、愛するものも愛する人も存在しない。誰も好きじゃない。何も大切ではない。
 あのころは若かった。若いなりに幸せだった。

20110308
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