「あれ、土方さんだ」
裏口から離れへ入っていくと、布団の上で黒猫をあやしていた総司が、ぱっと顔を上げた。
「おめぇ、それ部屋の中に上げるなって、何度も言われてなかったか?」
「"それ"って酷いな。僕の大事なお友達なのに」
寂しそうに呟く総司を見て、胸がぎゅっと締め付けられる。
こんなところに隔離されて、顔を合わせる人といえば、総司の面倒を見てくれている植木屋の御隠居くれぇなもんだ。
新撰組の仲間は誰一人いないし、たった一人の肉親、ミツさんだって、もうすぐ一家揃って北上してしまう。
寂しいなんてもんじゃないだろう。
そしてこの俺も……
今日は別れを告げに来た。
一人残される総司の孤独や不安を思うと、心が張り裂けそうだった。
「あ……今日も洋服なんですね…」
「ん?…ああ、これ……この方が動きやすいからな」
「そう…」
本人はおくびにも出していないつもりなんだろうが、少し曇った総司の顔を、俺は見逃さなかった。
「…ま、慣れねぇし着るだけで骨が折れるから、好きじゃねえけどよ」
慰めるようにそう言うと、総司は悲しそうに笑った。
「おめぇのも誂えてあるだろ?…いずれあれを着て、一緒に戦うことになるんだからな」
部屋の隅に控え目に置かれた大ぶりの木箱には、総司の為に仕立てさせた洋服が入っている。
総司の翡翠の目に合う色を、俺が選んだ。
例え着ることはなくても、総司の分も作っておきたかったのだ。
「そしたら…僕も髪を切らなくちゃならないかな?」
「総司はもともとそこまで長くねえからなぁ……」
「それにしても、あの綺麗な髪を切っちゃったのは惜しかったなぁ…まさか本当に切っちゃうなんて」
「…はっ……すっきりするもんだぜ?」
「せめて、一房くらい僕にくれればよかったのに」
「んなもん貰ってどうすんだよ」
そう言えば、総司は肩をすくめて笑った。
「土方さんのものは何だってほしいから…」
こほ、と小さく咳き込んだ総司を横にならせるためにも、俺は黒猫を総司の手から取り上げた。
「あ…」
「俺が来てやったんだから、猫はもういいだろ」
そっと庭に下ろしてやると、黒猫はふい、とどこかへ行ってしまった。
「あの子、すっごく気まぐれなんですよ。誰かさんと同じで素直じゃないし」
「おめぇそれ自分のこと言ってんのか?」
「嫌だなぁ…僕は素直ですよ」
そう言って笑う総司の顔は、げっそりとやせ細っていた。
……やつれた。
「おめぇ、すっかり病人が板に付いたな」
態とおどけたように言ってみれば、伊達に病人してませんよ、とこれまたおどけた返事を返された。
「どこら中官軍だらけだろうに、わざわざ来てくださってありがとうございます」
「別に平気だよ。そこまで顔がわれてるわけでもねえしな」
実際、外は官軍だらけだ。
ここへは、相当気を配りながら来ている。
俺なら仲間もいるし、例え鉢合わせても応戦できるだけの戦力があるから大丈夫なのだが、総司はそうはいかない。
元新撰組幹部がこんなところに潜んでいると分かれば、官軍が放っておきはしないだろう。
そうなれば、総司は無事ではいられない。
それだけは避けたかった。
…最期ぐらい、ゆっくり療養して、今まで犠牲にしてきたもの――平穏や、それに…幸せなんかを、少しでも味わってもらいたった。
「近藤さんは、元気?」
「あぁ」
突然聞かれて、上手く取り繕えた自信がない。
"近藤"と言われたら、取りあえず肯定の返事をしようと、ここに来るまでに何度も練習した。
その後で、気持ちを落ち着けてから、仕事が忙しいだのなんだの言って誤魔化すつもりでいた。
近藤の死を隠すのもまた、最期に余計な悲しみを増やしてほしくないからだ。
「そう?…元気ならいいんだけど。総司が心配してたって、ちゃんと伝えてくださいよ?」
「わかってるよ。近藤さんも、総司のこと心配してたからな。早く元気になって戻ってこい、見舞いに行けなくてすまない、って」
「ほんと?それじゃ………あぁ、大切な時に使い物にならなくてすいません、とも言っておいてくださいね…」
しゅん、とうなだれる総司に頷いてみせた。
「おめぇの言葉は伝えるが、近藤さんは、一度たりともおめぇを"使い物"だと思ったことはねえよ」
沈黙がちくちくと心を刺激する。
何か話そうと思っても、口を開いた途端に心の叫びが堰を切ったように溢れ出しそうで怖いのだ。
本当はもう少し後で渡そうと思っていたのだが、仕方なく懐を弄って、土産を取り出した。
