揺れる、沈む、溺れる / 仁王雅治



その日はたまたま部室に忘れ物をしてしまった。
特段急ぎの用事でもなかったはずなのに頭の隅から離れないせいで家に着いたというのにわざわざ学校まで引き返す。まばらになった生徒たちに逆らうように学校の門をくぐれば、生徒完全下校時刻の寸前だった。
守衛に見つからないように息を潜めて歩みを進めればちょっとした怪盗ごっこのようで心が躍る。しかし、思ってたよりもあっけなく部室についてしまい、他の部員に内緒で作った合鍵で扉を開けて任務は遂行された。
なんだか物足りない俺は夜の学校を探検してみたくなり、手始めにテニス部の部室からそう遠くも無いプールを目指した。

水泳部は今年新入部員が少なく、廃部寸前だと噂で聞いた。まぁ、俺にとってはどうでもいいことだが。ぼんやりとそんなことを考えながら温水プールのある施設の前で歩みを止める。
様子がおかしい。鍵がかかっているはずの扉は空いており、不審に思った俺は中を覗こうと静かに扉をスライドした。

瞬間、目の前の光景に息を飲む。
明かりのない室内では月の光が異様に明るく感じる。まんまるな月を反射させた水面が揺らげば宝石のようにキラキラと飛び散る水飛沫から現れる人影。長い髪をかき上げて動きが止まる女の表情は逆光で見えない。安直な表現しかできない俺は、まるで、人魚だと思った。

「誰かいるの?」

不安そうな声が俺の鼓膜を揺らし、非現実的な世界から一気に現実へと引き戻された。さて、どうしようか。人一人分通れるほどのスペースを開けて、右足を踏み出す。背後で扉を閉めるのも忘れずに。一歩一歩近づけば先ほどは見えなかった女の表情が次第に鮮明なものへと変わる。こちらが驚くほどに無表情で、その女の思考を読めないことを悔しく思う。
彼女は制服のままプールに浸かり、顔を向けるだけで動こうとはしなかった。

「だれ?」

微かに不安を滲ませこちらを覗く二つの瞳に俺は不敵な笑顔を映した。

「悪い魔法使いぜよ」
「……」
「無言はやめんしゃい」
「変な喋り方」
「魔法使いじゃからのぅ」
「理由になってない」
「こりゃ手厳しい姫さんじゃ」
「姫じゃない」
「じゃあお前さんの名前は?」
「知らない人に名前は教えない」

なんとか会話のキャッチボールができていても、相変わらず彼女のポーカーフェイスの下にある感情は読み取れない。というか、俺の存在を認知していない女がこの学校にいることに驚き、更に興味を持った。

「これでも結構有名だと自負しとったんじゃが……」
「なんの話?」
「こっちの話。俺は仁王雅治……これでおまんも名乗ってくれるかのぅ?」
「……夢野奈々子」
「奈々子はなんで制服で泳いどったんじゃ?」
「水着に着替える時間も惜しかったから」
「おまん水泳部か?」
「そう。じゃなきゃここで泳がない」
「それもそうじゃの」

取り止めのない不毛な会話は時間の流れをゆっくりと進めてくれる。しかし、何かに気づいた彼女は、口元に人差し指を当て俺に話を中断するようなジェスチャーを見せた。泳いでプールサイドへと近づいた彼女は突然俺の腕を掴むとそのままプールの中へ引き摺り込んだ。
バランスを崩した身体は変な体勢のまま温かい水の中へと吸い込まれるように落ちていく。

「ばっ!何す__」
「人が来る、潜って」

突然彼女の小さな掌が俺の唇を覆って言葉を静止させる。微かに小さな光が窓の外に揺れてるのを確認した俺は大人しく彼女の指示に従った。

間もなくして、扉の開く音と人の足音が聞こえれば、望んでいたスリルに柄にもなくドキドキした。酸素が失われ、呼吸が苦しくなる頃、彼女は俺の口を塞いでいた掌を離して水面へと浮上した。俺も彼女に続いて水面から顔を出し、肺いっぱいに新しい空気を取り込んだ。

「ぷは……守衛が来るとはなかなかのスリルじゃったの」
「怒ってないの?」
「何のことじゃ」
「巻き込んで、制服濡らしちゃった」
「おまんと話してプールに入ったき、俺も共犯じゃ。気にせんでいい」
「ふふ、ありがとう……雅治」

月の明かりに照らされて微笑む彼女の姿は儚く、今にも消えてしまいそうで、絵画を切り取ったように美しかった。俺はそんな彼女に見惚れ、華奢な身体を抱きしめたい衝動に駆られる。
なんじゃ、この気持ちは。

「おまん、名前……」
「雅治も私のこと名前で呼んでたから。だめだった?」
「……特別に許しちゃる」
「?意味わかんない」
「そろそろ帰るぜよ。送っちゃるき」
「家近いから送らなくていいよ……あ」
「今度はなんじゃ」
「水滴と雅治の髪が月の光でキラキラして……なんていうんだろ、綺麗」

近づいてきたと思えば突然突き放され、不意にかけられる言葉は素直だからこそタチが悪い。
言葉に詰まり、次第に頬へと熱が集中する。「じゃあ、帰ろっか」そう彼女は呟くとプールサイドへと泳ぎ、更衣室に向かって歩いて行く。水の中に一人、取り残された俺は彼女への恋心を簡単に自覚してしまった。

どうやらこのストーリーでは、俺はペテン師でも魔法使いでもなく、人間に一目惚れをする人魚の方だったようだ。

END

11/14:追記 エピローグ




[contents]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -