静雄のアパートに着くなり、臨也はインターホンには目もくれず扉をたたいた。
「シズちゃん! 開けてよ! 早く開けろって!」
 深夜だということもかえりみず、扉をたたきながら叫ぶと、あまり厚そうではないそれが勢いよく外側に開いた。とっさに後ずさって扉の直撃を免れる。
「うるせえな。今何時だとおもってやがる」
 くわえ煙草で出てきた静雄は不機嫌そうな声で言った。
「うるさい! どいてよ!」
 静雄に言われた言葉をそのまま返して、部屋に上がりこむ。
「正臣君!」
 やかましい音楽のかかる部屋に入ると、正臣は床に座り込んできょとんとしていた。何をそんなにあわてているんだ、とでも言いたげだ。
「臨也さん?」
「大丈夫? シズちゃんに何もされてない?」
 正臣の隣に膝をついて顔に触れる。衣服の乱れがないか確認する。
「な、何ってなんすか? されるわけないじゃないですか」
 否定する正臣の声は少しだけ揺れている。心なしか目も泳いでいる。臨也は正臣の頬に両手を添えて唇を重ねた。
「んっ、んー!」
 正臣の目が見開かれる。臨也は身をよじって逃れようとする彼の腰に腕を回しながら口付けを深くした。粘膜の隅々にまで舌を這わせる。やがて、正臣の手が臨也のシャツをつかみ、見開かれていた瞳が水気を帯び始めたころ唇を離した。
「臨也さん……?」
 正臣が潤んだ瞳で見上げてくる。臨也はまた舌を打ちそうになったが、眉を寄せるだけにとどめて、部屋の戸口付近の壁に寄り掛かって煙草を吸っている静雄を振り返った。
「キスしたな」
 静雄は何も言わずに煙草を吸っている。
「臨也さ、ちがっ」
「言い訳はいいよ。煙草の味がするんだよね。ずいぶん深いのまで許したみたいだけど、どういうつもり? シズちゃんも」
「てめえが言えたことかよ」
 静雄が近づいてきて、灰皿で煙草を消した。
「シズちゃんには関係ないだろ。何度も言わせんな」
「俺には関係なくても紀田には関係あんだろうが。てめえこそもっとよく考えてからしゃべれ」
 いらいらする。静雄の言っていることは間違いではない。だから余計にむかつく。臨也は戸惑い気味の正臣の腕をつかんで立ち上がった。そのまま手を引いて玄関に向かう。
「帰るよ」
「帰るって、臨也さんもう電車……」
「君の部屋に行くんだよ。そう遠くないだろ。煙草臭いし、すぐにシャワー浴びて着替えてよ」
「待って、俺、静雄さんに」
 臨也は足を止めた。
「なに? シズちゃんに何かあるわけ? それともほんとはキス以上のこともされた?」
「違います! 俺、静雄さんに謝らなきゃって思って」
「謝る? つまり君がシズちゃんを誘ったってこと?」
「ちがっ、だから!」
「紀田」
 いらだたしげに声を荒げた正臣を、静雄が呼んだ。彼は玄関まで歩いてきて、正臣に笑いかける。
「さっきは悪かったな。もういいから気にすんな」
「でも」
「正臣君」
 今度は臨也が声を割りこませた。
「先に出ててくれる。ちょっとシズちゃんと話があるから」
 正臣はまだ戸惑っている様子だったが、臨也の言葉に従って外に出た。
「さっきもきいたけど、どういうつもり?」
 扉が閉まってから、臨也は静雄に向き直った。
「そんなこと、てめえが一番よくわかってんだろ」
「俺への当てつけってこと? 正臣君から何をきいたのか知らないけど、シズちゃんの出る幕じゃないんだよ。ちょっとはわきまえろ」
「そう思うんならてめえもちょっとは態度を改めろ」
 静雄は冷めた目で見つめてくる。彼が何を考えているのか、やはりよくわからなかった。
「ふざけんなよ。これは俺と正臣君の問題であって、シズちゃんは関係ない。そうだろ?」
「そうだな」
 意外なことに、静雄はすんなり同意した。
「それがわかってんなら余計なことしないでくれる? ていうか二度と俺のもんにちょっかい出すな」
 静雄は煙草に火をつけて、溜息とともに煙を吐き出した。
「臨也君よぉ」
 彼の表情はあきれたようでもあり、いらだっているようにも見える。
「なに? 正臣君はものじゃない、とか言うつもり?」
 臨也はかすかに笑みを浮かべたが、静雄の瞳は依然として鋭かった。
「ちげえよ。自分のものだっていう自覚があるなら、もっと大事にしやがれ」
 睨み付けられたまま言われ、臨也は頭に血が上るのを感じた。
「そんなこと、シズちゃんに言われなくてもわかってるよ!」
 臨也はそう言い捨てて静雄の部屋を出た。おもしろくない。あれは説教か。えらそうに。どうして静雄にあんなことを言われなければならない。
 アパートの敷地の外に出ると、道路で正臣が待っていた。
「お待たせ」
 あからさまに不機嫌そうな声が出た。しかしもう気にしている余裕はなかった。
「あ、あー……えーと、帰りますか?」
「帰る」
 深夜の住宅街を並んで歩く。特に会話はない。臨也はまだいらだっていたし、正臣も今は何も言わないほうがいいという判断なのか、先ほどから口を閉ざしていた。それはそれでおもしろくない。少し困らせてやろうと思い、臨也は正臣の手をつかんだ。
「えっ?」
 隣から驚いた声が上がる。それでも臨也は足を止めなかった。
「い、臨也さん?」
「なに?」
「手……」
「もう夜中だよ。誰も見てないって」
「そうですけど……」
 ちょうど差し掛かった街灯の下で見た正臣の頬は少し赤くなっていた。かわいいな、と思う。
「そういえば初めてだね。手つないで歩くのとか」
 ぎゅ、とつないだ手に力を込めると、正臣は小さく肩をはねさせた。
「そうですね……いきなりどうしたんですか?」
「べっつにー。誰かさんがシズちゃんとばっか仲良くするから、ちょっとやきもち焼いただけ」
「なっ、もとはといえば臨也さんが!」
 足を止めて、正臣が言いかける。
「なに?」
 臨也も立ち止まって先を促した。目が合うと、正臣は一瞬瞠目して、それから視線を逸らした。
「なんでもないです……」
 放たれた言葉に、臨也はため息をつきたくなった。ここまできて言わないのか、この男は。
「まあいっか。早く帰ろう。蚊に食われちゃったよ」
 再び、正臣の手を引いて歩き出す。
「臨也さんの血を吸うなんて物好きな蚊もいますね」
「そんなことばっかり言ってると、帰ったらあそこにムヒ塗るよ」
「……すみませんでした」
「いつもそのくらい素直だったらいいのにね」
 やいてるならやいてるって言えばいいのに。臨也は自分勝手にそんなことを思った。けれどそれくらいでしか確認することができないのだ。彼に想われていることを。
「臨也さん」
「ん?」
「まだ怒ってますか?」
「さあ、どうかな」
 臨也は笑みを浮かべた。こちらをうかがう正臣の顔がとても不安げで、それがまたかわいく思えてくる。
「蚊に刺されたとこにムヒ塗ってくれたら許してあげるよ」
 提案すると、正臣はみるみる顔を真っ赤にした。何をそんなに恥ずかしがることが、と思っていると、恐る恐るという風に正臣が口を開いた。
「あそこにもですか?」
「あそこは刺されてない!」
 深夜にもかかわらず、臨也は声を張り上げてしまった。

20100901
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