気持ち悪い。飲みすぎた。臨也は店のトイレで便器を抱えるようにして吐いていた。これがいわゆるトイレとお友達状態か、と危ない頭で考える。危ないのは意識だ。気持ちが悪いのに眠い。今意識を手放したら友達どころかトイレと恋人になりかねない。まあ、それはそれでいいか。ここしばらく一人でさみしいし、もうすぐクリスマスだし、なんて思考まで危なくなり始めたころ、個室の扉をノックする音が聞こえた。
「おい、臨也、大丈夫か」
 門田だ。もう結構長いことトイレに閉じこもっているから、心配して見に来てくれたらしい。
「ドタチンコ……きもちわるい……」
 声がかすれていた。酒で喉が焼けたのか、胃液で荒れたのか、よくわからないしどうでもいい。
「とりあえずここ開けろ」
 少しいらだった門田の声。でもドタチンコには突っ込まれない。臨也はどうにか個室の鍵を開けた。
「ドタチンコ……」
「お前喧嘩売ってんのか? とりあえず水飲め」
 門田に押し付けられたペットボトルの水を喉に流し込む。冷えた水はおいしくて、臨也は自分が喉が渇いていたことに気付いた。速いペースでごくごく飲んでいると門田に止められた。
「馬鹿、一気に飲むな。また吐いちまうだろうが」
「だって喉渇いた」
「だからゆっくり飲めって」
 言われた通りゆっくり水を飲み下す。冷たい水が熱をもった胃に落ちる。それが心地いい。
「ドタチンコ、頭痛い」
 便器に顔を伏せるとまた吐き気を催して、臨也は少量の胃液を吐いた。
「次にその呼び方したらお前ここに放置すんぞ」
 そう言いながらも門田は背中をさすってくれる。彼は優しい。面倒見がいい。誰に対しても割とそうだ。だから彼はいい。楽だと思う。
「お前一人で帰れるか?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困るんだよ。この時期、外でぶっ倒れたら死ぬぞ」
 死にはしないだろうが、風邪くらいは引くかもしれない。
「ドタチンはどうすんの? ていうかほかの奴らは?」
 今日はサークルの飲み会で来ている。といっても、ほとんどいつもの仲間内の飲み会と顔ぶれは変わらない。人数も十人に満たない。
「終電ある奴もいるからいったん解散にした。静雄はまだ飲み足りないって二件目、岸谷も付き合うらしい」
「新羅が? 珍しいね」
 彼はいつも彼女が待っているとかで、絶対に日付が変わらないうちに帰る。
「恋人が仕事で家にいないんだと」
「なるほどね」
 少し落ち着いてきたので、臨也はもう一度水を飲んだ。
「で、ドタチンは?」
「俺はお前次第だ。帰るにしても終電間に合わないだろ。こん中じゃ俺んちが一番近いし、泊まるなら送ってくけど」
「近いって言っても歩きじゃ無理だろ? タクシー呼ぶのもなあ……ていうかドタチンは行かなくていいの? 二件目」
「お前を送ってからでも合流できる」
「それは申し訳ないよ。俺のことはいいから行きなよ。みんなによろしく」
「おい、そんなわけには」
 臨也は携帯電話を取り出した。履歴から今日の飲み会には参加していない後輩の番号を呼び出す。
「この近くに住んでて今ちょうどバイトが終わったくらいの子に来てもらうからさ。そっちに泊めてもらうよ」
 携帯を耳に当てて相手が出るのを待つ。門田は今の説明で誰だかわかったようだった。
「紀田か……」
 今日はアルバイトで飲み会に来られなかった後輩の名を口にして、門田はなぜか難しい顔をする。もしかして、彼は気付いているのだろうか。紀田正臣の臨也への気持ちに。
「あ、もしもし紀田君? お疲れ。バイト終わった?」
「お疲れ様です。今ちょうど連絡しようと思ってたんすよ。まだ飲んでます?」
 正臣はアルバイトが終わり次第、誰かしら残っていれば合流して飲みに行くという予定だった。
「いやそれがさあ、俺がすっかり酔い潰れちゃって、とてもじゃないけどもう飲めそうにないんだよね。ていうか気持ち悪くてさっきまで吐いてたんだけど」
「え、大丈夫なんすか? そばに誰かいます?」
 心配するような正臣の声を聞いて、臨也は苦笑した。
「ドタチンが様子見に来てくれた。でも二件目行くみたいだからさ」
 名前を出すと、門田は眉をひそめた。色々と言いたいことがありそうだ。しかし口は挟まない。
「臨也さんもう電車ないっすよね。具合悪いならうち泊まってきます? こっから近いし、俺もすぐそっち行くんで」
「いいの? すごく助かるよ。店の場所はわかる?」
「わかります。もう向かってるんで、五分くらい待ってて下さい」
 正臣は走っているようだった。酔いつぶれた先輩を迎えに走る彼を思うと、臨也も少し罪悪感を覚えた。
「ごめん。ありがとね」
 電話を切る。門田はやっぱり何か言いたげな顔をしていた。
「言いたいことがあるなら言えば?」
 臨也は立ち上がろうとしてよろけた。すかさず門田に支えられる。
「ありがと。もう大丈夫」
 個室を出て、鏡の前で手を洗い、顔も洗った。
「お前、全部わかっててやってんのか?」
「何が?」
 手と顔を拭きながら、鏡越しに門田を見る。
