※土方さん社会人、総司学生
悪い――――そのたった一言で、全てを丸く収めようとされた。
「急に接待が入っちまったんだ」
開いた口が塞がらなくて、聞こえてきた言葉が信じられなくて、僕は呆然とその場に立ち尽くした。
「それ…どういう…………」
「悪いが、今日出掛けるのは延期してくれねぇか?……というか、延期してくれ」
「そんな…だって今日僕……楽しみにしてたのに…………」
「悪いな」
僕は慌ただしく高級なスーツに着替えている土方さんを、呆気にとられて眺めた。
「悪いって……今日、一周年なのに…」
朝から…いや、一週間以上前から、ずっと楽しみにしていた。
今日は、付き合いだして一周年目の、言わばちょっとしたアニバーサリーだった。
それで、いつも多忙を極める土方が、この日の為にわざわざ時間を作り、レストランを予約して食事をしようと言ってくれていたのだ。
それら全てを、土方さんから提案してくれた。
土方さんが忙しいのは重々承知していたし、まさかそんなことを考えてくれているとは思ってもいなかったから、僕はそれだけで充分に嬉しかった。
平日だし忙しいだろうから、無理にしてくれなくてもいいと、一度は僕から断ったほどだ。
俺がやりてぇんだと言って聞かなかったのは、他でもない土方さんなんだ。
だから僕は、当然楽しみにしていた。
期待してしまった。
心のどこかでこうなる予感がしていたような気もするけど、それでも期待していた以上、裏切られた、と感じてしまうのはごく自然なことだと思う。
「…接待って、何ですか」
「大事な取引先なんだ。これで契約にかこつければ、社長だってきっと満足する」
土方さんは、しゅるしゅるとネクタイを締めながら言った。
土方さんが記念日を忘れていたとか、僕を蔑ろ(ないがしろ)にしているとか、そういうわけじゃないことは分かる。
何しろ、今回の約束は、土方さんから言い出したことだったんだから。
それに、この接待がいかに重要なものであるかは、土方さんの少し緊張した様子を見ていればすぐに分かった。
土方さんが嘘を吐いていて…例えば浮気しに行くとか、そういうわけじゃないことも、一目瞭然だ。
土方さんには何の落ち度もなくて、悪いのは……差し詰め取引相手ってところかな。
学生の身分では、我が儘を言って土方さんの仕事の邪魔をするなど、到底できないことだった。
僕は悔しさ、悲しさ、寂しさと言った、一人ではどうすることも出来ない感情の遣り場に困って、むっつりと黙り込んだ。
土方さんが悪い訳じゃないから、土方さんに当たり散らして怒ることもできない。
かと言って、僕の受けたショックは、簡単には和らいでくれそうにない。
「何時に帰ってくるんですか」
クローゼットをがさごそやって、スーツを探している土方さんを見ながら僕は言った。
「…相手次第だな」
「そう……ですか…………」
何と言えばいいのか分からない。
ここで拗ねたり寂しいと我が儘を言ったって、土方さんを困らせるだけだから言わない。
僕にだって、それくらいの良識はある。
「あの……スーツなら…これが似合いますよ」
僕がハンガーに掛かっているスーツを取って差し出すと、土方さんはそれを無言で受け取った。
代わりに手に持っていたスーツを僕に渡して、ぽん、と肩を叩いてきた。
何だか誤魔化された気分になった。
「じゃあ、行ってくる」
玄関まで見送りに行くと、土方さんはもう一度だけ「悪いな」と言った。
「……気をつけてね」
僕は、泣きそうになりながらそう呟いて、ドアの閉まる音を、半分放心しながら聞いていた。
土方さんの顔なんて、全く見れなかった。
*
目を開けると、目の前には静まり返ったリビングが広がっていた。
ぼうっとする頭のまま、取りあえず目を擦る。
どうやら、あの後ソファーで眠ってしまったらしい。
「土方さん………」
おもむろに立ち上がると、ぱさりと何かが落ちた。
腰を屈めて拾い上げると、それは土方さんのスーツだった。
あの時土方さんから受け取ったものだ。
「…………」
今は一体何時なのだろうと、僕はスーツを握り締めたまま寝室へ行った。
窓の外は真っ暗で、時計を見ると、深夜の三時を示していた。
あれは夕方だったし、大分寝てしまったようだ。
土方さんは、まだ帰っていないんだろうか。
玄関まで行って靴を確認すると、土方さんが履いて出掛けた靴はないままだった。
僕の靴だけが、玄関にぽつんと置いてある。
……こんな遅くまで、一体今どこにいるんだろう…
大事な得意先の接待とやらは、まだ続いているんだろうか。
そんな訳ないと思ったのは一瞬で、キャバクラやらカラオケやら何やら、朝方までやっているお店はいっぱいあることに気付いた。
まさか、このまま帰ってこないなんてことはないよ……ね?
