次の日の午前中、静雄が海に連れて行ってくれることになった。といっても海水浴場ではない。あくまで海に行くことが目的であって、海で遊ぶわけではないのだ。 Tシャツにハーフパンツ、足元はビーチサンダルという軽装で、正臣は外に出た。突き刺さるような日差しに辟易しつつ、庭を抜けて家の前にとめられた車に近づく。 「静雄さんがマーチって」 かわいらしい形の車の運転席に静雄の姿を見とめ、正臣は思わず笑ってしまいながら助手席に乗り込んだ。 「俺の趣味じゃねえよ。さっさとシートベルト締めろ」 丸みを帯びた車はゆっくりと発進した。 「音楽かけていいっすか?」 正臣はバッグをあさり、ipodを引っ張り出してケーブルに接続した。ランダム再生をオンにし、音量を調節する。 「昨日はありがとな。回覧板」 静雄は強い日差しにまぶしそうにサングラスをかけた。 「あんなのお安いご用っすよ。にしても立派な家っすね。折原さんち」 「そうだな」 静雄はどうでもよさそうに言った。そうか、彼はあの男のことを嫌っていたのだと正臣は思い出した。 「それよりどっか行きたいとこねえのか?」 静雄のひざの上に置かれていた雑誌を受け取り、正臣は開かれていたページを眺めた。 「あっ、冷麺食いたい」 目に付いた写真があまりに食欲をそそるものだったので口走ると、静雄はあきれたように笑った。 「もう食いもんの話かよ」 「え、だってこれやばいうまそうっすよ?」 「ああ、マジでうまいだろうな」 静雄は道路を直進しながら片手でカーナビをいじる。 「じゃあとりあえずそれ食いに行くか。海はその後だな」 「やった! 俺もしかして冷麺とか初めて食うかも」 「お前その日本語おかしくねえか?」 静雄の冷静な突っ込みを聞きながら、正臣はきつい日差しに瞳を細めた。きれいに整備された道の両側には田畑が広がり、その中に民家が点在する。視界が開けているため、遠くに山の稜線も見えた。 「しばらくかかるから、寝ててもいいぞ」 広い道路を滑らかに車を走らせながら、静雄が言った。 「寝ませんよ。もったいない。久しぶりに会ったんだし、しゃべりましょうよ」 笑顔で言うと、静雄も口元を緩めた。 「変な奴だな、お前」 「えーどういう意味っすか」 彼の言いたいことはなんとなくわかった。 雑誌に載っていた店で冷麺を食べて、再び車を走らせ、当初の目的であった海についたのは午後二時を回ってからだった。 「海だー!」 海岸沿いに停止した車から降りて、正臣はとりあえず叫んだ。本当に、海水浴場ではない。一応砂浜まで下りられるが、自分たちのほかに人影はなかった。 すぐ近くに風力発電用の風車が設置されており、巨大なブレードが海風を受けてゆっくりと回転していた。五十メートルはありそうなタワーを見上げていると、いつの間にか静雄が横に立っていた。 「でかいっすね。ちょっと感動しました」 静雄は煙草に火をつけて、正臣と同じように風車を見上げた。正臣の言葉に同意するでもなく、かといって自らの感想を口にすることもなく、静雄は正臣の頭をぐしゃぐしゃとなでて砂浜に向かった。 「あっ、待ってくださいよ!」 正臣は静雄を追って砂浜に下りた。面した日本海はお世辞にもきれいとは言えない。くすんだ色の砂と、にごった波。それでもよく晴れた空はきれいだった。水平線がよく見える。正臣は静雄を振り返った。彼は砂浜へ下りるための階段に腰を下ろしていた。 「俺、海なんか久しぶりに見ましたよ」 波打ち際から離れて、静雄の隣に腰掛ける。 「俺もだ」 静雄は同意して、煙草を携帯灰皿にねじ込んだ。 「お前が元気そうでよかった」 正臣は隣に顔を向けた。静雄は微笑んでいる。 「ガキのころはいつも寂しそうだったからな、お前」 「そうっすか? よく覚えてないけど……」 「ま、今が楽しけりゃいいんじゃねえの? 昔のことは」 静雄は新しい煙草に火をつけた。彼はいつから煙草を吸っていただろう。まだ彼が制服を着ていたころから、時々同じにおいがしていた気がする。しかし、あのころ彼は決して正臣の前ではそれを吸わなかった。子供の正臣の前では。 「確かにあのころは寂しかったのかもしれないですね。