数年ぶりに訪れた母の実家で、正臣は懐かしい人に会った。
 最後に会ってからもうどのくらいたつだろうか。正臣の記憶にあるその人は、一見無愛想だが実は優しくて、面倒見のいいお兄さんという感じだった。正臣が小学校低学年のころ、彼はすでに高校生で、半そでの白いシャツと黒いスラックスに不釣り合いな金髪が印象的だった。
 当時、母が帰省するのはちょうど盆にあたる時期で、家族は毎日のように訪れる親族の相手に追われていた。正臣はすぐに飽いてしまったが、近所に遊び相手になりそうな歳の近い子供はいなかった。それでも家にいて大人たちの退屈な話をおとなしく聞いているよりは、外で川遊びや虫取りをする方がはるかにおもしろかった。
 トンボやバッタを捕まえたり、家のすぐ近くに流れている小川で、以前祖母が泥鰌を捕っていたのを覚えていたので、川面を覗き込んでその気配をうかがったりもした。
 とりわけ正臣が夢中になったのは、オニヤンマを捕まえることだった。都会育ちの正臣は、その存在は知っていても実物を見るのは初めてだった。大きさだけでなく、飛び方からその速さまで何もかもが普通のトンボと違うオニヤンマに、正臣の目は一瞬にして釘付けになった。しかし、子供の手でそう簡単に捕まえられるはずもなく、川べりや道路を低空で滑らかに飛ぶオニヤンマを見つけては、ただ闇雲に追いかけ回すだけだった。
 その日も正臣は虫取り網を片手に一人で外にいた。いつものように川に行ったり虫を取ったりしつつ、オニヤンマを探した。
 家の隣には墓地があって、その間にある緩やかな坂道を登っていたときだ。正臣のすぐ隣を大きなトンボが滑空していった。オニヤンマだった。
 正臣は駆け出した。相変わらずオニヤンマは速い。その速度が具体的にどのくらいなのかわからないが、オニヤンマはどんどん先を行く。坂を上りきり、右手に広がっていた墓地が人家に変わったとき、正臣は勢い余って転んでしまった。右手に握っていた網が放れ、熱いアスファルトで手と膝をすりむいた。その衝撃と、驚きと、熱を伴う痛みで正臣は泣きそうになった。
「大丈夫か?」
 すぐそばで人の声がし、そちらを見ると、背の高い、金色の髪の男が立っていた。男は正臣の目の前にかがみこむと、すりむいた手のひらをそっとつかんだ。
「こっちはたいしたことねえけど、足のほうは痛そうだな」
 そうだ。痛いのだ。正臣は次第に増していく傷口の痛みに顔をゆがめた。
「泣くな」
 厳しい声で注意され、正臣は驚きで涙を引っ込めた。
「消毒してやるからついて来な」
 正臣の虫取り網を拾い上げて、男は墓地が終わったところにある家の方へ歩いていく。正臣は立ち上がって男の後を追った。膝を伸ばすと傷が痛んだが、歩けないということはなかった。
 玄関のそばに設置されている水道で、男は傷口を洗うよう言った。絶対にしみることがわかっていたため、正臣はすがるように男を見上げたが、彼は水道の脇に膝を折って蛇口をひねると、ハーフパンツから露出した正臣のむき出しの足をつかんで傷口を水にさらした。
「いたっ、いたいっ」
「そりゃそうだろ」
 男は淡々と正臣の傷口の汚れを洗い流し、両手、両膝ともにきれいになったことを確認すると、水を止めて家の中に入っていった。
「上がって適当に座ってろ」
 男の家の中は静かだった。
「おじゃまします」
 入ってすぐのところにある居間の畳の上に、膝を抱えて座る。
 男は戸棚から救急箱を下ろし、正臣のそばに胡坐をかいた。
「ちょっとしみるぞ」
 目の粗いコンクリートでこすった傷に、消毒液が浸透して鋭く痛む。正臣は固く目をつぶってそれに耐えた。泣いたらまた怒られるかもしれないので、にじみそうになる涙もぐっとこらえる。
 次に目を開けたとき、赤く擦り剥けていたはずの傷口は白いガーゼが当てられ、テープで固定されていた。両手の傷にも絆創膏がはられている。
「一応薬塗っといたけど、帰ったら家の人に見てもらえよ」
 男は傷薬や消毒液を救急箱の中に戻しながら言った。
「あ……ありがとう……」
「どういたしまして。痛いのによく泣かないで我慢したな」
