(あほっぽいバダップさま)
「こっちに来るな」
バダップさんは決して気分屋じゃない。時々、主語や理由とか、大事なものを抜かして喋るから変に思われるだけで、ほんとうは根がまじめな優しい人だ。
けれど、突然ふりかざされた拒否の言葉に、わたしの脳は考えることを止めた。全身も硬直して、嫌な汗がふきだした。
「こっちに、来るな」
噛みしめるように、もう一度繰り返される。いくら大事なことだからって、二回も言われればさすがのわたしも悲しい。
ほぐせない表情筋はそのままに、「わかりました」と一度うなずく。少し離れた所では、エスカバさんたちが会議中のはず。くるりと背を向けて、そちらへ向かって走ろうとした、ら。
「そっちには行くな」
すかさず、バダップさんから牽制がかかる。悲しいかな、わたしは声だけでも従順になれてしまうのだ。その場でぴしりと気を付けの姿勢。前にも後ろにも進めず、ふり返ることもままならない。
こっちとそっちがダメならば、目指すべきはあっちだろうか。
「あの、バダップさん」
「なんだ」
「わたしはどうしたらいいんですか」
「自分で考えろ」
「そんな勝手な!」
また、口答えしてしまった。
慌てて口を抑えても、背後から険悪なオーラが迫る、のがいつも通り。しかし、今日は何も感じない。それどころか、妙に困惑した空気を感じた。
違和感に怯えながら、そうっと後ろを見やる。バダップさんは、相変わらずの仏頂面。赤い瞳がまっすぐにわたしを捉えていて、すこし肩がびくついた。
「正直、俺にもわからないんだ」
視線を逸らさずに、バダップさんが呟く。きょとんと、見返してしまった。
「わからないって、なにがですか」
「最近、きみといると非常に息が苦しい」
「え?」
「動悸が乱れ、思考が落ち着かない。何事にも集中できなくなってしまう」
「は、え、病気、ですか?」
「違う。至って健康だ」
相談事をもちかけられるなんて、思ってもみなかった。しかも、原因はどうもわたしにあるらしい。定番の流れでいけば、思いつく展開もいくつかある。だが、まさかこのわたしたちに起こり得るとは、考えにくい。
言い淀むわたしなどお構いなしで、バダップさんの吐露は続く。
「だが、だからと言って距離を離せば、きみは他の奴の元へ行くだろう。それを見ていると、無性に腹が立つ。近づくと駄目、離れても駄目なら、俺は一体どうすればいいのか。全くと言っていいほど、わからない」
「えーと、はあ……そう、なんですか……」
もしかしなくとも、なんだか、空気が変な風に流れている?
グラウンドの水たまりのような、バニラと味噌汁が手違いで混ざってしまったような。どろっとした、言い様ない奇妙さが、今わたしたちを取り囲んでいる。
無意識に一歩後退った瞬間、ぱしっと左手をとられた。いつにも増して真剣な赤色が、迷いなくわたしを見下ろしている。その先を、聞いてはいけない気がした。
「なあ、これが恋というやつなのか?」
背後で誰かが飲み物を吹いた音がしたけど、確認する余裕なんてない。きっと赤と青が混じりあっているだろうわたしを見て、バダップさんは、ようやく瞬いた。
マルメロの恐怖
(マルメロの花言葉は「幸福、誘惑」/110911)