臨也の母親が死ぬ少し前のことだった。私生児となっている臨也を認知したいと言った父を、母はかつてないほどの剣幕で責め立てた。
「ふざけないで! 一体どこまで私を馬鹿にすれば気が済むの? 私が何もわからない女だと思ってるの? なんでもあなたの言うことをきく女だと思ってるの? 今までそうしてきたのはあなたに愛されてるのが私だけだっていう確信があったからよ! 私はいつでもあなたのために良き妻であろうと努力してきた! 家事だって育児だってきちんとこなした! 身だしなみにも気をつかった! それなのにどうしてあなたは私を裏切るの! 私だけを愛してくれないの! こんなガキの世話までどうして私にさせようとするのよ! この子があの淫売の股から出てきたのかと思うと吐き気がするわ! 同じ空気を吸うのも嫌なの! それをこの家に住まわせるばかりか認知ですって? 冗談じゃないわ!」
 二階の自室にいても聞こえてくる母の叫びに、正臣は耳が腐りそうだと思った。隣の部屋で、臨也はこの醜い母の声を、どんな気持ちで聞いているのだろう。こんなものを、こんな家族のあり様を、これ以上彼に見せてはいけない。実母を亡くすかもしれない子供の心を、これ以上えぐらせてはいけない。
 正臣はジャケットをつかみ、部屋を出た。ノックもなしに隣の部屋の扉を開ける。臨也は正面の窓際に置かれた机に向かっていた。こちらに背を向けているため、その表情はわからない。
 正臣はそばまで歩いて行って、臨也の肩に手を置いた。シャツごしに薄い肩の震えが伝わってきた。彼は机にノートや参考書を広げ、右手にペンを握っている。たった今まで数式を解いていたと思われるノートの上で、整然と羅列された計算式は不自然に途切れ、折れたシャープペンシルの芯が散っていた。階下から聞こえる怒鳴り声に、臨也はペン先が揺れるほど右手に力を込める。
 正臣は壁にかかっていた上着をハンガーから外すと、臨也を連れて部屋を出た。階段を下り、やかましいリビングの前を素通りし、玄関で靴をはく。
「正臣君?」
 臨也はそこでようやく正臣を呼んだが、その声はリビングの喧騒にかき消された。
「うるせえぞ!」
 正臣は思わず声を荒げると同時に、母親のブーツやらパンプスやらが売り物のように美しく並べられている棚を蹴りつけた。派手な音がして、一瞬、家の中が静まりかえる。いくつかの靴が棚から落ちて床に散らばったが、正臣は臨也に彼の部屋から持ってきた上着を押し付けると外に出た。できるだけ早く家から離れたくて大股で歩き、しばらくから振り返ると、臨也は少し後ろを歩いていた。
「臨也、それ着な」
 正臣が立ち止まると、追いついた臨也は複雑そうな顔で見上げた。
「なんで?」
「風邪ひいたら大変だろ」
 残暑が厳しいとはいえ、夜の風はだいぶ秋の気配を漂わせている。ただでさえ臨也は肉が薄く、半そでのシャツ一枚しか着ていない上半身は寒々しい。
 微笑んで言うと、臨也は上着を握りしめた。
「そうじゃなくて、なんで正臣君が怒るの?」
「とりあえずそれ着ろって。もうちょっと歩こう」
 正臣は臨也が薄手のブルゾンを羽織ったのを確認すると、再び歩き出した。行くあてもないが、とりあえずどこかに腰を落ち着けて話がしたい。正臣は住宅街の中にぽつんとある公園の前で足を止めた。
「中で待ってて」
 人工的な緑に囲まれた公園を指さし、そばの自動販売機でお茶とコーラを買う。冷たい缶を二つ手に、無人の公園に入ると臨也は奥のブランコに腰かけていた。
「どっちがいい?」
 二つの缶を見せると臨也はお茶を選んだ。正臣はそれを手渡して、隣のブランコに腰を下ろした。
 コーラに口をつけながら、お茶の缶を両手で持ったまま沈黙している臨也を眺める。常夜灯に照らされた横顔は美しく、会ったこともない彼の母親の顔が想像できるほどだった。きっと彼のような白い肌とつややかな黒髪をもつ美人だろう。伏せられた彼の長いまつげが滑らかな頬に影を落としている。
「なあ、臨也」
 正臣は彼が見つめている足元の砂利の減った地面に視線を向けて、口を開いた。
「俺と一緒に住まないか?」
 そうきいたときの臨也の泣きそうな顔を今でもよく覚えている。


「そんなことがあったんだ……」
 帝人が静かに言った。
