1010
 目を開けると自分の部屋じゃなかった。しかし、程よい生活感のある1DKは知らない部屋でもなかった。煙草のやにで黄ばんだブラインドも、ガラスのローテブルの脚で傷ついたフローリングも、正臣は知っている。ここは先輩の部屋だ。昨日、店に仕事を手伝いに来てくれた、そして朝まで一緒に飲んだ、平和島静雄という先輩の部屋だ。
 ブラインドの隙間から入り込んでくる日差しがまぶしい。正臣は寝返りを打って枕に顔を押し付けた。静雄の部屋の寝具には煙草のにおいが染み付いていた。彼はシャワーを浴びているのだろうか。部屋に彼の姿はない。
 昨夜、仕事が終わってから静雄と朝まで飲んで、それからラーメンまで食べてこの部屋に帰ってきた。正臣はひどく酔っていて、静雄の手を煩わせたことだろう。それからの記憶はあいまいだ。静雄の部屋には何度も来ているので、洗面所には「紀田」と名前の書かれた歯ブラシが置いてある。眠い眠いとふらふらしながらそれでも習慣で歯を磨き、適当に服を脱ぎ捨ててベッドに倒れこんだ気がする。酩酊していたとはいえ先輩の部屋でずいぶんな態度だ。付き合いも長いしさんざん世話にもなってきた。だからこそ自己嫌悪に陥る。
 正臣はゆっくりと体を起こした。また頭がぼんやりしている。伸びをするとシャツのボタンが全て開いていることに気付いた。これはお気に入りのシャツだから、皺にならないように脱ごうとして、ボタンを外したところで結局面倒くさくなったのだろうか。そう考えて、数秒後、正臣は勢いよく布団をめくって叫び声を上げた。
「お前うるせえよ」
 静雄が部屋に入ってきた。スウェットを着て、頭からタオルをかぶっている。
「ししししし静雄さん」
「あ? 人の名前を変な風に呼ぶな」
「おおおお俺っ、昨日」
「なんだよ」
 静雄は思いきり不機嫌な顔をして煙草をくわえる。その反応を見るだけでも結果がわかってしまい、正臣は泣きたくなった。
「俺、昨日、もしかして」
 正臣はシャツ以外の衣服を身につけていなかった。無論下着もだ。
「紀田」
 いらいらとした様子で煙を吐き出し、静雄は正臣を睨む。この先輩は周りからは怖がられることが多いが、普段は穏やかで優しくて、後輩の面倒見もいい人なのだ。そんな先輩が怒っている。
「二度目だぞ」
 吐き捨てるように言った静雄に、正臣はベッドの上で土下座した。
「すみませんでしたあああ!」
 そうだ。この展開は初めてじゃない。正臣は以前にも、酒が原因の悪癖で静雄を怒らせた。
「本当にすみませんでした! 一度ならず二度までも!」
「てめえほんとに反省してんのか」
「してます! 心の底からしてます! 今日から禁酒します!」
「それは前にも聞いたんだよ!」
 静雄に髪をつかまれ顔を上げさせられる。
「いい加減にしろよお前、酒乱にもほどがあんだろうが」
「いっ、痛い! 静雄さん頭痛いはげる!」
「うるせえ! 反省しろっつってんだよ!」
「だからしてますって!」
「じゃあなんで定期的に同じ過ちを繰り返すんだよ!」
「定期的って、まだ二回目じゃないっすか」
 静雄の額に青筋が浮く。
「三回目があってたまるかあああ!」


 正臣は昔から酒癖が良くない。心から気を許した相手と二人っきりで飲んだときに限り、泥酔するほどに飲むと相手を襲うのだ。ここ数年はもういい歳なこともあり、かなり厳しく己を律し、酒量にも気をつけていた。それなのに、また同じ失敗をしてしまった。
 もともと酒には強い方だし、完全に心を許せるほどの友人もそう多くない。だからこの失敗は滅多にあることではないのだが、過去、正臣は確かにその悪癖のせいで、貴重な友人を無くした経験があった。友人ばかりか以前、同じ店で働く先輩だった静雄にも手を出し、今日と同じ、いやそれ以上の剣幕で怒鳴られ、その後、「今後、お前との付き合いを考える」と真顔で言われた。
 正直、釈然としなかった。今まで、事後に気まずくなったり、口をきいてくれなくなったりという経験はあったが、ここまで露骨に非難された経験はなかった。無論、先に手を出した自分が絶対的に悪いのは承知している。しかし、行為にのった相手にも多少の後ろめたさが生じていたからこそ、そこまで激しく正臣を責めないのだろうと思っていた。
 相手が異性だったら話は全く変わってくるのだろうが、どういうわけか正臣は女の子相手にその手の失敗をしたことはなかった。酔った勢いで寝た経験はあるが、それもちゃんと両者合意の上で、意識もしっかりしていた。もちろん記憶もある。おそらく、正臣の中で女の子は女の子でしかなく、同性の友人ほど気安く接することができないからだろう。だから今まで粗相した際の相手はすべて同性だった。
 正臣はどちらかというとバイだ。女の子が好きだが、同性ともセックスはできるし恋愛となれば性別にこだわりはない。今まで男に恋愛感情を抱いたことはないので付き合ったことはないが、もしそうなったらそれはそれでいいと思っている。
 しかし、それと友人関係は全く別物だ。こだわりがないからといって友人を襲っていいことにはならない。襲うといっても、結果からして、正臣はなぜかすべての場合において女役だった。
 これがもし、正臣が一方的に友人を襲って、有無を言わせず性器を突っ込んだとしたら、きっとひどい罵詈雑言を浴びせかけられたことだろう。もしかしたら傷害で訴えられたかもしれない。だが、実際そうはならなかった。なぜなら正臣は性器を突っ込まれた側だからだ。
 しかし、正臣は静雄に怒られた。そのとき、なんで俺ばっか怒られてんだ? と思った。いや、自分が悪いのはわかっている。わかっているが、結局やったんだろ? という不謹慎な思考をとめられなかった。釈然としないまま、それでも正臣は、こんな風に自分のことを面と向かって責めてくれる静雄とならば、謝罪と弁明次第で今後も今までのような先輩後輩の関係を続けていけるのではないかと思った。さすがにこれ以上、貴重な友人(先輩だが)を失うことは避けたかったのである。
 その後、正臣の必死の釈明と猛省により、「もう深酒はしません」という誓いの元、関係の崩壊は免れた。
 あれから数年、再びその危機が訪れようとしている。

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