「じゃ、おやすみ」
なまえさんは、俺をいったいなんだと思っているのだろう。
毎度俺の体にもたれて、無防備に昼寝を始めるなんて。いくら食い意地が張っていても、いくら見た目がこんなでも、いくら伏見に三流と呼ばれても、俺は正真正銘の男である。あつい脂肪に感覚がにぶらされているとはいえ、彼女の女特有のやわらかさは感じるし、いいにおいはするし、その気がなくてもやましい心は少なからず浮上するものだ。
つまり役得。これで満足。そうやって自分を御するのは慣れたようで難しい。まだ幼いアンナならまだしも、彼女は歳の近い女である。ただのほほえましさでは済まされない。
(けどここで手ェだしたら信用がた落ちっつーか。なまえさんもう絶対寄ってきてくんないだろうし)
役得であればの特権を盾に、されるがままになってはもどかしい思いの繰り返し。とんだ悪循環だ。どうせならきちんとした関係を作りたいものだが、なまえさんはどうも追われたら離れるタイプのようだし。俺自身、思い詰めるほど彼女に焦がれてるわけでもなし。ああ困った、解決策が見いだせない。俺は大人しく、彼女の布団になるしかないようだ。
それが、半年前の冬のこと。
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様子がおかしいなと思ったのは、数日前の話。俺が夏バテで食欲を減らしている間に、彼女は旅行で1ヶ月ほどバーに来なかった。だから久しぶりの来店には俺も他のやつも喜んだものだが、彼女は俺を見るなり眉間に皺を寄せた。
「誰あんた」
言葉を選ばないストレートさに俺の笑顔はひきつったが、よくあることといえばそうだ。八田さん曰く、夏バテした後の俺はかなり印象が変わるらしい。だからその旨を包み隠さず話したところ、彼女は雰囲気からなんとなく俺を察したらしく「へえ」とすこしだけ目を丸くしていた。珍しい表情に、ちょっぴり心がくすぐられたのは言うまでもない。
問題は、その後だった。なまえさんが俺に近寄ったのは、たった一回きりである。一日ではない、一回だけ。いつものように俺の膝に乗ったかと思えば、すぐに怪訝な顔で立ち上がってしまった。以前はなんと言おうと俺をことごとく座椅子代わりにしてた彼女が、きちんとソファやカウンターに腰かけている。奇妙な光景と感覚に、俺はどうしても落ち着かなかった。
当然、周りのやつらも不思議そうにしていたが、ここぞとばかりに自分アピールを始め出すやつまでいて、背中に変な汗がつたう。
なにか粗相でも犯したか。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていってしまう。近寄られても離れられても、俺の悩みは尽きないらしい。二週間ほどたって、意を決した。他のやつらがいない隙を狙って、久しぶりに彼女の横を陣取る。なまえさんはちらりと視線を寄越したものの、また手元のゲームに没頭してしまった。
やっぱり、落ち着かない。
「なまえさん、変な話してもいいっすか」
「内容による」
「え、えー……まあとりあえず。あの、俺なんかしましたかね」
彼女は画面から顔をあげて、きょとんとして俺を見た。最近ぶつからなかった視線をようやく貰えて、なんだか体がむずむずする。
「あんたが私に? なんかしたの?」
「いや、俺はしたつもりないんすけど」
「じゃあその通りよ。私も知らない」
「えっな、ならなんで最近俺の膝のってくれないんすか!」
飛び出した言葉にはっと口を抑える。ここまでストレートに言うつもりはなかった。ただ彼女があまりにも普段通りだから、今まで溜めに溜めていたもどかしさが堰をきってしまったというか。なんというか。
じわじわ広がる顔の熱のまま、また丸くなった彼女の視線を受け止めなければいけないなんて。羞恥プレイもいいところ。早く何か言ってくれればいいのに、聞こえるのは彼女の手元の音楽だけ。気まずいことこの上ない。
やがてコチリと、古時計の針が進んだ頃。俺は心底驚いた。なまえさんが、見たことないくらいやわらかく唇をゆるめたのだ。いつもの嫌味を一切含まず、純粋に、おかしそうに肩を震わせているではないか。
羞恥心なんてくそくらえ。数分前の俺、よくやった。再び熱をあげていく顔も気にならないくらい、心臓の音が早くなる。これは、もしや。
「いまのあんた、座り心地悪いのよ」
甘い希望なんて、軽々しく彼女に抱くもんじゃない。
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