「逃げるんですか」

 わがままばかりの子供の真似は得意なのに、道理を見越した大人のふりができない私は立派な子供だ。上目遣いなんて可愛さもなく、下からガンと睨み付けてやれば、響木監督は年相応に疲れた笑いを浮かべていた。

「あのなあ、もう少し年寄りを労ってくれねえか」
「響木監督は十分現役です。まだまだ引退なんてさせてあげません」
「これまた随分とスパルタなんだな」
「瞳子監督に影響されました」
「そうかいそうかい」

 湯切り網に麺を乗せて、二、三度リズミカルにお湯を断つ。特製スープが並々と注がれた椀にそのまま麺を横流し、ごとり、私の目の前に用意される。

「私、今日お金持ってませんよ」
「俺の奢りだ。それ喰ったらとっとと帰んな」
「……いりません」
「残すなよ。自分が作ったもん残されると、けっこう傷つくんだぞ」
「わかりましたよ、いただきます」

 取り出した箸をパシリと割る。持ち手が八対二くらいの割合に別れてしまった。むっと眉間に皺を寄せると、カウンター越しに響木監督のぬるい眼差しが注がれた。じゃぽん、茶色い液体に箸を大袈裟に突っ込んだ。

「久遠が、そんなに気に入らないか」

 シンクに水が流れる音がする。洗い物でも始めるつもりか。淡々とした監督の語り口に合わせて、いいえ、と一言打ち返す。

「久遠監督はすごい人だと思います」
「そうか」
「瞳子監督も、すごい人でした」
「そうか」
「だから、すごいお二人を見つけた響木監督は、もっとすごい人だと思ってます」

 一束、麺を掬い上げて口に運ぶ。できたて故にあらぶる湯気に、思わず視界がぼやけた。それに少し噎せていたら、涼しげな透明のコップを差し出された。恐る恐る受け取って、一気に飲み干す。

「うまいか」
「……はい」
「そうか、よかった」

 ふり向きもせず、響木監督が頷いた。水道の水は止むことなく、延々とシンクを濡らしていた。
 私の目尻も、依然として濡れたまま。



しょっぱい水の名前はなあに



(110711)


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