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「お前、前回俺になんて言った?」
 静雄はベッドに座り、長い脚を組んで煙草を吸っている。
 正臣はとりあえず下着をはいて、床に正座した。
「二度と深酒はしないって言いました」
 怖くて静雄の顔が見られない。
「で?」
「すみませんでした!」
 正臣は勢いよく頭を下げた。
「謝るくらいならはじめから飲みすぎんな! 酔ったら自分がどうなるかくらいわかってんだろうが!」
「はい! おっしゃる通りです!」
「返事と反省するふりだけはしっかりしてんだよお前」
「なっ、ふりじゃないっすよ! ちゃんと反省してますって!」
「どうだかな」
 完全に信用されていない。手っ取り早く心証を良くしようと、正臣は灰皿を差し出してみた。ずっしりとしたガラス製の灰皿は、味気ない静雄の部屋には珍しく、洗練されたデザインで、大量の吸い殻であふれかえってなお、美しく輝いていた。
「おしゃれな灰皿っすね!」
 両手で灰皿を持ち、静雄が灰を落とすのを待つ。静雄は正臣を一瞥し、灰皿の上でフィルターをはじいた。
「落としたら殺すからな」
 物騒なことを言うのであわてて灰皿の縁に彫ってあるロゴを見るとブルガリだった。落とすどころか傷つけるわけにもいかない。正臣はそっとヘッドボードに灰皿を置いて、再び静雄の前に正座した。
「あの癖、最近は出てないって言ってたよな」
「え、えっと、まあ、最近は出てないっつーか、誰かと二人で飲む機会もそんななかったし、俺も相当気をつけてたんで」
「だったらなんで今日に限って気をつけないんだよ!」
「いや、昨日は店でもかなり飲んでたし、静雄さんが久しぶりに来てくれて、飲みにも誘ってくれて嬉しかったんすよ。だから、ちょっと羽目を外しちゃったっていうか」
「てめえ前回の誓いを忘れたのか!」
「わ、忘れてないっすよ! 忘れるわけないじゃないっすか!」
 前回、もう深酒はしないと固い誓いを立てた。それを、よりによって静雄と一緒にいるときに破ってしまうなんて。
「ほんと、本当にごめんなさい! もう絶対にしません!」
「お前のもうしないはもう信じねえ」
 静雄は溜息をついた。
「とりあえず風呂入ってこい。そんで反省しろ」
「はーい」
「お前その返事ぜってー反省してねえだろ!」
「してますって! ものすごい反省してます! なんで伝わんないかなあ」
「お前が伝える努力を怠ってるからだろうが!」
 正臣は逃げるように浴室に向かった。


 さっぱりして部屋に戻ると、静雄は床にあぐらをかいて体勢で煙草を吸っていた。
「静雄さん、シャワーありがとうございました」
 タオルで頭をふきながら、皺のついてしまったシャツのボタンをとめる。スラックスと上着は静雄がハンガーにかけてくれたようだ。やはり彼は優しい。
「まだ怒ってるんですか?」
 静雄のそばに腰を下ろすと鋭く睨みつけられた。
「当たり前だろ」
 正臣は苦笑して、充電させてもらっていた携帯電話に手を伸ばした。弟の臨也からメールが入っていた。

 お仕事お疲れ様。
 昨日は帰らなかったみたいだけど、今日はどんな感じ?