 男は表情を和らげて、正臣の頭をなでた。優しい手つきに安堵する。この人はいい人なんだ、と正臣は思った。
「そういえばお前どこの家の子だ? 見ない顔だけど、名前は?」
「紀田正臣」
「ああ、紀田さんとこの孫か」
 紀田は母親の姓である。父と母は正臣がまだ幼いころに離婚しており、物心ついたときから正臣は紀田だった。
「お兄ちゃんは?」
 男は平和島静雄、と名乗った。
「あ、かいらんばんで見たことある」
 内容を確かめたことを確認するサイン欄に、その名前があったはずだ。
「ああ、近所だからな。それよりアイス食うか?」
「食べる!」
 正臣はいちご味、静雄はバニラ味のアイスをそれぞれ食べた。
「お前東京から来たのか?」
「うん」
「こっちにはいつまでいるんだ?」
「二週間くらい。花火見て帰るんだって」
「そっか」
 二人でアイスを食べながら、ぽつぽつと話をした。静雄は決して饒舌ではなかったが、穏やかなしゃべり方が心地よかった。
「さっきなんであんなに急いで走ってたんだ?」
 そう尋ねられたとき、正臣は追いかけていたオニヤンマのことを思い出した。それを静雄に話すと、彼はなるほどな、と笑った。
「来な。いいこと教えてやる」
 静雄は立ち上がり、玄関で靴を履いた。
「網忘れんなよ」
 玄関の壁に立てかけてあった虫取り網を持って、正臣は静雄に続いて外に出た。彼が向かったのは家の裏にある畑だった。ナスやトマト、きゅうりにとうもろこしまで植わっている。
「あそこ、見えるか?」
 二メートルはありそうなとうもろこしの茎の先から生じたススキのような雄花に、オニヤンマがとまっていた。
「あ!」
 正臣は思わず声を上げたが、隣の静雄が唇に人差し指を当てたので、あわてて口をつぐんだ。
「とまってるとこ初めて見た」
 抑えた声で言うと、静雄は頷いた。
「俺もあんまり見たことねえけど、ここには時々いるんだよ。たぶんパトロール区域なんだろうな」
「パトロール?」
「オニヤンマのオスってのはなわばりの中をパトロールしてるんだ。同じところを何回も飛んでるの見たことねえか? あれはほかのオスの侵入を防いでんだよ。まあ、見つけたら攻撃するんだけどな」
「かっこいいね」
 大きなトンボがより魅力的に見えた。そのオニヤンマは今、かすかな風に揺れる小穂に足の先を引っかけるようにしてとまっている。隣のとうもろこしの雄花にとまったトンボが、空に背を向け、羽を伏せているのに対し、オニヤンマは体をぶら下げるような形で羽を休めている。
「捕まえるか?」
 静雄がきいた。こんなチャンスはもうないかもしれない。正臣は頷いた。どきどきと胸が高鳴っている。
「網届くか? 素早くかぶせろよ」
 正臣は網を握りしめてゆっくりと一歩、とうもろこしの茎に近づいた。すぐ近くにオニヤンマがいる。こんなに近くで見るのは初めてだった。本当に大きい。緑色の目は吸いこまれそうなほど鮮やかで、黒い体に横に入った縞模様が白ではなく薄い黄色をしていることにも初めて気づいた。網を構えてはやる心をおさえられないまま、正臣はワイヤーで作られた網の口をオニヤンマにかぶせた。しかしオニヤンマは近くで空気の揺れる気配を感じてか、網がその体を覆う前に飛び立ってしまった。
「あ……」
 オニヤンマのいなくなった小穂を見上げて、正臣は肩を落とした。
「残念だったな」
 静雄は慰めるように正臣の頭をなでた。
「また明日来な」
「いいの?」
「ああ。なんならほかの場所も回って捕まえるの手伝ってやる」
「やったあ!」
 正臣は嬉しかった。かつてないほどオニヤンマに接近できたのもそうだが、こちらに来てからずっと一人だったため、こうして相手をしてくれる人間に出会えたことが嬉しいのだ。
「お兄ちゃんありがとう!」
 思わず抱きつくと、静雄は初めて戸惑った様子を見せた。頬が少しだけ赤いような気がする。
「まあ、俺も夏休みだからな……」
 そう、彼と初めて出会ったのは九年前の夏休みだった。

20100911
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