夏休み、前期授業のプールの出席がちょうど一時間足りなくて、紀田正臣は補習を受けに登校していた。
 水着に着替えて更衣室を出、屋上にあるプールに上がって行くと、プールサイドには誰もおらず、かわりにプールの底に男が一人沈んでいた。
 あれは死んでいるのだろうか。正臣は一瞬考えたのち、ろくに体をほぐしもせずプールに飛び込んだ。コースロープの下をくぐり、無人のプールの中央あたりに身を沈めている男のそばまで泳ぐ。水色のプールの底に投げ出された男の白い腕をつかむと、ゴーグルの奥の瞳と目が合ったような気がした。
「なに?」
 水から顔を出すと、男は整えられた眉をひそめた。
「え、あ、生きてたんだ」
「はあ? まさか死んでるとか思ったわけ?」
 馬鹿にしたように言って、男はゴーグルを外した。頭から抜いたそれを水につけて曇りをとっている。
「人を勝手に殺さないでくれる?」
 改めて正面から男を見て、正臣はその顔を知っていることに気付いた。
「折原臨也」
 思わず、芸能人にするようにフルネームを口に出すと、彼は薄い唇の端を持ち上げた。
「先輩をつけなよ、先輩を。紀田正臣君」
「なんで俺のこと……」
「知ってるよ。喧嘩強いんだってね。そこそこ有名かな。まあ、俺やシズちゃんほどじゃないけど?」
 あんたらを知らない人間なんてこの学校にはいないだろうと正臣は思った。今正臣の目の前にいる折原臨也は頭が良かったり顔が良かったり四六時中喧嘩をしている相手がいたりと色々な意味で有名だった。だから先ほどの正臣の反応はあながち間違いではない。
「こんなとこで何やってんすか?」
「溺れて沈んだ人のまねじゃないことだけは確かだね」
「ふつービビりますよ。こんなとこで沈んだままじっとしてたら」
「そんなこと言っても好きなんだよね」
「何が?」
「君も沈んでみればわかるよ」
 はい、とゴーグルを渡される。正臣は一度、臨也の噂にたがわずきれいな顔を見てから、素直にそれをかけた。彼の好きなものに少しだけ興味がわいたのだ。
「潜るだけじゃすぐに浮いてきちゃうから、少しずつ酸素を吐き出して、下から水面を見てごらん」
 正臣は言われた通り、プールの底に身を沈めて水面を見上げた。
 真上にある太陽が水のゆらめきによって歪んで見える。そこから放たれた光は決してまぶしすぎず、むしろ無音の水中に穏やかに降り注いでいた。冷たい水が心地よい。揺れる水面と光の筋がきれいだ。
 彼はこれが好きなのか。静かな水中で、こうして水中と水上との境を眺めるのが。
 吐き出す酸素がないため、すぐに苦しくなって正臣は浮上した。ゴーグルを外したとたん、水面に反射する太陽の強烈な輝きに目が痛くなった。
「なかなか気持ちよかっただろ?」
 プールサイドに腰かけて、足だけを水につけた臨也が言った。少し距離があるため、声を張っている。そんな彼が正臣は少し意外だった。
「臨也さん、いつもこんなことしてるんですか?」
 彼のそばまで泳いで行って、ゴーグルを返す。
「いつもじゃないよ。べつに俺は水泳部じゃないし、プールの授業もそんなに好きじゃなかった。でもこうやって誰もいないプールで泳ぐのはいいもんだね」
「さっきは沈んでたじゃないですか」
「沈むのも好きだよ。でもさっきは君がなかなか来ないから泳ぐのに飽きちゃってたんだ」
「は?」
 臨也は自分を待っていたということだろうか。でもどうして。正臣は今日、プールの補習を受けにここに来た。臨也は?
 正臣の疑問を察したのか、臨也は笑みを浮かべた。
「体育の教師にはちょっとしたコネがあってね。今日、特別にプールを開けてもらったんだ。それで、もしかしたら君が補習を受けに来るかもしれないって言うから、だったら俺が紀田君の監督します。まかせて下さいって言っちゃったんだよね」
「言っちゃったんだよねって……」
 臨也のために大人しくプールを開け渡してしまう教師も教師だが、そんな交渉をやってのける臨也も臨也だ。コネなどと言って、本当は弱みでも握っているのではないか。学校内でそういった噂が流れていたとき、正臣は半信半疑だったが、今なら信じられるような気がした。
「ということだから紀田君、補習始めようか。先生じゃないから固いことは言わないよ。1000メートル自由形でいってみよう」
「げえっ、そんなに泳ぐんすか?」
「たった二十往復だよ? 君なら軽いだろ」
「俺あんまり体力には自信が……」
「途中で休憩挟んでもいいし、ゆっくり泳いでもいいよ。自分のペースで頑張って。あ、ゴーグル二つあるから使っていいよ」
 正臣は臨也に借りたゴーグルを再び装着した。
「臨也さんはどうするんすか?」
「俺は適当に空いてるコースで泳いだり、飽きたらまた沈んだりしてるよ。まあ、俺のことは気にしないで」


 一キロを泳ぎきるころには全身の筋肉が疲れきっていて、プールサイドに上がるのもやっとだった。
「お疲れ。いやあいい泳ぎっぷりだったよ。まさか二十本通しでいくとは思わなかったけど」
 まだ水の中にいる臨也がプールサイドに肘をついてのんきに言う。正臣は白っぽいコンクリートに身を投げ出した。
「ちゃんと泳ぎましたからね……先生にしっかり報告して下さいよ……」
 太陽はまだだいぶ高い位置にあり、日差しも突き刺さるようだったが、今は気にならなかった。
「わかってるって。紀田君はクロールのフォームが特にきれいですって言っておくよ」
 意外と細かいところまで見られていたらしい。
 臨也はプールサイドに上がってきた。
「さてと、そろそろ行こうか。下でシャワーでも浴びよう」
 自力ではとても起き上がる気になれなかったので、正臣は臨也に右手を差し出した。彼は苦笑してその手をつかみ、正臣を引き起こした。

20100819
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