周囲をぐるりと塀に囲まれた、立派な家だった。このあたりは敷地の広い家が多いが、その中でも折原の家は門構えからしっかりしていて、正臣は一瞬入るのをためらった。しかし、呼び鈴の類は見つからない。用があるなら玄関まで来いということなのだろう。正臣は意を決して門扉を開けた。
 家の前には手入れの行き届いた庭が広がっていた。近所にこんな家があったなんて。いや、幼いころも幾度がこの家のそばを通り、子供ながらに立派な家があると思っていた気がする。
 飛び石を伝って玄関までたどり着き、正臣は呼び鈴を押した。インターホンのように、中で応対ができるものではなく、ただ鳴らして来訪を知らせるだけの古めかしいものだった。こちらのほうが家の外観には合っているが、だいぶ古く見えるそれは正常に作動しているのかどうか怪しい感じがした。このタイプの呼び鈴は外からでは音が聞こえないため、鳴っているのかがわからない。正臣は緊張したまま数十秒待ったが、人が出てくる気配はなかった。やはり故障しているのだろうか。
 正臣は片手に持った回覧板を見つめた。このあたりでは人の家を訪ねてもわざわざ呼び鈴を鳴らすという習慣がない。たいていそのまま玄関を開けて家の中に声をかけるのだ。留守中であっても、鍵はかかっていないことのほうが多い。しかし、地元の人間でもない正臣が、顔見知りの家ならともかく、初めて訪ねる、それもこんな立派な家の玄関を無断で開けるのははばかられた。念のため再度呼び鈴を押してみたが結果は同じだった。玄関の向こうからは何の物音も聞こえず、庭の木にとまった蝉の声だけがやかましくあたりに満ちていた。
 仕方ない。開けるか。
 正臣は引き戸に手をかけた。
「ごめんくださーい」
 戸を開けると同時に家の中に向かって呼びかける。
 よく風が通るのか、薄暗い廊下からひんやりとした空気が流れてきた。
 相変わらず人の気配はない。誰もいないのだろうか。もうこの廊下に回覧板を置いて帰ろうか。それともやはり直接渡さなければまずいだろうか。逡巡しつつも正臣はたたきに足を踏み入れた。そのとき、廊下の途中にある部屋から何かが這い出してきた。
 正臣はびくりと体を揺らした。
 暗い色の廊下に白いものがはりついている、と思ったらそれは人の手だった。両手で体を支えて、その人はゆっくりと起き上がった。だるそうに立ち上がり、おぼつかない足取りでこちらにやって来る。黒い甚平を着た、やせた男だった。
「人がせっかく気持ちよく寝てたのに、何の用?」
 男の白い目元にはくまができている。しかしそれを差し引いても、男の顔はひどく端整だった。
「あの、回覧板です」
 正臣は濃緑のファイルを男に差し出した。
「ああ、なに、シズちゃんに押し付けられたの? あいつ俺のこと毛嫌いしてるからね」
 男は回覧板を受け取ると、ファイルを開いて内容を確認し始めた。
「あの、あなたが折原さんなんですか?」
 尋ねても、男は回覧板から顔を上げようとしない。
「そうだけど、君は? シズちゃんの親戚か何か?」
 男は回覧板に目を落としたまま、さして興味もなさそうに尋ねた。そこで正臣は、まだ自分が名乗っていないことに気づいた。
「紀田正臣です」
 名前を言ったところで、ずっと東京で暮らしていたというこの男に自分がどこの誰であるかなどわかるだろうかと正臣は思ったが、男は用箋挟にとめられた文書の内容を追っていた瞳を、今度はしっかりと正臣に向けた。
「紀田さんちのお孫さん?」
 先ほどまでの不機嫌そうな雰囲気から一変、男は感じのよい微笑みを浮かべた。
「知ってるんですか?」
「うん、まあ、俺はこっちに住んでたわけじゃないんだけど、小さいころ遊びにきたときによくしてもらったのを覚えてるよ。両親が亡くなったときもずいぶん気遣っていただいてね。この間久しぶりにこっちにきたからご挨拶に寄ったんだけど、そのとき君はまだ来てなかったのかな」
 柔らかい表情でよどみなく話す男は、どこか浮世離れして見えた。暗い廊下に溶け込む黒い甚平から伸びる手足は夏を感じさせない白さだ。触れたら冷たいのかもしれない。
「正臣くん?」
 声をかけられて、正臣は自分がぼんやりしていることに気づいた。なぜだかわからないが心臓が激しく鼓動している。不思議な高揚感があった。同時に寒気のようなものも覚える。
「大丈夫? なんか顔色悪いけど、気分でも悪い? 日射病かな」
 いたわるような男の声がやけに遠い。耳鳴りと頭痛がする。視界が揺らぐ。
 膝から力が抜けた。胸がどきどきしている。でも意識は朦朧とする。
 男に名前を呼ばれる。伸ばされた手はやはり冷たかった。
 頭が痛い。気分が悪い。
 重くてたまらないまぶたを下ろすと、冷たく深い闇が広がった。