「これ……おはぎと迷ったんだが、彼岸の時期でもねぇしな」
総司のために買ってきた金平糖の包みを差し出す。
「あ…金平糖!」
弱々しくもぱっと顔を輝かせた総司に、少なからず安堵する。
どうせろくに食べていないはずだ。
好物なら、ちょっとは食べてくれるかと思った。
「嬉しい。ありがとう」
……恐らくこれが、俺が総司に送る最後の金平糖になるのだろう。
「金平糖くらい、いくらでも買ってやるさ」
更に続けようとした俺を、総司が遮った。
「土方さん、今日は何の御用でいらしたんですか?」
「ん……」
咄嗟に上手く言葉を紡げない。
本当はもう少し世間話に花を咲かせて、本題ははぐらかしておきたかったのだが、まさかただ見舞いに来ただけだと偽ることもできねえし、どうしたものかと途方にくれて総司を見た。
「土方さん、気付いてる?」
「あ?」
「今ね、土方さん、姉さんと同じ顔してるんですよ…」
「は?……お光さんと?」
「うん……僕にお別れを言いに来た日の、姉さんと」
同じ顔、と総司は呟いた。
はっとした。
病人てのは、妙に鋭い感覚を持つものらしく、総司のそれは、普段に輪をかけて敏感だった。
「土方さんも、行っちゃうのかな」
そう言う総司の目は、遠く虚空を映していた。
「つまらなくなるなぁ……からかいがいのある人が…いなくなっちゃうよ」
そう言って健気に笑っている。
総司………
おめぇはいつもそうだ。
自分が辛くなるのも構わずに、人が悲しい顔をしている時は、必ずそうやって偽りの笑みを浮かべてやがるんだ。
そうして、自らをどんどん孤独へと追い込んで。
「どちらへ行かれるんですか?」
そこまで言われたら、最早誤魔化すことなど出来なかった。
「………………北」
「北?」
「まずは宇都宮……最終的には…多分函館」
「函館?そりゃどこですか?」
「蝦夷だよ」
「じゃ………海を渡るんですね…」
総司の顔が、どんどん暗く沈んでいく。
沈めているのが俺だということがたまらなく辛かったが、だからと言ってどうすることもできなかった。
「僕、なるべく早く追いつきますね」
しかし、総司は、満面の笑みで言った。
総司が笑顔になればなるほど、その向こうに潜む悲しみが深くなっていくようで、見ていられない。
「だって、みんないるんでしょ?…近藤さんも、一君も、平助も、佐之さんも…」
「ああ……みんな一緒だ…」
嘘だ。
本当は、原田と永倉とは既に袂を別っていたし、斎藤らは一足先に会津へ向かった。
「そっか…嫌だな。みんな僕のこと、忘れてないよね?」
「当たり前ぇだろ。早く直して追いついてこいよ?」
「勿論ですよ」
でも、総司も気付いていたはずだ。
恐らくこれが、永遠の別れになることぐらい…
「総司、元気でな」
いざ、別れとなると、何を言うべきなのかさっぱり分からなかった。
なるべく簡潔に、いつものように別れようと思った。
「はい。土方さんもお気をつけて」
「ちゃんと食べろよ?」
「土方さんこそ、また無茶な働き方なんてしないでくださいよ?」
「はは…総司には適わねえな」
「…みなさんに……よろしくお伝えください」
「おう」
違う。
こんなことが言いたいんじゃねえんだ。
もっともっと大切なこと……
置いていってすまねえとか、
別れたくねえとか、
愛してるとか、
そういうことを言うべきなのに。
何一つ肝心なことは言えなかった。
「じゃ、あまり遅くなっても心配されるし、そろそろ行くからな」
「…うん。じゃあ、また」
「おう。またな」
総司の顔なんて、見られなかった。
少しでも長く、その顔を記憶のうちに留めておきたいと思うのに、どうしても顔を上げられなかった。
「…土方さん」
ふと、この声に名を呼ばれるのも、これが最期かな、と思った。
誘われるようにゆっくり振り返ると、顔中しわくちゃにして、頑張って笑顔を浮かべている総司と、目があった。
すごく儚くて、すごく綺麗な笑顔だった。
「総、司………?」
「あの……一度だけ……一度でいいから……もう一度、抱き締めてくれません、か……?」
躊躇うように訥々と話す総司に、俺は堪えきれずに手を伸ばした。
「…総司……おいで」
俺は布団から這い出てきた総司を両腕にしっかりと抱き締めた。
恐らくは……これが最後の抱擁なのだろう。
今は、少しでも長い間その温もりを感じ、五感で記憶の中に刻みつけておきたかった。
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