僕は急に不安になって、きゅっとスーツを握り締めた。
何かしていないと、気が紛れない。
お腹も空いたし、夜食でも作ろうかと思い立った。
土方さんが帰ってきた時にお腹が空いているかもしれないから、朝食だかなんだか分からないけれど、土方さんの分も作ることにした。
土方さんの好きな和食にした。
必死になって包丁を動かしながら、溢れてくるのは涙ばかりだった。
気を紛らわせたいのに、何をしていても土方さんが気になってしまう。
誤魔化せば誤魔化すほど、土方さんのことばかりが頭に浮かんだ。
「ひじか、た、さん………」
急に約束を破られて、本来なら僕は土方さんを怒っていて然るべきだ。
けれど心に浮かんでくるのは、寂しいとか悲しいとかそういう類の感情と、そして、土方さんへの恋しさばかりだった。
土方さんに会いたかった。
傍にいてほしい。
ぎゅっと抱き締めて、いつものようにその声で名前を呼んでほしい。
でも、今ここに土方さんはいない。
僕は不安を隠すように深々と溜め息を吐くと、料理に意識を集中させた。
きっと、もうすぐ土方さんは帰ってくるはずだ。
*
けれど、待てど暮らせど土方さんは帰って来なかった。
すっかり冷めてしまった二人分の食事を眺めながら、僕はテーブルに突っ伏す。
手にしっかりと土方さんのスーツを握りながら、ぐうぐうなるお腹にも気付かないふりをして、一時間、二時間、と経過していくのを、じっと耐えて待っていた。
ここは、土方さんの家なんだ。
そのうち絶対帰ってくる。
しかし、空が白み始めても、土方さんは帰ってこなかった。
少しでも物音がすると、瞬時に玄関へすっ飛んで行くのに、全てが空振りに終わった。
ちゃんと食べたり寝たりしてるかな…。
事故に遭ってるとか、ないよね…?
連絡の一本すらないなんて、初めてのことだ。
もしかしたら、本当に土方さんは二度と帰ってこないのかもしれない。
不安に揺れる心にも、気付かないふりをした。
何もかも、もう忘れてしまいたかった。
何もしたくない。
ただ、土方さんに会いたかった。
たった一日会えないだけで、こんなにも心がかき乱されるものかと思う。
帰ってきたらなんて言おうか。
お帰りなさい?
それとも、心配したじゃないですか?
ごめんなさいって、謝るのもいいかも知れない。
それから、僕はふらりと立ち上がった。
何か――現実を忘れさせてくれる何かが欲しい。
何となく期待して、僕は冷蔵庫を開けた。
「あった」
毎年お中元か何かで送られてくるお酒の残り。
土方さんが余り飲まない所為で、それは多種に渡って大量に残っていた。
これなら、現実を忘れることも出来るだろう。
僕は二、三本缶を掴むと、ダイニングの椅子に戻って、プルトップを開けた。
ぷしゅっ、と小気味よい音がして、しゅわしゅわと泡が溢れる。
法律を破っている罪悪感だとか、そんなものは一切なかった。
法律なんて、くそくらえだ。
一気に中身を煽ると、大して美味しくもないアルコールは、よく身体に回った。
空腹時にお酒を飲むと酔いやすいというのは、どうやら本当らしい。
まだ一本も飲みきっていないのに、視界がぼやけ、意識が朦朧としてきた。
もし、僕が酔っている間に土方さんが帰ってきてくれたら万々歳だし、そうじゃなかったら二日酔いで寝ていられるから、どの道何も考えなくて済む。
もし、このまま衰弱死してしまったとしても、それはそれでいいかな、なんて思った。
最後に、缶に残っていたお酒を飲み干すと、僕はダイニングに突っ伏した。
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