 夢を見た。悪夢だった。現実でないことはわかっていた。
 白昼、正臣は誰もいない家にいる。東京の住まいではない。田舎の、母の実家、祖父母の家だった。
 傾きかけた太陽の光の差し込む部屋の中を、正臣は逃げている。誰から、何から。よくわからない。ただ、焦燥と恐怖に追い立てられ、正臣は熱を吸った畳の上を走る。そこにはいたるところに血の跡がある。むせかえるような生臭さが正臣の恐怖をあおる。
 居間、仏間を通り、とうとう奥の間まで来てしまった。外に逃げるということは、なぜか考えなかった。
 振り返ると黒尽くめの男が立っていた。足首まであるローブのような服をまとい、頭にはフードをかぶっている。そのため、男の顔はよくわからない。
 しかしそのとき、正臣にとってその男が誰であるかはあまり重要ではなかった。正臣の目は男の手にした大振りの鎌に釘付けになった。まるで死神だ。
 窓から差し込む西日を反射して、カーブを描く刃が光を放つ。男はそれを手にしたまま、すべるように畳を移動する。正臣に近づく。
 壁際まで追い詰められ、正臣はもう逃げられなくなった。とたんに血のにおいが強くなる。男の持つ鎌がどろりとした何かで濡れている。ぬめりを帯びていそうなそれは、人の血と脂の混ざったものだ。正臣は瞬時に理解し、嘔吐しそうになった。そこで目が覚めた。
 妙に息苦しい。動悸がする。全身に汗をかいている。
 正臣は呼吸を落ち着けながら、いまだ痛む頭でここがどこなのか考えた。十畳ほどの広さの部屋には漆塗りの座敷机が据えられ、飾り棚が壁に寄せられている。畳の上には新聞一つ、テレビのリモコン一つ落ちていない。すぎるほどに片付けられた部屋は生活感がなかった。
 鈍痛のおさまらない頭を押さえて身を起こすと、足音もなく男が現れた。また夢の続きかと正臣は再び恐怖に襲われかけたが、部屋に入ってきたのはローブをまとった死神ではなく、黒い甚平を着た折原という男だった。
「気分は?」
 男は正臣のそばに膝をつき、持っていたペットボトルを傍らに置いた。
「少しだるいです」
 答えると、男の手のひらが額に押し当てられた。ひんやりとして気持ちがいい。
「ちょっと熱っぽいね」
 そう言った男の声も心地よくて、正臣は再びまぶたを下ろしかけた。
「眠い? 汗かいただろうからこれ飲んで」
 スポーツドリンクの入ったペットボトルを渡されたが、思うように手に力が入らなくてキャップが回らなかった。察した男の手がかわりにキャップをはずした。再び渡されたペットボトルに口をつけ、冷たいスポーツドリンクをのどに流し込む。中身を三分の一ほど減らしてから、それを返した。
「俺、どうしたんですか?」
「ぜんぜん覚えてない?」
 正臣はあいまいに頷いた。
「玄関で話してたのは覚えてます。急に気が遠くなって、頭が痛くて……」
「そのまま倒れたんだよ。十分くらいだけどね、気を失ってたのは」
「十分?」
 夢はもっと長かったように思えた。数時間は経過していると思ったのに、たったの十分しかたっていなかったのか。
「もしかして疲れてる? 日差しがきつくて消耗したのかな」
「昨日夜行であんまり眠れなかったからかも」
「吐き気は? まだ顔色悪いけど」
 正臣はのどに手をやった。夢の中で吐きそうになった。まだ胸のあたりがむかむかしている。
「トイレ行く?」
 折原に背中をさすられる。すると、不思議と吐き気がおさまってきた。
「大丈夫です……ちょっと、嫌な夢見て……」
「ああ、気をつけたほうがいいよ。このあたりは多いから」
 彼が何を言っているのか、正臣はわからなかった。
「何がですか?」
「君は信じるかな、霊とかそういうの」
「え……」
 にわかには信じられなかった。霊の存在ではなく、目の前の男の発言が。
「まあ、信じる信じないはあんまり問題じゃないんだけどね。ただ、よくない夢っていうのは見せられてる可能性があるから、自衛しなくちゃならない」
「ちょ、ちょっと待ってください。たかが夢でしょ?」
「確かに現実ではない。でも、毎夜悪夢にうなされたら、きっと夜が怖くてたまらなくなるよ」
 正臣は男の白い顔を見つめた。整いすぎていて怖いほどだ。
「けど大丈夫。君が迷ったり恐れたりしなければ、必ず夢は覚める」
 つまり、覚めない夢もあるということか。果てしない悪夢の中をさまようところを想像して、正臣は身を震わせた。


 丁重に礼を言って、迷惑をかけたことを謝罪して、正臣は折原の家を後にした。
 紀田の家に戻る間、折原と相対したときの不思議な感覚について考えた。妙に現実感が薄く、今まで会ったことのある誰に対しても感じなかった何かが、正臣の胸をざわつかせた。それは恐怖にも似ていて、おのずと先ほど見た悪夢に結びついた。
 あれはなんだったのだろう。強く西日の照りつける道路を歩きながら、正臣は男の言葉を反芻する。彼は、悪い夢は見せられている可能性があると言っていた。まさかあれもそうだと言うのか。あんな悪夢は久しく見たことがなかった。それに小さい子供ではないのだし、怖い夢を見たからといって、それを引きずったりはしない。たいていは、目覚めていくらもしないうちに忘れてしまうものだ。しかし、先ほどの夢はいまだ正臣の頭にとどまり続けていた。何かが、今までの夢とは違う気がした。それは、折原の言葉と関係があるのだろうか。
 ふと、正臣の横を何かがすり抜けていった。子供のころ、正臣が夢中になって追いかけたオニヤンマだった。懐かしい。巨大なトンボは相変わらず滑らかに道路の上を飛んでいき、やがて紀田の家の隣の墓地へと消えた。

20100922
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