臨也の学校に来るのは入学式依頼だった。そもそもそれがおかしいのだ。高校だって年に何回かは保護者会や面談がある。しかし正臣はその存在を失念していた。臨也が何も言ってこないからというのは言い訳にならない。仮にも自分は臨也の保護者なのだから、正臣のほうがもっと彼の学校生活を気にかけていなければならなかったのに、これでは保護者失格だ。臨也は年のわりに落ち着いているし大人だし、正臣にとても気をつかっていることがよくわかる。家にいてもほんの短い時間しか顔を合わせない正臣に、面談のことを言うのは難しかっただろう。彼とゆっくり話をする機会もない毎日では、面談に行く時間さえ割けないと思われても仕方ない。正臣はそんな風に思わせてしまう自分が情けなく、恥ずかしかった。 すでに生徒は下校しており、校舎内は静まり返っていた。正臣はコートを脱ぎ、臨也の教室の扉をノックした。返事があったので扉を開けると、教室の前方に若い教師の姿があった。 「帝人!」 正臣が呼ぶと、臨也の担任は破顔して席を立った。 「正臣! 久しぶり。元気だった?」 「ああ。帝人も元気そうだな」 「元気だよもう。ずっと連絡ないから心配してたんだよ」 「ごめん。色々あってさ」 「そうみたいだね」 帝人は苦笑して、正臣に椅子をすすめた。二つの机を向い合せにくっつけてあって、一方に帝人が腰を下ろす。 「びっくりしたよ。まさか正臣が人の親になってるなんて」 「はは、ちげーよ。臨也は息子じゃなくて弟。昨日も言っただろ?」 帝人には先日面談のことで連絡をもらった際、少しだけ事情を話してあった。臨也とは母親が違うこと、今は正臣が保護者として一緒に住んでいること。 「それにしても臨也の担任が帝人だったとはな……世間は狭いな」 「ほんとだよ。このまま正臣が一度も学校に来なかったら卒業まで気付かなかったかもね」 「あーありうるな。反省してる」 臨也の担任教師、竜ヶ峰帝人は正臣の高校の同級生だった。卒業してからもしばらくは連絡を取り合って遊びに行ったり飲みに行ったりしていたのだが、ここ数年は音信が途絶えていた。風の噂で教師になったらしいということは聞いていたが、まさか臨也の担任になっているとは思いもしなかった。先日、帝人からの電話で初めてそれを知った正臣だが、竜ヶ峰帝人なんて名前はそうそうあるものではないから、年度の初めに担任の名前を確認しておけば、それがかつての友人であることに気付くのももっと早かっただろう。 「まあでも、こうして久しぶりに会えたし、案外おもしろいかもね。担任と保護者っていう関係も」 「そうか? 俺は自分の駄目保護者っぷりが露見しそうで結構びびってるぞ」 帝人は笑って、机の上に一枚の紙を広げた。 「じゃあさっそく面談始めようか。これ、臨也君の定期試験の結果なんだけど、見たことある?」 正臣はそれを手に取った。 「いや、あいつ試験の結果とかいちいち見せに来ないから」 「だろうね。まあ、べつに問題はないんだけど。見てもらえればわかるとおり、成績優秀だよ、君の弟は」 確かに、どの科目もちょっと見たことないくらいの高得点だ。 「素行も問題ないし、先生方の評判もいいし、友人も多い」 「絵にかいたような優等生ってやつか?」 正臣は少しあきれた。もちろん、弟を褒められて嬉しくないわけではないのだが、なぜだろう。複雑な気持ちがする。 「うん。だからって硬すぎることもないし、授業中居眠りしてたりね」 「あいつ中学んときもそうだったんだよ。それで先生に反感買ってた」 「まあ、高校は義務教育じゃないからね。先生の認識もだいぶ変わってくるだろうし、臨也君は成績がいいから、その点は心配ないと思うよ」 「そうか? ならいいんだけど」 言いつつも、正臣は心配などまったくしていなかった。むしろそれくらいの緩さがあったほうがいいとさえ思っている。 「じゃあほんとに問題なしって感じか」 正臣は手にしていた成績表を机に置いて、ネクタイを緩めた。外は寒いが、この部屋は少し暖房がききすぎている。 「そうだね。むしろ問題がなさすぎるというか」 帝人が多少含みのある言い方をして苦笑を浮かべるので、正臣はわずかに首をかしげた。 「なんかあんのか?」 「いや、問題がないにこしたことはないよ。むしろ臨也君は優秀だし、先生方も期待してる」 「期待なあ……」 それはつまり偏差値の高い大学に入ってせいぜい学校の名をあげてくれということか。帝人には悪いが、正臣は大人のそういった思惑があまり好きではない。 「ま、臨也のやりたいようにやらせるさ。進学したいってんならそれでいいし、ほかにやりたいことがあるならそっちでも」 帝人が驚いたような顔をする。 「すごい。正臣が父親してる」 「だから父親じゃなくて兄貴だって。あいつを産んだ覚えはねえよ」 「え、正臣が産むの?」 「だから産まねえって!」 帝人は相変わらず大きい目をさらに丸くしている。彼のこういうところは変わらない。天然なのかからかわれているだけなのか、正臣は時々わからなくなる。 「それで、彼を産んだ人はどうしたの?」 帝人との思い出を振り返っていた正臣は、目の前の教師に素早く視線を戻した。黒目がちの瞳はまっすぐにこちらを見つめている。 「死んだよ。癌だったんだ」 もう何年も前のことだが、当時のことを思い出すと、正臣は薄暗い気分になってくる。 「臨也は、親父が外で作ってきた子で、母親の入院が決まったころからうちで一緒に住むことになった。あ、そん時はまだ俺も実家にいて、あいつは母親が亡くなった時点で紀田になるはずだったんだけど、結局母さんが許さなかった」 母は激しく父をなじり、口汚く罵った。今思い返してもすさまじい記憶だ。あの明るくも優しく、品のあった母が亭主の不貞を機に豹変した。たびたびヒステリーを起こし、手当たり次第に物を投げつけては声を上げて泣いた。正臣がなだめると、彼女は子供のように抱きついてきた。 「正臣は私を裏切らないよね」 それが彼女の口癖だった。正臣は父へのどんな感情を抱くよりもまず母を哀れに思った。この人は父がすべてだったのだ。あの人に愛されることこそが母の存在理由だった。 実際に臨也と暮らすようになってからは、彼女の怒りの矛先は彼に向いた。彼の母を売女とそしり、彼自身の自尊心を傷つけるような言葉を吐き続けた。 「正直、見てられなかった。生まれてきた子供に罪はないのに、母さんはもう止まらなかった。このままじゃ駄目になる。臨也も、親父も母さんも俺もおかしくなると思って、あいつを連れて家を出たんだ」 20110129 << |