「紀田のことだよ。知ってんだろ?」
「まさかドタチンにそれを言われるとは思ってなかったよ」
「そこまで鈍くはないつもりだけどな」
「ていうか、干渉しないと思ってたよ。そういうことには」
 まさか正臣が個人的に門田を頼って相談を持ちかけたりしたことがあるのだろうか。いや、それはない。正臣はそういう男ではない。
「俺だって口出ししたくねえよ。でも、紀田があんまり」
「かわいそう、とか言ったら怒るよ」
「誰が」
「紀田君が」
「言わねえよ。さすがにそこまで無神経でも失礼でもねえ」
 門田は溜息をついた。
「でも思ってるんだろ? かわいいそうって」
 今度は否定されない。臨也は笑みを浮かべた。
「同じことじゃないか。彼は君に哀れまれてる」
「臨也」
 門田は特にいらだったふうでもなく呼んだ。臨也は彼のこういうところが好きだし、時に疎ましくもあった。
「あんまり、期待を持たせるようなことするなよ」
 真面目な顔で、彼は言う。
「期待するかどうかは相手次第だと思うけど?」
「するんだよ、あいつは」
「へえ、そんなにわかりやすい? それともドタチンが鋭いのかな?」
「どっちだっていいだろ、そんなこと」
 臨也にとってはよくなかったが、それ以上触れずにおいた。
「まあ、俺は期待を持たせるような言動をとった覚えは一度もないけどね」
「……嘘つけ」
「うん。そもそも俺の言動すべては彼にとって期待を持たせるものかそうでないものに分類されてしまう。そして俺は彼と同じサークルで、彼の先輩で、俺たちは親しい仲にあると言える。そんな俺が彼が期待をしてしまうような言動、つまり親しげな振る舞い以外をすることのほうがはるかに難しいし不自然だし、それってちょっとひどくない?」
「その気もないのに呼び出したし泊まりに行ったりべたべたしたりすんのはひどくないのか?」
 確かに臨也はスキンシップは激しいほうだ。門田はそんなところまで見ていたのか。
「やっぱりそれをどう受け取るかは彼次第だよ」
「臨也……」
「今日はずいぶん突っかかるね。ドタチンは優しいけどお人よしじゃないだろ?」
「頼むからもめごとを起こしてこれ以上人数を減らさないでくれ」
「あは、それが本音?」
 そんなはずはない。門田は本当に正臣を心配していたのだ。臨也が引かないのであきらめたにすぎない。
「そろそろ出ようか。紀田君も来るし」
 門田はもう何も言わなかった。
 静雄や新羅はすでに次の店に移動したのだろうか。外に彼らの姿はなかった。
「臨也さん!」
 かわりに、信号の点滅する横断歩道を正臣が走ってきた。
「大丈夫ですか? 具合は?」
 息を切らした正臣が顔を覗き込んでくる。臨也は笑って見せた。
「吐いたらだいぶ楽になったよ。走らせちゃってごめんね」
「いえ、そんなことは……」
 正臣はそこで門田のほうに向き直った。
「門田さんも、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。バイトだったんだろ? しんどくないか?」
 それはこれから臨也を家に泊めるのが、という意味だろう。
「ぜんぜん平気っすよ。明日休みだし、どっちにしろ臨也さん一人放り出しておけないじゃないっすか。こんな時期に外で寝たりしたら死にますよ」
 門田と同じことを言う。
「なんか悪いな。押し付けるみたいで」
「ちょっと、人を厄介ものみたいに言わないでくれる」
「まさしくそうだろうが」
「まあまあ、マジで俺は大丈夫っすから、門田さんは心おきなく朝まで飲んできて下さい」
「そうだそうだ。ドタチンなんか早く行って酔っぱらってドタチンコ披露しちゃえ」
「臨也……」
 怒りのこもった門田の声にも気付かないふりをして、臨也は歩き始めた。
「あっ、ちょ、臨也さん! 待って下さいよ!」
 正臣はあわてた様子で門田に挨拶を済ませると、走って臨也に追いついた。
「あー寒い! マジ信じらんないこの寒さ! 紀田君走ってきたんだったら体あったまってるよね。ちょっと手貸して!」
 隣を歩く正臣の手を、臨也は突然握った。そのまま指を絡ませると、彼はびくりと体を揺らした。臨也の手の冷たさに驚いたのでないことは、彼の顔を見れば明らかだった。
「うん。あったかいね」
 正臣は、小づくりの顔を真っ赤に染めている。
 この光景を見たら、門田はなんと言うだろうか。しかし、見ても見なくても彼が口にする言葉に大きな違いはないと気付いた。一般的に、こういうのを弄ぶと言うのだろう。臨也に自覚がないわけではない。それでも、こちらの言動一つで大きく揺れる正臣には興味があったし、その彼の変化に自分がどの程度影響されるのかも知りたかった。
 これは実験だ。正臣の好意によって、臨也の心が動かされるか。予測では否となっている。しかしそれは正臣のせいというよりは臨也の問題だ。正臣に限らず、ほかの誰から向けられたものであっても、臨也はそれにこたえられない。その感情は重すぎるのだ。

20101124
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