こっちにきても一人だし、両親も離婚して、まあ、実際に別れたのはずいぶん前なんすけど、だんだん父親がいないことが普通の家庭と違うってわかりはじめてたころだったんで、やっぱりね、うまく言えないけど」 ごまかすように正臣は笑ったが、静雄は表情を動かさなかった。サングラス越しの瞳を海に向けて、煙を吐き出す。 「親父さんとは連絡とってないのか?」 やがて静かに放たれた言葉に、正臣は胸を締め付けられる思いだった。しかし、それさえもまやかしてしまおうと笑みを浮かべた。 「ぜんぜん。もう顔もよく覚えてないし、別に会いたいわけじゃないんすよ」 父親について、あまりいい思い出はない。あの男がいたころ、家の雰囲気は明らかに悪かった。 「母さんがよく泣いてました。父親の記憶はあやふやだけど、それだけははっきり覚えてます。俺も悲しかった。でも俺は何もできなくて、いつも母さんに守られてるだけだった」 幾度か手を上げられたこともある。そんなとき、身を挺して正臣をかばったのは母だった。 「今考えるときついっすね。何もできなかった自分も、母さんがどんなにつらかったかも、思い出すと苦しくなる」 「悪い。嫌なこと思い出させちまったな」 静雄は申し訳なさそうな顔をした。 「謝んないでください。確かにきついけど、静雄さんも言ってたように、過去のことなんすよ。俺は今楽しいし、もう寂しくもない。こうして静雄さんにもまた会えたし」 それに、いくら過去のこととはいえ、なかったことにはできない。きちんと自分の気持ちを整理しなければならないと思っている。 「今度、母さんが再婚するんです」 まだ確定しているわけではないが、母が彼と一緒になりたがっていることは自明だった。そして正臣も、最初から反対するつもりはない。 「でも母さんは、俺の意思を尊重したいから、よく考えてくれって言うんすよ。俺だってもう小さい子供じゃないし、好きにしてくれていいんすけどね。やっぱり前の父親のことが引っかかってるみたいで……傷になってるのは俺じゃなくて母さんのほうだろうに。おかげで柄にもなく悩んじゃいましたよ」 「それで、答えは出たのか?」 正臣は苦笑した。 「俺は母さんに幸せになってほしいんです。相手の人もいい人だった。俺の中での結論は変わりません。ただ、それだけじゃきっと母さんは納得しない。あの人は自分の幸せより俺の幸せを第一に考えてくれるから、俺もちゃんと考えなくちゃなあって。今までなるべく考えないように、思い出さないようにしてきた過去も、ちゃんと向き合って乗り越えなきゃなって思ったんです。いざ新しい父親ができて、やっぱ無理ってんじゃしゃれになんないっすからね」 「確かに母親のこととしてじゃなく、自分の問題として受け止めるのは正しいと思うが……あんまり考えすぎんなよ」 「そこら辺は大丈夫っすよ。俺、基本的にポジティブなんで」 努めて明るく言ったつもりだったが、静雄の声には依然として気遣わしげな色が残っていた。 「だといいんだがな」 正面に広がる海を見つめる彼の瞳はサングラスに隠されていて表情が読めない。それでも彼が何かを案じているのはなんとなくわかった。しかし、それがなんなのかは正臣にはわからない。深く考えるのはやめにした。 「ありがとうございます。話きいてくれて」 気持ちはだいぶ楽になった。礼を言うと、静雄はようやく表情を和らげた。 「これくらいしかできなくて悪いな」 「いや、静雄さんがいてくれてよかったです。誰にでも話せることじゃないし、なんか心強いですよ」 「そりゃよかった」 静雄は煙草を携帯灰皿に入れると立ち上がった。 「そろそろ行くか。せっかくきたんだし、観光しねえとな」 腕時計に目を落として、静雄は大きく伸びをした。数年前から変わらない彼の金髪が、太陽の光を浴びて輝いている。サングラスの下の瞳が澄んでいることも、よく見ると整った顔立ちをしていることも、正臣は知っている。彼はかっこよかった。 「俺、静雄さんみたいなお兄ちゃんがほしかったな」 正臣は立ち上がり、パンツについた砂を払いながらなんとなく言った。深い意味はなかったのだが、一瞬、静雄の表情が凍りついたような気がした。 20100926 << |