「静雄さん」
 彼は家の前の広い敷地にたたずんで煙草を吸っていた。こちらには気づいていないようだったので声をかけるとわずかに目を細め、ゆっくりと近づいてきた。
「お久しぶりです」
 あの時とは違う高さで目が合う。相変わらず静雄の目線のほうがだいぶ上だが、正臣にとっては大きな変化だった。
「あーもしかして忘れちゃいました? 俺のこと」
 静雄はまじまじと正臣の顔を見、今度は目を見開いた。
「お前、もしかして正臣か?」
「もしかしなくても正臣ですよ! よかった。マジで忘れられたかと思っちゃいましたよ」
 静雄は笑って、煙草を携帯灰皿に入れた。
「や、マジでわかんなかった。ずいぶんでかくなったな。今いくつだ?」
「この間十八になりました」
「十八っていうと高三か。わかんねえはずだ。こんなにちっこかったのに、もうそんなかよ。ていうか受験生じゃねえのか?」
 こんなに、というところで静雄は親指と人差し指で十センチほどの幅を表現した。
「そんなにちっこくないっすよ。あと俺内部の大学そのまま行くんで、この時期は結構気楽なんすよ」
 立ち話もなんだし、ということで静雄は家に上げてくれた。初めてここを訪れた時と同様、家の中は静まり返っていた。居間の電気は消されているが、大きな窓から差し込む光が室内を満たしていた。
「お茶でいいか?」
「ありがとうございます」
 正臣は冷たい麦茶の入ったグラスを受け取った。居間のテーブルには灰皿が置かれている。それは数年前はないものだった。
「母さんに、静雄さんは東京の大学行ったってききましたよ」
 静雄は煙草をくわえて火をつけた。
「ああ。本当は早く就職して親を安心させてやりたかったんだけどな、結局大学に残っちまった」
「ていうことは院生ですか?」
「一応な。それより、タイミングよくお前もこっちに来ててよかったよ。久しぶりに会えて」
 静雄が笑った。その笑顔は昔と変わらない気がした。
「俺も会えてよかったです。あんなにお世話になったのに、中学入ってからはこっちに来ることもなくなっちゃって、静雄さんともそれっきりだったから」
「ほんとにでかくなったよなあ。昔はあんなにかわいかったのに」
「えー今もかわいいじゃないっすか」
「自分で言うな自分で。ていうかよ、呼び方、なんで静雄さんなんだ?」
「へ?」
 麦茶を飲んでいた正臣は、コップを置いて静雄を見た。
「昔はお兄ちゃんお兄ちゃんってついて回ってたくせに」
「あ、あー……俺もちょっと悩んだんすよ。久しぶりに会ったらなんて呼ぼうかなあって。さすがにもうお兄ちゃんとは呼べないし……」
「ちょっと呼んでみろよ」
「ええっ」
「いいから」
 真顔で促され、正臣は恥ずかしくて静雄の顔を見れなかった。
「お、お兄ちゃん……」
 沈黙が流れた。
 カーテンレールからぶら下がる風鈴が、家の中を通り抜ける風に揺られて涼やかな音を立てる。澄んだ音色は静かな室内にやたらとはっきり響いた。
 静雄はくわえていた煙草を唇から離して、煙を吐き出した。
「やっぱりちょっと微妙だな」
 かすかに眉をひそめて、彼は言う。
「だから嫌だったんすよ! こうなることがわかってたから!」
「昔はあんなにかわいかったのに、こんなにでかくなりがやって」
 静雄は先ほどと同じことを言って、正臣の頭を乱暴になでた。
「ちょ、静雄さん髪が乱れるっ、ていうかちょっと痛い! 静雄さん力強い!」
 ぐりぐりとなで回してくる静雄の手をつかんでやめさせようとしていると、畳の上に放置された濃緑のファイルが目にとまった。
「あ、これ回覧板ですか?」
「あ? ああ、そうだけど」
 静雄はテーブルの下からファイルを引っ張り出した。
「懐かしいなあ」
 カバーつきの用箋挟はあのころから変わっていなかった。ところどころ色あせて、ビニールが敗れかかっている。表紙を開くと確認サイン欄にすでに平和島家の判子が押してあった。
「お前それ持ってけよ」
 ガラスの灰皿に煙草を押し付けて、静雄が言った。正臣は意味がわからずに目を丸くした。
「順番変わったんですか?」
 以前は紀田の次が静雄の家だったはずだ。
「変わってねえよ」
「だったらなんで……」
「だから、次の家に持ってってくれっつってんだよ」
「ああ、なるほど。でもなんで俺が?」
 静雄は眉間にしわを寄せて険しい顔をした。
「嫌いなんだよ。その家の奴」
「それはどういう……ていうか次って誰すか? 折原さん?」
 サイン欄の平和島の次は折原となっている。聞き覚えのない苗字だった。
「こんな家ありましたっけ」
「もしかするとお前んちのが近いんじゃねえか?」
 どういうことだろう。静雄は折原の家の場所を説明してくれた。静雄の家は集落の端に位置しているため、ちょうど回覧板の折り返しに当たるらしい。だから次の家まで少し距離があるのだと言う。とはいえ、小さな集落なので高が知れているが、言われてみれば確かに正臣の家からのほうが近かった。
「でも、なんでこの人が?」
 静雄はやたらと人を嫌ったりするようには見えないので、何か理由があるのだろう。
「大学の同期がいんだよ。しかも同じ院生で。そいつが気にくわねえ」
「へえ」
 そんな偶然があるものかと正臣は感心した。
「同じ学部で同じ研究室とか?」
「ふざけんな。専攻は同じだったけど研究室まで同じだったら俺は大学になんか残らねえよ」
 静雄は心底から嫌そうな顔をした。
「でも、こんなに近所なら小学校とかも同じだったんじゃないんすか?」
「いや、あの家はあいつの父親の実家らしい。なんでも両親が事故かなんかで亡くなって、ずっと東京の親戚の家に世話んなってたんだと」
「なんか複雑そうですね」
「で、大学入学と同時に一人暮らしを始めて、最近、あの家の、あいつにとっての祖父母が立て続けに亡くなったってんで、家のこととかいろいろ片付けに来てるんだってよ」
「へえ」
 嫌いだと言うわりに詳しいじゃないかと静雄を見つめると、鋭くにらまれた。
「勘違いすんなよ。大学の友達に高校であいつと同級だった奴がいて、そいつが勝手にべらべらしゃべりやがっただけだからな」
「まあ、でもその人、短い間にいろんな人を亡くしちゃったんですね」
 静雄は煙草に火をつけた。
「気の毒だとは思うがな、やっぱりあいつは気にいらねえ」
 きっぱりと言った静雄が、正臣にはなぜだかとても優しい人のように思えた。
「そういうことならわかりました。この回覧板は俺が責任を持って折原さんちに届けましょう」
「おう。悪いな。お前今回はいつまでいるんだ?」
「一週間くらいかなあ。静雄さんは?」
「俺もそのくらいだ。暇だったら連絡しろよ。車出してやる」
「やった!」
 正臣は携帯電話を取り出して静雄とアドレスを交換した。
「じゃ、今日はこの辺で失礼します。ごちそうさまでした」
 回覧板を持って立ち上がる。静雄は玄関まで見送りに出てきてくれた。
「またいつでも来いよ」
「静雄さんも遊びに来てくださいね。近所なんだし。泊まりでもいいかも」
 想像すると楽しくて、自然と頬が緩んだ。なに笑ってんだよ、と静雄に子供のころのように頭をなでられる。
 正臣は晴れやかな気分で静雄の家を後にした。

20100913
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