「おい臨也、早くしろよ」
 ああうるさい。男ってなんでこうなんだろう。
 臨也は思っただけで口にはせず、アイラインを引く作業を続けた。
「臨也って」
 なおも呼びかけてくる平和島静雄を無視して、反対側の目に取り掛かる。あ、ちょっとはみ出た。
「いーざーやー」
「あーもううるさいな! シズちゃんのせいで失敗したじゃん!」
「失敗? どれ」
 隣に座った静雄が手を伸ばして臨也の顎をつかみ、顔を近づける。
「あ? どこが失敗なんだよ。全然わかんねえ」
「わかられてたまるか! つーか邪魔!」
 臨也は静雄を押しのけて、テーブルの上のポーチから綿棒を取り出した。それで微妙に正しい位置から外れてしまったアイラインを修正する。
「そんながっつり化粧しなくてもいいって。お前元がいいんだから、十分かわいいよ」
「あのさ、べつにシズちゃんのために化粧してるわけじゃないから。ていうかこんなときだけかわいいとか言うのやめてくれる? マジむかつくから」
「はっ、かわいくねえ女だな」
 先程かわいいと言ったばかりなのにもうこれだ。ほんとに男ってどうして……と臨也は再び思ったが、考えるのも時間の無駄な気がして、まだ二工程ほど残っているアイメイクに集中した。
 マスカラを塗り終える頃には静雄もおとなしくなっていた。さすがにせかすのにも飽きたのか、臨也のポーチの中から見つけたビューラーをいじって暇をつぶしている。
「シズちゃんそれ貸して」
「ん」
 素直に差し出されたビューラーを受け取って、まつげをカールする。この間ゴムを換えたばかりなのに、あまりきれいに上がらない。そろそろビューラー自体を買い替えなければならないかもしれない。ビューラーについたマスカラをティッシュでぬぐって、ポーチにしまう。最後に口紅を塗って化粧は終わりだ。
「よし、終わったな。行くぞ」
 静雄が素早くソファから立ち上がる。
「まだだめだよ。髪巻いてないし」
「はあ? もうそのままでいいだろ」
「だからなんでシズちゃんにそんなこと言われなきゃなんないの」
「お前準備にどんだけ時間かける気だよ」
「うるさいなあ。そもそも待ち合わせの時間より勝手に早く来て勝手に待ってるって言ったのはシズちゃんだろ? 最後までおとなしく待っててよ。どっちにしろ映画の時間まではまだかなりあるんだし、俺はシズちゃんと最初に約束した時間に間に合うように動いてるんだから文句言われる筋合いないんだけど」
 一気にまくし立てると静雄はようやく口をつぐんで再びソファに腰を下ろした。ああもうなんだかめんどくさくなってきた。いらいらしたまま洗面所の鏡の前で髪を巻いていく。
 今日の服は黒い膝上のタイトなワンピースだ。外側がレース地になっていて、冬物だが、袖がないので上に同色のカーディガンを羽織っている。服装に合わせて髪を巻いて、ワックスとスプレーで整える。一度部屋に行ってアクセサリーや時計を身につけ、香水もつけて白いハーフコートとバッグを持って仕事部屋に戻る。静雄は換気扇の下で煙草を吸っていた。
「シズちゃんお待たせ。もう出られるよ」
 テーブルの上のポーチをバッグに入れて、財布の中身を確認する。ぎりぎり下ろさなくても大丈夫そうだ。財布もしまい、コートを着る。
「シズちゃん」
 返事がないのでキッチンまで行くと、静雄は煙草をくわえたまま、携帯電話をいじっていた。
「何してんの? もう準備できたから行こうよ」
 横から携帯を覗き込むと、ちょうどメールの送信画面だった。
「誰にメール?」
「あ? なんだよいきなり」
 静雄はあからさまに嫌そうな顔をした。確かに今までメールの相手を尋ねたことなどない。しかし、今きいたのだってべつに深い意味はなかった。
「セルティだよ。仕事が一段落したから、近々遊びに来いってさ」
 直前の嫌そうな表情に反して、静雄はあっさり答えた。それも、ほかの女の名前を。それはそれでおもしろくない。
「何それ。彼女シカトしといてよその女とメール? しかも家デートの約束までしちゃったんだ?」
「はあ? 何言ってんだてめえ。デートってなんだよ。あいつんちなら新羅もいるし、ていうかてめえも一緒に来ればいいじゃねえか」
「やだよ。何が悲しくて自分の彼氏がよその女と仲良くしてるの見に行かなきゃなんないの? ていうか浮気するならばれないようにしてよね」
「おい、なんだよそれ」
 さすがに静雄は怒ったようだった。短くなった煙草を消して、臨也を睨む。
「てめえマジで言ってんのか?」
 マジも何も、最初に話をふったのはシズちゃんじゃないか。そう思いながらも臨也が黙っていると、静雄は小さく舌を打って、臨也の横をすり抜けて玄関に向かった。
「なんなのあれ……」
 正直、こんな気分のまま出かけたくなどなかったが、時間をかけて化粧をしたためそれももったいなく思えてしまい、臨也は仕方なく黒のロングブーツに足を入れた。
 外に出ると静雄はエレベーターを待っていた。臨也は鍵をしめた後でストールを忘れたことに気づいたが、取りに戻っている間に静雄は先に行ってしまうだろう。少し寒いがあきらめて、臨也は静雄の後を追った。