 先ほどまで赤い夕日が差し込んでいた教室には、すでに宵闇が迫っている。
「ま、母さんがどんなに反対しても臨也が俺の弟であることに変わりはないしな。ほんとにすげー反対されたけど」
 正臣は苦笑を浮かべた。あのとき、臨也を連れて家を出ることにした正臣は、とりあえず通帳と相談してアパートを決めた。それから父親に打ち明け、引越しの準備をすすめた。父親は反対しなかったし、臨也の当面の学費は払うと言ってくれた。それは正臣にとっても大変ありがたかった。二人分の生活費程度なら、当時の正臣の収入でも十分にまかなうことができた。母親には、すべての準備と必要な手続き等が終わった時点で話をした。はなから冷静な話合いができるなどとは思っていなかったため、もう引き返せないところまできてから事後承諾を得るほかないと思ったのだ。もっとも、事が済んでからでも承諾など得られはしなかったが。
「今でもそんな感じ?」
「ああ。残念ながらあの人の理解を得るのは無理らしい。つっても、最近はぜんぜん連絡もとってないんだけどな。もうあきらめたよ。人はそう簡単に変わらない。親なんて特にな」
「そうだね。後は僕たちが変わるしかない」
 帝人の言っていることはよくわかる。いまさら変わることのできない母親の分まで、正臣が変わらなければならない。
「今でも母さんのやったことは最低だと思うし、恥ずかしくもあるけど、もうそれについて責める気はないんだ。あのときは仕方がなかったのかもしれない。もちろんそれで正当化できることじゃないけど、母さんだって苦しかった。その気持ちは汲んでやらなきゃならないと思ってる。親父を責める気持ちも理解はできるしな」
「両親を許す?」
 正臣は少し考えた。帝人の目から視線をはずし、机の左端のあたりを見つめる。
「許すか許さないかは俺が決めることじゃない。臨也が大人になって、ふと気づいたとき、自分の人生が幸せだって思えたのなら、あの二人は許されていいのかもしれない」
 もしそうでなかったらと考えると、正臣はとても怖い。その責任は確実に、正臣の両親だけでなく、彼を連れ出した正臣自身にもあるからだ。
「何があいつにとっての幸せなのかはわからない。まあ、それはあいつが決めることだからな。俺はあいつにとって居心地のいい環境を与えてやれればいいし、つらいときは支えてやりたいと思ってる」
「なんかすっかりお兄さんだね。それだけ愛されてるってことは、きっと彼にも伝わってると思うよ」
「ほんとにそうだといいんだけどな。でもあいつぜんぜん俺に頼らないんだよ。たぶんあいつなりに気つかったりしてるんだと思うけど、それもなんか寂しいし、俺としてはもっと甘えられたり頼られたりしたいわけよ。俺が頼りないからか?」
「仕方ないんじゃない? 遠慮してるんだよ、きっと」
「わかっちゃいるけど、なんか寂しいんだよなあ……」
 今回だって、面談のことを報告されていなかったり、やはり本当の家族としてはまだ機能しきれていないのかもしれない。まあそれは最近正臣がばたばたしていたせいで臨也にいらぬ気をつかわせてしまっただけなのだろうけれど、一応彼の兄を自負している身としては悲しいものがある。
「ま、そこら辺は今後の課題か。でも帝人が担任でよかったよ。まだまだ至らないところもたくさんあると思うけど、臨也ともども今後もよろしくな、先生」
「こちらこそよろしく。臨也君のお兄さん」
 正臣は帝人と顔を見合わせて笑った。外はもうすっかり暗い。きっと面談の時間は大幅に超過してしまっているだろう。かつての親友との再会が嬉しくて去りがたかったが、正臣は改めて帝人に礼を言って学校を後にした。
 教室内は暖かかったが、外に出ると風が冷たくて、正臣はあわててコートを着た。マフラーも巻いて家路を急ぐ。今日は仕事は休んだ。面談の後の夕食を、臨也とともにしたかったからだ。
 帝人は臨也のことをたくさんほめてくれた。成績がよく、対人関係も良好な、優秀な生徒だと。出来のいい弟をもって、正臣も鼻が高い。だから帰ったらちゃんと伝えよう。臨也は自慢の弟だ。こんな弟をもてて幸せだと、彼に伝えようと思った。

20110208
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