その日の夜、正臣はまたあの夢を見た。黒い死神のような格好をした男に追いかけられる夢だ。初めての日が昼間だったのに対し、今度は夜だった。家の中は静まり返っている。正臣のほかに家人の姿はない。それはあのときと同じだった。
 正臣は二階から階段を駆け下りて、またしても奥の間に逃げ込んだ。網戸の向こうに広がる闇の中で、虫が鳴いている。
 振り返ると目の前に男が立っていた。目深にかぶったフードのせいで、やはり顔はわからない。背が高い。部屋が暗いせいか、フードに隠されていない部分の肌がやけに白く見える。
 男はあの大きな鎌を振り下ろした。正臣は逃げられない。鋭い鎌の先端が胸に突き刺さる。夢なので痛みはない。しかしそこですぐに目覚めはしなかった。突き立てられた鎌の刃はゆっくりと動かされ、正臣は自らの体が引き裂かれる感覚を味わった。
 覚醒は突然やってきた。あの後自分がどうなったのかはわからない。目覚めると正臣は奥の間にしいた布団の中にいた。
 隣接した仏間から柱時計の針の音が聞こえてくる。続けて二回、鐘が鳴った。午前二時。
 天井から視線を下げると、足元に置かれたクローゼットの扉が少しだけ開いていた。観音開きの扉の隙間から闇がのぞき、青白い手が内側から扉をつかんでいた。音もたてず、ゆっくりと扉が開く。中から鎌をもった男が現れる。
 正臣は叫ぶことも逃げることもできなかった。声は出ず、体は動かない。ただ、心臓だけが激しく鼓動していた。
 男は静かに正臣を見下ろしている。今まではっきりとは見えなかった男の顔が、そのとき初めて明らかになった。黒いフードの内側にあったのは、正臣の父親の顔だった。
 驚きと恐怖で目を見開いた正臣の顔面に、再び鎌が振り下ろされた。


 正臣は目を開けた。両目からあふれた涙が耳がらにたまって冷たくなっていた。
 そこは和室ではなかった。かつて叔父が使っていた、増設された二回の寝室だった。窓辺に寄せられたベッドの上に正臣は寝ている。網戸にした窓から外の明かりが入り込み、虫の声が聞こえていた。
 数日前、この家に来てからずっと、正臣はこの部屋で寝ている。それは確かだ。しかし、先ほど一度目を覚ましたと思ったときは、一階の奥の間にいた。ひどい夢だ。あれが夢であることにさえ気づかないなんて。
 途中で鳴った柱時計も、今は壊れていて鐘が鳴らなくなっていた。まだ夢の中にいることを知る手掛かりはいたるところにあったのに、正臣は微塵もそれを疑わなかった。
 携帯電話を開いて時刻を確認すると午前三時を過ぎたところだった。しばらくベッドの中にいたが、どうにも寝つけず、正臣はおもむろに体を起こした。パーカーを羽織って部屋を出、階段を下りる。キッチンを通り、居間を抜け、玄関でサンダルをはいて外に出た。
 無数の星が輝く空の下、澄んだ空気を吸い込みながら、正臣は家の敷地を出た。道路を挟んだ向こう側に集会所の建物があり、その隣がちょっとした広場になっている。誰かが作ったらしいベンチに腰を下ろすと、昔正臣がよく遊んだ川が見下ろせる。その向こうには田んぼが広がり、国道を挟んださらに向こうには山が連なっている。
 静かだった。国道を通る車もなく、人通りもない。寝静まった集落に、虫の声だけが響いている。
 正臣はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。何かが指先に触れ、取り出してみると半分ほど中身の残った煙草のパッケージだった。いつのものかわからないそれを一本抜いてくわえる。少し迷ったが火をつけることにした。湿気てしまったのか少しだけ変な味がする。しばらくの間ぼんやりそれを吸っていると、不意に人の気配がした。正確には足音だ。薄っぺらいサンダルか何かの底が地面をこする音が、だんだんとこちらに近づいてくる。
「正臣君?」
 いきなり名前を呼ばれ、正臣は驚いて振り返った。集会所の前の道路に、黒い甚平を着た男が立っていた。
「折原さん?」
 先日会った、あの立派な家の住人は、端整な顔に笑みを浮かべて正臣のそばへやってきた。
「やあ。こんな時間にどうしたの?」
 座っても? と続けられ、正臣は体を横にずらした。失礼、と断って、折原が隣に腰掛ける。
「ちょっと眠れなくて。折原さんこそどうしたんですか?」
「俺も似たようなもんだよ。それより、折原さんてのやめてくれない? 臨也でいいよ」
「いざやさん……」
 珍しい名前だ、と思っていると、彼はどういう字を書くのか教えてくれた。
「じゃあ臨也さんって呼びます」
「そうして。その後、体調はどう?」
「おかげさまでなんとも。あんときはお世話になりました」
「なんともないわりに、夜寝付けなかったりしてるんだね」
 正臣は一瞬呆然とした。何を言い出すんだこの男は。
「指、やけどするよ」
 そう指摘されて見た指の間で、煙草がフィルターぎりぎりまで燃えていた。正臣はあわてて近くに置きっぱなしにされていた空き缶にそれを捨てた。
「煙草とか吸うんだね」
 臨也はなぜか感心したように言った。
「たまにっていうか、普段は吸いませんよ」
「もしかしてシズちゃんの影響?」
「は?」
 なぜそこで静雄の名前が出てくるんだ。彼らが知り合いなのは知っているが、臨也は正臣と静雄の関係を知っているのだろうか。静雄が話したとは考えにくい。彼は臨也のことを毛嫌いしていると本人が言っていた。回覧板を持って行ったあの日、臨也は正臣と静雄が親しい関係であると見抜いたのだろうか。いや。見抜くも何も、ある程度親しい関係でなければ、回覧板を持っていくよう頼まれたりしないだろうから、想像はたやすかったのかもしれない。
「別に静雄さんは関係ありませんよ」
 正臣は静雄の名誉のために言った。彼は未成年に喫煙をすすめるような人間ではない。
「へえ」
 臨也は今度、あまり興味もなさそうに言った。
 正臣はなぜか話題をそらさねばと思った。
「あ、あの、臨也さんと静雄さんは同じ大学なんすよね?」
「そうだけど、シズちゃんからきいた?」
「ちょろっとですけど」
「あいつも俺のこと人に話したりするんだ。へえーなんか意外」
 臨也は口の端を持ち上げて笑った。
「でも俺、シズちゃんには嫌われてるんだよねえ」
「その、きいてもいいですか? なんで」
「なんでシズちゃんに嫌われてるか?」
 正臣の言葉を受けて、臨也は言った。
「たぶん初めて会ったとき、言っちゃたからだろうね」
「何を?」
「あ、君、女の人につかれてるねって」
 あたりの気温が明らかに下がったような気がした。パーカーを着ているにもかかわらず、肌寒く感じる腕を、正臣は両手でさすった。
「それって……」
 いまだ信じられずにいる正臣に、臨也はこともなげに言った。
「ま、見えちゃうもんは仕方ないよね。ていうか俺は親切で教えてあげたのに、シズちゃんてば気味悪がっちゃって失礼しちゃうよね。マジ心外」
 誰だって初対面の人間にいきなりそんなことを言われたらいい気はしないだろう。正臣は静雄に同情したくなった。

20101025
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