「やっべー連絡すんの忘れてた」
 昨夜のように、家に帰らない日は事前に必ず連絡を入れるようにしていたのに、すっかり忘れていた。
「臨也か?」
 正臣はメールの返信を作りながら頷いた。
「昨日、帰らないってメールすんの忘れちゃって」
「馬鹿じゃねえの」
「あっ、なんか静雄さんが冷たい」
 静雄は煙草を灰皿に押し付けた。その指先の力強さから彼のいらだちが伝わってくる。
「お前マジでどうにかしろよ、その癖。友達なくすぞ」
「……もうなくしてますよ」
「だったら本気で改めろ。お前ももう子供じゃないんだし、臨也だっているんだろ」
 さすがに、臨也の名前を出されるのはつらい。彼に直接関係のあることではないが、彼の保護者として、もう少しちゃんとしなければいけないという思いはある。
「はい……すみませんでした、ほんとに……」
 落ち着いた声で言った正臣を、静雄は反省の度合いをうかがうように見つめていた。
「お前、彼女は?」
 しばらくしてから静雄が言った。
「は?」
「彼女いるときは出ないんだろ、その癖」
「あー……そうなんすけど、なんかまだ、そういう気になれなくて」
 最後に付き合っていた彼女と別れたのは、もう四年も前のことだ。臨也を連れて実家を出ると決めたとき、生活が落ち着くまでは余裕がなくなると思い、計画的に別れ話を切り出した。今となっては別の方法、たとえば、ずるいことはわかっているが、待っていてくれと頼むこともできたのかもしれないと思う。けれど、そのときはどうしてもそれができなかった。決して、軽い気持ちで付き合っていたわけではない。別れを告げることに胸が痛まなかったわけでもない。大切だったからこそ、こちらの都合で彼女を縛りつけることはしたくなかった。
 それはまだ、今よりも幼かった正臣の、つまらない矜持だったのかもしれない。そのせいで彼女にひどくつらい思いをさせてしまったかもしれないということが、今でも心に引っかかっている。未練があるわけではない。かといって、新しい生活がそれなりに安定してからも、また別の誰かと一から恋愛をしてみようとは思えなかった。
「沙樹とよりを戻す気はねえのか?」
 彼女の名前を出して、静雄は言った。
 沙樹にはもうずいぶん長いこと会っていない。彼女も正臣と同じ池袋に住んでいるのだが、たまたま姿を見かけることもなかった。
「今更、そんなことできるわけないじゃないっすか。俺の都合で勝手に別れてもらったのに」
「ふうん。そんなもんか」
 静雄は自分から話を振った癖に、たいして興味もなさそうに言った。
「どうしたんすか? いきなり沙樹の話なんて」
 その名前を口にすることも久しぶりで、正臣は少し笑ってしまう。
「いや、どうしたっつーか……これ、言おうかどうか迷ってたんだけどよ」
 静雄は立ち上がり、キッチンに入って冷蔵庫からパックの野菜ジュースを取り出した。グラスを二つ用意してオレンジ色の液体を注ぎ、一方のグラスを正臣に渡す。
「どうも」
 礼だけ言って話の続きを待っていると、静雄は野菜ジュースを一気に飲み干してから口を開いた。
「沙樹の奴、最近ストーカーにあってるらしい」
「え……」
 グラスに口をつけようとしていた正臣は、思わず動きを止めて静雄を見た。
「マジ、ですか」
 静雄は座って煙草に手を伸ばした。
「つっても、もとは客だった奴らしいんだけどな。店の外でもしつこくされたり、出待ちされて家までつけられたり、郵便受けの中に変なもん入れられたりしてて」
「ちょ、それ店側は対応してなかったんすか?」
「一応、送迎とかはやってたらしい。けど、四六時中一緒にいて守ってやれるわけじゃないだろ。その、ポストの件があってからは、さすがにしばらく部屋に帰る気になれないってんで、店の寮に住んでたんだけど、最近はそいつも店に来なくなってるからって、アパートに戻ったんだよ」
「えええだってまだ犯人捕まってないんすよね? ていうかあれ、このこと警察には?」
「届けてない。大事にはしたくないらしいからな」
 静雄は灰皿の上で煙草のフィルターをはじいた。アルミの灰皿はもう吸い殻でいっぱいになっている。
「そんな……何かあってからじゃ遅いのに」
「俺に言うな。それに、下手に警察沙汰にして逆恨みされるのもな……なんか頭おかしそうな奴だし」
「だからってほっとくんすか? 沙樹は毎日怖い思いしてるのに!」
 静雄は正臣を一瞥した。
「落ちつけよ」
 煙草を消して、静雄は続ける。
「このままでいいなんて誰も思ってねえよ。店の連中もちゃんと沙樹を守るために動いてる。まあそれは、うちの偉い人が沙樹の常連だからなんだけど、それはおいとくとして、しばらく俺が送り迎えすることになった」
「え、えっ、静雄さんが? なんで?」
「だから上司命令だよ。犯人捕まえたら個人的に制裁していいってよ。後始末は赤林さん、あ、上司な、その人がやってくれるって」
「た、頼もしいっすね」
 なんだか聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。
「お前はもう沙樹の彼氏とかじゃねえし、言わないでおこうかとも思ったんだけど、一応報告な」
「ありがとうございます。教えてくれてよかったです。俺もできることはしたいんで、ちょっと連絡とってみます」
「ああ……そうしてやってくれ」
 静雄は微妙な顔で正臣を見つめた。
「なんすか?」
「いや、よりを戻す気はないくせに、連絡をとることにためらいもないんだなと思って」
「は? いや、ためらいっつーか、それとこれとは別でしょう」
 沙樹とはちゃんと別れたのだ。自然消滅や、正臣が一方的に振った、というわけでもない。
「まあ、それはいいけどよ、彼女作る気がないんだったら、その酒癖の悪さどうにかしろよ」
「はあい。以後、気をつけます」
「そのせりふも前回きいた気がするんだよ」
 静雄が額を押さえる。その大きな、それでも以外に繊細な手を眺めながら、正臣は以前から気になっていたことを尋ねた。
「静雄さんはゲイなんすか?」
「は?」
 額から手のひらを離した静雄が正臣を見る。怪訝そうな顔をしている。
「いやだって、二回も、その、男相手にできるのかなあって」
 静雄の表情がみるみるうちに険しさを取り戻してゆく。
「あっ、あー、えっと、今のなし!」
 正臣は手遅れになる前に前言を撤回した。静雄は煙草に火をつけ、煙を吐き出してから言った。
「聞かなかったことにする」
 彼のその一言で、正臣はこれ以上、この話題を引き延ばすことを禁じられてしまった。少しだけ、公平じゃないと思ったが、この期に及んで静雄の逆鱗に触れる言動があってはならない。正臣は黙って帰り支度を始めた。

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