雇い主の折原臨也が珍しく仕事で失敗したらしい。波江が事務所に帰ってきたとき臨也もすでに外出から戻っていて、まだ日中だというのにシャワーを浴びていた。外は暑いし汗を流したくなるのは理解できる。それだけならなんら不自然さを感じなかったはずだが、彼の様子は少し変だった。
 臨也は冷房の効いた事務所のソファに座り、だるそうにしている。真夏でも白いままの肌はかすかに紅潮し、整えられた眉がきつく寄せられていた。
「具合でも悪いの?」
 ソファに近づくと、臨也は緩慢に波江を見上げた。向けられた瞳の熱っぽさに、波江は眉をひそめる。なんなんだこの男は。波江はそう思った。
「波江さん……」
 心なしか潤んだような瞳で見つめられ、頼りない声で呼ばれる。いつも皮肉ばかり口にする唇は妙に赤く、あの、人を馬鹿にしたような笑みの代わりに切なげな表情を浮かべている。
「な、何よ、どうしたっていうの」
 なぜかあまり見てはいけないような気がして、波江は視線をさまよわせた。自分が柄にもなくうろたえているのがわかる。それはそれで腹立たしい。こんな男のせいで。
 臨也は熱をはらんだため息をつくと、いきなり波江の腰に抱きついた。
「ちょっ、何してるのよ!」
「波江さん、波江さん……」
 抱き寄せられた体に臨也の頭が押し付けられる。触れた体は驚くほど熱かった。
「あなた、風邪引いてるの?」
 見た目からしてあまり丈夫そうではないから、夏風邪にかかったのかもしれない。それとも冷房に負けてしまったのだろうか。
「体調が悪いなら始めからそう言いなさいよ」
 子供のように甘えてくるのも、それゆえだとしたら納得がいく。そうすることでしか自分の体の不調を訴えられないのは性格だろうか。もしそうなら本当に子供だ。
 とりあえず熱をみようと隣に座り、濡れた前髪をかき上げて額に触れると臨也は顔をゆがめた。
「あっ……」
 小さくもらされた声は妙になまめかしくて、波江は再び眉を寄せた。なんなんだ一体。風邪じゃないのか。
「波江さん、違う……風邪じゃないから……」
「だったらなんだって言うのよ……」
 嫌な想像が脳裏をよぎる。しかしそれはあまりに波江の常識とも日常ともかけ離れていて、信じたくなかった。
「だから、こういうこと、だよ……」
 臨也はおもむろに波江の手をつかむと、ゆっくりと自らの股間に導いた。ジーンズの硬い布地の下で、それを押し上げている熱の塊を手のひらに感じた波江は息を呑み、素早く手を引っ込めるとともにソファから立ち上がった。
「ななななんなの? あなた変態?」
 まだ手のひらに残る感触に嫌悪を隠せずにいると、臨也は自嘲のような笑みを浮かべた。
「むしろそうだったらいいと思うよ……俺が日常的に波江のさんの前で勃起させるような変態ならね」
「なによ、自分はそうじゃないみたいな言い方ね」
「まあ、不可抗力、みたいなもんかな……」
 臨也はまた熱っぽい息を吐いた。
「どういうこと?」
 一定の距離を空けたまま尋ねると、臨也は手のひらで顔を覆った。
「ちょっと仕事でミスっちゃってね」
 そうして臨也はこれまでのいきさつを話し始めた。


「馬鹿じゃないの」
 話を聞き終えて、波江は率直な感想を口にした。
「まあ、否定はしないよ……このざまじゃあね」
「それにしても、あなたにそんなことしてどうするつもりだったのかしらね」
 波江はあきれていた。臨也はどうやら体を性的な興奮状態にさせるドラッグの類を打たれたらしかった。どうにか逃げ帰ってきてすぐにシャワーを浴び、頭を冷やそうとしたらしいがなかなか思うように熱は冷めず、今に至る。
「どうって、あんなことやこんなこと? 俺に言わせないでよ、波江さん」
「気持ち悪いわ」
 思わず想像してしまって吐き気がした。薬でどうのこうのというその思惑にも反吐が出る。
「まあそう言わないでよ。今回は俺は悪くないんだし」
「何言ってるの。もとはと言えばあなたがしくじるからいけないんでしょう。それに日ごろから人の恨みを買ってるからこんなことになるのよ」
「はは、もっともだね……」
 臨也は弱々しく笑った。かと思うとすぐに表情を崩す。
「ちょっと、大丈夫なの?」
 これまでわりと平気そうにしゃべっていたが、また様子がおかしい。
「なんか波があるんだよね……ああ、くそっ」
 いらだたしげに顔をしかめ、小さく舌を打つ。滑らかな肌を汗が伝う。
 あの折原臨也が性欲をもてあましてもだえている様というのは波江に不思議な感慨をもたらした。バスルームからタオルを持ってきて、臨也の汗をぬぐう。
「誰か呼びましょうか?」
 本当ならそこまでしてやる義理はないが、波江は慈悲深い気分だった。
「相手してくれるならなら波江さんがいいな」
 臨也は額の汗をぬぐっていた波江の手をとり、かすかに笑みを浮かべた。

20100903
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