漫喫でバイトをしている。
 制服はシャツだけ。ボトムはジーンズ。原則、足首まで隠れるものとなっているが、夏場はハーフパンツでもうるさいことは言われない。この店にはめったに顔を出さない店長以外、社員がいない。
 都心からは離れているが、最寄り駅の一日の平均乗車人員が十五万人を超える商業地のため、そこそこ繁盛している。といっても常に忙しいわけではなく、連休明けなどは暇な時間も多かった。
 今日も比較的回転は緩やかで、ブースとカウンターの往復も少ないので、心なしか店内が涼しく感じられた。ビルの五階にあるこの店には窓がなく、パソコンの熱がこもりがちで蒸し暑いのだ。
 紀田正臣はカウンターの中に立ってぼんやりしていた。
 カウンター内はフロアよりもさらに暑い。ここには三台のパソコンが置かれている。入場用、精算用、その他業務用である。暑さの原因は言うまでもなく、狭い空間に三台ものパソコンがあることだ。足元と銀棚に設置されたサーキュレーターは生温かい空気をかき回すだけで、あまり役に立っているとは思えない。
 正臣はタイムレコーダーを表示しているモニターを眺めた。デジタル時計は間もなく二十時になろうとしている。朝番から業務を引き継いだのが十七時。それから三時間がたつが、今日は本当に暇だ。
 制服の胸ポケットにとめたネームカードのケースから、安全ピンが外れかかっている。もう接着が弱くなっているのかもしれない。最近、ただのスタッフから責任者用へ変わったカードには、テプラで作った「きだ」のラベルが貼られている。余白が目立ち、こういうとき、平仮名にしても二文字の名字はあまり見栄えが良くないと思う。
 エレベーターが開き、来客を知らせるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 正臣はカウンターを挟んで客と向き合う。最近よく来る、いやに整った顔の男性客だった。まだ若いが身なりもよくて、あまりぱっとしないこの店の雰囲気にそぐわないのでよく覚えていた。
 男が長財布から取り出した会員カードを受け取り、席の希望をきく。たいていこの客はオフィスの入った個室を選ぶ。今日もそうだった。
 カードのバーコードを読み取ると、パソコンに男の名前が表示される。折原臨也。オリハラなんというのだろう、と正臣はいつも思う。会員情報の登録を行ったのは正臣ではないため、読み方がわからないのだ。
 入場処理を行って、吐き出された伝票を挟んだプレートを渡すと、男はありがとう、と言って微笑んだ。彼はいつもこうしてお礼を言ってくれる。一見冷たそうに見える涼しい目元がほころぶと、とたんに優しげな印象を受ける。好感度も上がる。正臣も頬を緩めて、ごゆっくりどうぞ、と一礼した。
 それから三十分後、店内はにわかに騒がしくなった。入場、精算ともに客が列をなし、個室の清掃にスタッフがフロアを走り回る。一日に一回は必ずこういうラッシュに見舞われる。正臣は精算レジの前に立ち、ひたすら客をさばいた。途中電話まで鳴り始め、五コール目で清掃に出ていたスタッフがカウンターに戻ってきて子機を取り上げた。彼が電話を切るころには精算待ちの客もいなくなっていたため、正臣は清掃業務を代わることにした。未清掃の席を確認してカウンターを出る。やはりフロアはカウンターよりもいくらか涼しかった。
 ラッシュがひと段落して店内が静けさを取り戻したのは二十二時を過ぎてからだった。今のうちにトイレの掃除やごみ回収などの業務を行ってしまおうということになり、スタッフはそれぞれ割り当てられた場所へ散った。
 正臣もごみを集めるため、店内の三か所に設置されたごみ箱を回った。
 回収してきたごみをまとめて袋の口を縛っていると、一人の客が近づいてきた。折原臨也だった。
「これ君のだろ? 通路に落ちてたよ」
 差し出されたのは一枚のネームカードだった。ラミネートされたカードに「きだ」のラベルが見てとれる。正臣は思わず自らの胸元を確認した。そこには先ほどカードケースから取れそうだと思っていた安全ピンのみが残されていた。
「すっ、すみません。ありがとうございます」
 おそらく先ほどあわただしく店内を動き回っていたときにでも落としたのだろう。正臣は礼を言ってカードを受け取った。
「どういたしまして。きだ君って、どういう字を書くの?」
 にっこり笑って男が尋ねてくる。どうしてそんなことをきくのだろう。正臣は思ったが、あまり深く考えなかった。
「あ、えっと、ジュラ紀の紀に、田んぼの田です」
 答えながら正臣は、安全ピンの外れてしまったカードケースからカードを抜いて、ケースを不燃ごみの袋の中に投じた。
「へえ、紀田君か。昇進したんだね」
 一瞬、正臣は男が何を言っているのかよくわからなかった。
「それ、カードの表記がスタッフから責任者になってる」
「あ、ああ、そうなんですよ。昇進なんて大層なもんじゃないですけど……バイトなんで」
 正臣は手の中のネームカードを一瞥してポケットに入れた。
「そういえば、どうしてこれが俺のだってわかったんですか?」
 かねてよりの疑問を口にすると、男はにこやかに指を立てた。
「三択です。一、この店にいる三人のスタッフの中で、カードをつけていないのが君だけだった。二、君がカードを落とすところを目撃した。三、俺は君の名前を知っていた。さて、どれでしょう?」
「ええと……一?」
「外れ。正解は三だよ」
「え、俺の名前……」
 知っていたと言うのか。正臣は驚いた。客がいちいちスタッフの名前など見ているものだろうか。
「仕事柄よく人を見ることにしてるんだ。といっても、最近はよくここに来てるからね。俺が入るときはだいたい君が受け付けてくれるし、覚えちゃったよ」
「あ、なるほど」
 本当に、彼とは店でよく会う。それに彼は正臣のネームカードの表記が変わったことにも気づいていた。彼の言うとおり、よく人を見ているからなのかもしれない。変わった人だな、と正臣は思った。
「あの、俺もきいていいですか?」
 その発言に、正臣は自分で驚いた。それは彼も同じだったらしく、切れ長の瞳が少しだけ見開かれていた。
「いいよ、なに?」
 やがて彼はあの、優しげな微笑を正臣に向けた。
「あの、名前、なんて読むんですか?」
 言葉が足りなかったかと思ったが、彼にはちゃんと伝わったようだった。
「ああ、俺の名前? いざやだよ。折原臨也。ていうか、君も俺の名前覚えてくれたんだね」
「常連様、ですから……」
「へえ? まあいいや。じゃ、俺はそろそろ席に戻るよ。仕事中断させちゃってごめんね」
「いえ、とんでもないです。わざわざありがとうございました」
 臨也は笑顔を残して個室に戻って行った。

20100906
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