 臨也は静雄の五メートルほど後ろを歩いている。最初はどうにか彼に追いつこうとしていたのだが、目的地は同じなのだから何も急ぐ必要はないと気づき、歩調を緩めた。そもそも、彼とは足の長さからして違うのだ。今ここで全速力で走り出しでもしない限り、彼の隣に並ぶことは不可能だろう。それは高めのヒールを履いている臨也には無理だった。
 静雄は一度たりとも臨也を振り返ることなく、長身のわりに軽い身の運びで人ごみの間を抜けていく。その、周囲の人間から頭ひとつ飛び出た金髪を、臨也は忌々しくにらみつけた。
 シズちゃんのばか!
 できることなら大声でそう叫んで回りたい。そうすれば静雄も多少は己の言動を省みるだろう。いや、もしかすると他人の振りをされた挙句、馬鹿な女だと愛想を尽かされるかもしれない。自分たちは所詮、その程度の関係なのだ。
 だんだんと映画館が近づいてくる。もう映画なんかどうでもよかったが、ここで逃げ出すのはそれはそれで癪だった。この際静雄のことは無視して個人的に楽しもうと、臨也は一人分のチケットを買った。ついでに飲み物も買って劇場に入る。週末ということもあり、座席は混雑していた。指定席のため座れないなどということはないが、上映前のにぎやかな空間で一人、通路側の座席に腰を下ろすととたんにむなしさがこみ上げてきた。
 いったい何をやっているんだろう。
 静雄に文句を言われながらも丁寧に化粧を施し、気合を入れて髪を巻いた、その結果がこれか。おろしたてのワンピースも、お気に入りのブーツも、別に静雄のためではない。仕込んだ美に対する彼からの気のきいたほめ言葉など、はなから期待してはいない。それでも、こんな結果を望んだわけではなかった。こんな気持ちになりたいわけでもなかった。では、自分はいったい彼に、この関係に、何を望んでいたのだろう。臨也はもうそれさえもわからなくなって、コートを脱いだときにかすかに香った自身の香水の甘さにちょっと笑った。


 映画は最低だった。あまりに退屈な内容で、臨也は半分ほどで我慢の限界を迎えて眠ってしまった。退場する人でごった返す劇場内に静雄の姿を探す気にもなれず、臨也は人の流れに乗ってそこを出た。トイレに寄って化粧を直し、髪も少し整えてから外に出る。
 もう日も暮れようという時間帯なのに、人通りは少なくなるどころか日中よりも増えている。楽しそうな他人の表情や声までもが疎ましく、臨也は自然と眉を寄せていた。
 もう完全に静雄とはぐれてしまった。わざと探そうとしなかったのは臨也のほうだが、気分は暗く沈んでいた。やはりこの程度の関係なのか。あんなささいな、くだらないことが原因で壊れてしまうような、そんな関係しか築くことができなかったのか。
 これまで臨也は対人関係において、生じた溝を修復したいなどと思ったことはなかった。一度離れてしまった相手に興味はなかったし、自らつながりを断ってしまうことも珍しくなかった。その結果がこれだ。開いてしまった静雄との距離を縮める方法がわからない。こんな風になって初めて、臨也は自分が静雄との関係にどれほどの居心地のよさを感じていたかに気づかされた。しかし、いまさらそれに気づいたところでもう遅いのだということを、過去の自分に教えてあげたかった。
 夜が近づくのにつれて、気温も下がっていた。ストールを忘れたせいでむき出しの首が寒い。臨也はコートの前を合わせて、歓楽街に足を踏み入れた。通り抜けるためにその道を選んだのだが、すぐにスーツの男がまとわりついてきて、臨也は後悔した。
 とりあえず無視して振り切ろうと歩調を速めるも、一人離れればまた一人としつこく臨也に付きまとってくる。キャバクラなどのスカウトに混じって、中には普通のナンパもいるようだったが、臨也にとってはどちらも同じだった。
「ちょっと、話だけでもきいてってよ」
 何人目かのスカウトマンが、わざわざ道の端を歩いていた臨也に近づいてきて腕をつかんだ。
「しつこい!」
 強制的に足を止めさせられた臨也は、往来で怒鳴っていた。スカウトマンのみならず、道行く人々の注目まで集めていたが、臨也の苛立ちはおさまらなかった。
「邪魔だってのがわかんないの? いい加減にしてよ! うざいの!」
 臨也は感情に任せて声を荒げた。スカウトマンのあっけにとられた表情も、通行人の視線もまったく気にならなかった。蓄積された怒りを目の前の男にぶつけ、つかまれた腕を振り解く。そうしながら、臨也はだんだんみじめになってきた。今日はただでさえ嫌なことばかりなのに、この期に及んでなぜこんな思いをいなければならないのだろう。本当にいい加減にしてくれ。
「おい、何やってんだてめえは」
 ものすごく懐かしく感じられる声が聞こえて振り返ると、息を切らした静雄が立っていた。

20110209
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